「明日、化学のテストだよね?」
「う。……です」
 ソファへ腰かけた彼に冷茶をもてなしてすぐ、私を見た。
 ……そうです。そうなんです。
 だけど、どうしていいのやら……正直いっぱいいっぱいで。
「……え?」
「これ。もしかしたら、今年は違うかもしれないけど……」
 鞄からクリアファイルを取り出した彼が、プリントのようなものを差し出した。
 B4サイズの、わら半紙。
「っ……これ……!」
「俺は持ってないんだけど、ゼミの学生がたまたま残してたらしくて。ただ、何年も前のものだから、もしかするとあの先生の今の趣向は変わってるかもしれないから、鵜呑みにだけはしないでもらいたいんだけど」
 ただ、参考にはなるかもしれないから。
 プリントと彼とを交互に見比べていた私を見て笑った彼が、グラスに手を伸ばす。
 ――……のを見たのに。
「っ……」
「ありがとうござ……っ、ご、めんなさい!」
「いや、大丈夫」
 きゅ、と思わず彼の腕を掴んでしまい、危うくお茶がこぼれるところだった。
 だけど、祐恭さんは文句なんてひとことも言わず、笑って首を振る。
「……本当に……すごく嬉しいです」
 床に膝をつき、座っている彼を見上げる格好。
 いつもと違った角度のせいか、彼がいつもとは違う角度で私を見下ろすけれど、表情の柔らかさは変わらない。
 ……嬉しい。
 こうして私に会いにきてくれたこともそうだけど、私を思って彼が動いてくれたことが。
 いったい、その学生さんになんて声をかけたんだろう。
 どう伝えて、これを受け取ってきてくれたんだろう。
 考えれば考えるほどじわじわと嬉しさがこみ上げてきて、頬が緩んでしまう。
「……あ」
「珍しいな、お前がいるなんて」
「お疲れ」
「おかえりなさい」
「ただいま」
 バタン、という音のあとリビングに姿を見せたお兄ちゃんは、ネクタイを緩めながら祐恭さんを見下ろした。
 彼が勤める図書館では、今のところクールビズを実施していないらしい。
 というのも、すべては館長の方針なんだとか。
 普段緩いくせにヘンなとこだけ頑固なんだよな、なんていつだったかぼやいてたっけ。
「……あー、腹減った」
「ごはん、すぐ食べる?」
「食う」
 きびすを返して階段に向かった背中へ葉月が声をかけると、顔だけで振り向く。
 っていうか、このやり取りがどうしても毎日恒例すぎて、今じゃもうデジャヴすら感じなくなった。
 むしろ、このやり取りがないと落ち着かないっていうか、『あれ?』って逆に違和感すら覚えるし。
 人間、慣れって怖い。
「じゃあ、俺はこれで……」
「え!?」
 空になった冷茶のグラスを置いた祐恭さんが立ち上がり、玄関へ向かおうとした。
 のを立ち上がってから慌てて制し、反射的に葉月を見る。
 ――……と、黒の平皿をダイニングテーブルに置いてから背を正した。
「瀬尋先生も、一緒にいかがですか? 羽織と一緒に作ったんです」
「え……いや、でも急に……」
「大丈夫ですよ。いつも、少し多目に作るんです」
 葉月の言い分は、社交辞令でもなければ嘘でもない。
 お兄ちゃんがお代わりするからっていうのもあるけれど、少し多目に夕食を作り置いて、次の日のお昼のお弁当にしたりするんだよね。
「食ってけばいいだろ? どーせ、このあと何も予定とかねーんだろーし」
「それは……まぁ」
 でも――……と続けそうになった彼に、着替えてから降りてきたお兄ちゃんが肩をすくめる。
 そのまま先にダイニングテーブルへつくと、姿勢を正してから再度彼を呼んだ。
「いい、つってんだからちったぁ素直に聞きゃいーだろ? お前らしくねーな」
「……いや、なんか……これじゃまるで見計らったように来たみたいで……」
「違うのか?」
「当たり前だろ」
 へぇ、なんて意外そうな顔をしたお兄ちゃんを祐恭さんが睨んだけれど、やり取りを見ていた私と葉月はつい小さく笑い出していた。
 いつものふたりだけど、なんか、こういうやり取りって久しぶりだった気がしたから。
「どうぞ。たくさん食べてくださいね」
「そうですよー! おかわりしてください」
 先にダイニングへ入ってから椅子を引き、彼を促す。
 すると、少し困った様子ではあったけれど、『それじゃ』とほどなくしてから歩いてきてくれた。


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