江の島に来るのは、2度目。
 去年の……やっぱりアレも夏だったと思う。
 そのときは水族館じゃなくて、江の島自体の散策だったんだよね。
 天気のいい、今日にとてもよく似た日。
 混雑を見せる134号から、信号を右折して江の島へ。
 両側に広がる海がきらきらと輝いていて、とてもきれいだった。
 小さなころから、情報としては持っていたモノ。
 彼氏ができたらどうしても行きたいと思っていた場所だから、嫌だという彼に何度もお願いして連れてきてもらったんだよね。
 ……まだ、1年経ってないはずなのに。
 なんだか、とてもとても昔のことのように思える。
 でも、あのときのことは、今でも覚えてる。
 ひとつひとつ……はっきりと色濃く。
「……はー……。エスカレーター使うよね?」
「使いたい、です」
 どれくらい歩いただろう。
 結構いい運動だと感じる距離でかつ、坂道。
 ……うぅ。ちょっと苦しい。
 でも、行きたいと言ったのは私。
 ここまで彼に付き合ってもらっておいて、やっぱりいいですとは言えなかった。
「……はぁ」
 思わず大きく息をつきながら、今上ってきた道を見下ろしてみると、やっぱり人が多くて混雑していた。
 でもそれは、ここも同じ。
 こぞってチケットを買っている姿を見ながら、苦笑が漏れる。
「はい」
「あ。ありがとうございます。……あ。祐恭さん、お金――」
「いらないよ?」
「でも、あの……」
「もらわないから」
「……ありがとうございます」
「いいえ」
 チケットを差し出してくれた彼に慌ててお財布を取り出すと、表情を変えないままでさらりと断られてしまった。
 こういう、スマートなところは……やっぱり彼らしい。
 強く言われたわけじゃないのに押しが強い感じがして、少しだけおかしかった。
「……ふあ。楽……」
「まぁ、難を言えば景色が見えないところかな」
「あ。確かにそれはちょっともったいないですよね」
「階段のほうがよかった?」
「ぅ。それは……ちょっと……」
 さらりと言われた言葉に思わず詰まると、小さく笑った彼が『俺も』と呟いた。
 長い長いエスカレーター。
 でも、このお陰で何十分も階段を上がらなきゃいけなかったところが、数分で着いてしまう。
 もちろん、彼と一緒にいられるのは楽しいし、時間が長ければ長いほど嬉しいと思う。
 …………だけど、階段はちょっと……きついかな。
 帰りはエスカレーターではなく徒歩で下ってくるので、それでも十分だと思えるし。
「龍恋の鐘……実は、学生のころ行ったんだよ」
「……え……?」
 手すりに手を置いて私を見た彼に、目が丸くなった。
 恋人の丘にある龍恋の鐘を鳴らすと、カップルは別れない。
 そんな言い伝えを知っていたから、彼がその場所へ行ったと聞いて、少しだけどきりとした。
 もちろん、学生時代彼が付き合っていた人がいることは知っている。
 だけど、その話は去年ここに来たときの彼からは、聞かなかったから……素直に驚いた。
「……と言っても、男同士でね」
「そうなんですか?」
「うん。優人がどうしても見たいって言い出してさ、仕方なく行ったんだよ。4人……5人くらいいたかな」
 ひとつ目のエスカレーターを降り、ふたつ目のエスカレーターへ。
 先ほどと同じように1段上に乗った彼が、私を振り返って苦笑を見せた。
「でも、どうして優くんが……」
「当時付き合ってた彼女がどうしても行きたいって言ったらしくてさ。だけど、その子よりも前に付き合ってた彼女とつけた鍵が今も残ってると困るから、って……それを確かめたかったらしいよ」
「……優くんたら……」
「ホント、そのときは孝之も今の羽織みたいな顔してた」
 もぅ、と眉を寄せて呟くと、くすくす彼が笑った。
 でも、それにつられてか私も笑ってしまう。
 嬉しかったから。
 もちろん優くんに対してではなく、彼がこの話をしてくれたということが。
 去年の彼からは聞くことのできなかった、江の島にまつわる話。
 私の知らない、学生時代の彼の思い出。
 少しずつとはいえ、彼の中にある思い出と自分の思い出が重なってくれるのは、なんだかとても嬉しかった。
 ……やっぱり、彼とここに来てよかった。
 私の中にある彼の情報が、広がっていく。
「……え?」
「いや、嬉しそうだなと思って」
「えへへ。嬉しいですよ?」
「そう?」
「はい。……祐恭さんと一緒に居られるのは、やっぱり嬉しいです」
「っ……」
 手を繋いだまま3つ目のエスカレーターに乗り換えながら、満面の笑みを浮かべる。
 すると、目を丸くした彼がふいと視線を逸らした。
「……祐恭さん?」
「…………かわいい」
「っ……ぇ」
 口元に手を当ててそっぽを向いた彼の頬が、わずかに赤くなってる気がして……どきりとする。
 ……かわいい、って言われちゃった。
 それも嬉しいけれど、彼がこんな反応をしてくれたことが、正直とても嬉しい。
「……あ」
「降りるよ」
 私に背を向けたままの彼が手を引いてくれてすぐ、これまでとは違う開けた景色に目が奪われた。
 降りてすぐ、ピンク色の鮮やかな絵馬が並ぶここは、江島神社の辺津宮(へつのみや)
 島内に3箇所ある江島神社のお宮のひとつで、本社にあたる場所。
「……わ、沢山」
「羽織には必要ないよね?」
「……ないです」
 ピンクの絵馬は、縁結びの絵馬。
 もちろん、私には必要のない絵馬だ。
「……何?」
「えへへ」
「…………なんか、恥ずかしいんだけど」
「どうしてですかー」
 まじまじと彼を見つめたまま境内を歩き、次のエスカレーターを目指す途中。
 合った視線がまた、ふいと逸らされた。
 ……祐恭さん、なんかかわいい。
 こほん、と咳払いする姿が新鮮で、ついにまにまと笑みが浮かんでしまう。
 …………あ。
 もしかして、祐恭さんっていつもこんな気持ちだったのかな。
 ふいに、いつも私のことをからかうようにいたずらっぽく笑ったり、言ったりしてきたときの彼が浮かぶ。
 どうしてそんなふうに言うんですか、と聞いたら決まって彼は答えたっけ。

 だって、かわいいから。

 それを聞いてまた恥ずかしくなってしまうのに、彼はくすくすと笑っていた。
 それはそれは楽しそうに。
 ――……優しい顔で。
「……? 羽織?」
「え、あっ」
 足を止めてしまったらしく、慌てて首を振ってから彼の隣へ並ぶ。
「なんでも、ないです」
「そう?」
「はい」
 ちょっとだけ、気持ちがわかった気がする。
 彼がいつも私をからかって笑っていたときの気持ちが。
「……祐恭さん」
「ん?」
「連れて来てくれて、ありがとう」
 ふたつ目の区間のエスカレーター乗り場に着いたとき、自然と目が合った彼に笑みが浮かんだ。
 だけど、すぐに小さく笑われる。
「まだ目的のところには行ってないよ?」
「……でも、嬉しかったから」
「それはよかった」
 確かに、まだ行きたいと言った場所には着いていない。
 だけど、ここまでの間でも十分すぎるほど、沢山のことを得られたから。
 ……ご褒美、なのかな。
 でも、こんなに沢山貰えるほど、何かをできてはいないけれど。
「行くよ?」
「あ、はい」
 彼に手を引かれながら新しいエスカレーターに乗り込むと、同じように先を目指す人たちが上に大勢見えた。


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