目の前に広がる、青い海。
 どこまでもどこまでも広く続いていて、空には真っ白い夏の雲が浮かぶ。
「……っ……」
 ザ、と風が吹いて思わずよろけた。
 目を閉じて顔をかばうように腕を上げると、後ろから肩を支えてくれる大きな手のひらの感触に目を見張る。
「……あ……」
 振り返るとそこには、彼がいた。
 優しい眼差しで、微笑んでいる彼が。
「え……?」
 唇が動く。
 けれど、声が聞こえてこない。
 言葉が……耳に、入らない。
 ただ、目の前の彼は話し続けている。
 不思議そうな顔で私を見つめながら。
 まるで――……どうして聞こえないんだとばかりの顔で。
「……祐恭、さ……、っ!」
 身体ごと向き直って呟くと、途端にいたずらっぽい顔を見せた。
 雰囲気ががらりと変わり、思わず喉が鳴る。
 ――……昔の、彼。
 私にいたずらっぽく笑いかけて、少しだけ意地悪なことを口にして……楽しそうに笑う、彼。
 もう、ずっと見ていない人。
 表情。
 ……仕草。
「っ……」
 彼は、彼なのに。
 ほかの誰でもない、同一人物に違いないのに。
 同じなのに。
 でも、違う……?
 そう思ってるんだろうか、私は。
 無意識のうちに、比べているんだろうか。
 ――……今の彼と、以前の彼とを。
「………………」
 欲しい言葉が違う。
 欲しい表情が違う。
 言ってほしいことが違う。
 見てほしい顔が違う。
 違う……違う。何もかも。
 ……何もかも?
 本当に違うの?
 同じ人なのに?
 大好きな人に違いないのに?
 …………本当に好き?
 彼のことが?
 何ひとつ知らないくせに?
 何もかも、自分が知らない相手なのに?
 それなのに、好きだと言える?
 心の底から――……大好きだ、と。
「…………」
 頬が濡れていた。
 涙が溢れて零れ、伝って顎まで濡らす。
 ……どうしよう。
 私、罰が当たる。
 贅沢だ、って。
 我侭だ、って。
 自分勝手だ、って。
 拾われたのに、まだ望むのかって。
 ……せっかく、今の関係を築けたのに。
 彼に、始めようって言ってもらえたのに。

 欲深い人間だ、私は。

 誰にも許してなんかもらう資格のない、ひどい人間だ。
「――……り……。羽織?」
「っ……え」
 水槽のガラスに手を当てたままでいたら、とんとん、と肩を小さく叩かれた。
 そこでようやく我に返り、慌てて声のほうへ向き直る。
 優しい顔。
 だけど――……とても心配そうな眼差しの彼と、目が合う。
「……あ……。ごめんなさい。えと……なんですか?」
 慌てて謝ってから笑みを浮かべるも、彼は眉を寄せたままだった。
 心配そうに見られ、申し訳なくて視線が落ちる。
「……本当に大丈夫? 別に、ここはまた改めて来ればいいんだし……」
「ううん、大丈夫です。……ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしてて」
 ……やだな、私。
 こんな人間だったんだ。
 自分が嫌で、みっともなくて、情けなくて。
 せっかく一緒にくることができた水族館なのに、ちっとも楽しくない時間にしているのは、私。
 ……どうしたらいいんだろう。
 もう、ずっと頭からさっきの出来事が――……ううん。
 今朝のことが、離れてくれない。
「…………」
 ……今朝、夢を見たんです。
 去年、江の島に行ったときの、夢を。
 昨日の夜、ずっとずっと嬉しすぎて眠れなくて、結局寝たのは1時すぎ。
 そのせいで、妙な夢になってしまったんだとは思う。
 ……でも、どこかで引っかかっていたのかも……不安だったのかも……と思うと、あの夢はただの夢じゃないように思えてしまって、怖かった。

 彼の声が、聞こえなかった。

 同じ人に違いないし、声だって同じはずなのに……でも、違う。
 音が、少しだけ。
 ……そしてもちろん、言葉も。
 何もかも同じになるはずないのに、どうして求めてばかりなんだろう。
 たとえ違うからといって彼は彼に違いないのに、すべて重なってくれなきゃダメだとでも思ってるんだろうか。
 深い深い、私の中にいる私が。
 それが許せなくて悔しい。
 もう1度こうして、彼のそばにいることを許される立場になれたのに。
 これだけでも、十分すぎるほどの大きな奇跡なのに。
「っ……」
「少し休もうか」
「……え?」
「飲み物、何がいい?」
「……あ。それじゃあ……ううん。私、買ってきます」
「いいの?」
「はい。何がいいですか?」
 2階の、デッキ。
 そこに出たところで、彼が私の頭に手を置いた。
 もう少しでイルカショーが始まるらしく、沢山の人たちがすでに席へ着いている。
「それじゃ……アイスティーを」
「わかりました」
 そうじゃないかな、とは思ったの。
 だから、素直に嬉しかった。
 彼が選んでくれたメニューが、私の知っている彼と同じだったことが。
 ……でも、同時にそんな自分が悲しくなった。
 やっぱり私は、彼に以前までの彼と同じ部分ばかりを探していて、違うとなると途端に不安になっているんだ、と。
 違うのが許せないなんて……やだな。
 私だって、前までの私と違う部分が沢山あるのに。
「………………」
 どうして私、こんなふうになっちゃったんだろう。
 イルカプールの後ろにある売店にゆっくり歩き始めると、また涙が滲みそうになった。


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