「でも、やっぱり心配で……。私なんかが運転できるようになるのかどうか、怪しいじゃないですか」
「大丈夫だよ。俺だってコイツだって取れたんだし」
「……ちょっと待て。お前、それはどーゆー意味だ」
「別に? 深い意味はないけど」
「ち」
 お茶碗を手にしたまま祐恭さんが笑い、逆にお兄ちゃんは嫌そうな顔をしながらスープに手を伸ばした。
 ちなみに、彼はすでにスープをお代わりしていて、これは2杯目だ。
「それじゃあ、試験もがんばらないとね」
「う。……ですよね」
 大学での試験結果は、学食の窓に一覧で全員分貼り出されるらしい。
 それもどうなのかと思うけれど、基本的にそれこそお兄ちゃんたちが学生だったころからそうなんだから仕方ないとも言われた。
 高校までとは違い、結果は『優、良、可、不可』の4段階で示されるのも、なんだか不思議な感じ。
 でも、それが“大学生だ”と言われると、悪い気はもちろんしない。
「…………はぁ」
 でも、不可だと当然単位は出ないわけで。
 イコール、再度その講義を履修するか、もしくは追試を受ける必要がある。
 その追試内容も、再テストだったり課題レポートだったりと、先生によってさまざま。
 ちなみに……と祐恭さんに聞いたら、彼の場合追試だと再度試験問題を作り直して行うらしく、そうならないことを祈るよ、なんて苦笑していた。
「葉月ちゃんは、免許持ってるんだよね?」
「はい。運転も……日本ではまだ、公道は走ってませんけれど」
「そうなの?」
「うん。だって、たーくんの車を傷でも付けたりしたら大変でしょう?」
「……ま、お前の場合はその心配はねーだろーけどな」
「そうかな? 過信しすぎかもしれないよ」
「いや。ま、事実に基づく憶測だけど」
 くすくす笑いながらスープを飲んだ葉月が、お茶碗にひとくち分のご飯をつまむ。
 そういえば、最近彼女はこうして夕飯をきちんと摂ることが多くなった。
 それこそ、先月くらいまで夕飯だけはあまり食べなかったんだよね。
 ダイエットとか何かそういう関係なのかなと思って聞いたことがあったけれど、そうじゃなくて、ずっと昔から夕飯はあまり食べない主義だ、って教えてくれたっけ。
「もちろん、MT車で取るんだよね?」
「う。……ええと……がんばり、ます……」
 正面の祐恭さんに訊ねられ、危うくご飯をひと飲みするところだった。
 とんとんと小さく胸元を叩いてからお茶を飲み、苦笑を返す。
 MT車……私、本当に運転できるようになるのかな。
 どうしたってエンストばかりで四苦八苦してるどころか、ものすごく指導教官に怒られている自分しかイメージできなくて、今から冷や汗ものなんだけど。
「仮免取れたら、俺の車運転していいから」
「えぇ!? そんなわけには……!」
「どうして? いいよ別に。練習なら、いくらでも付き合うし」
「……ホントですか……?」
「うん」
 きれいに食べ終えた祐恭さんが、お茶碗と箸を揃えた。
 微笑まれ、思わずどきりとする。
「お前、物好きだなー。俺は絶対イヤだ。コイツに……しかも、仮免の状態でだぜ? ありえねぇ。せめてまぁ…………いや、ねーな。コイツにだけは貸さねー」
「まぁ多少は心配かもしれないけど、当時は自分たちだってひどいものだったんだし」
「馬鹿か! 俺はそこまでひどかねーよ!」
 だいたいストレートで取ったろが!
 冷茶のグラスをテーブルに置いてからお兄ちゃんが腕を組み、隣の彼を睨んだ。
 そういえば……当時のことは、少しだけ覚えてるような気もする。
 たしか、運転試験場に行く当日、朝からすごい土砂降りでお兄ちゃんがやけにため息をつきながら外を見てたっけ。
 電車で二俣川まで行ったんだけど、もしかしたらあのときは祐恭さんも一緒だったのかもしれない。
「でもま、今から通い出したらほかの学生も来てんだろーし、すげー混んでんじゃねーの?」
「……う。やっぱり?」
「そりゃお前、考えることはみんな一緒だろーが」
 馬鹿か、といつもの調子で言われ、わかってはいたことだけど気が滅入る。
 そういえば、お兄ちゃんは春先から自動車学校に通ってたんだっけ。
 夏前には免許を取得してたような気もするし。
「じゃあ……今からだと、早ければ年末までには取れるかなぁ」
「まぁ、それくらいで取れるんじゃないかな。仮免だけなら、もう少し早い段階で取れるし」
「そうなんですか?」
「うん。入校すればわかるけど、第1段階と第2段階っていうのがあってさ、第1段階を終了すると仮免をもらえて、路上教習が始まるんだよ」
「へぇー」
 路上教習という言葉を聞くと、ぱっと思い浮かぶのはやっぱり、たまに街中で目にする『仮免許練習中』のプレートが付いた教習車。
 そっか……路上で見かける車は、みんな仮免許なんだ。
 ……でも……となると、やっぱり指導教官はみんな怖い思いをしたりしながら乗ってたりするのかな。
 さっきから繰り返し『お前が運転する車にだけは乗らない』を連呼してるお兄ちゃんを見たら、苦笑が漏れた。
「大丈夫。誰でも初めて車に乗るんだから。学科試験に関してはもう、しっかり問題文を読んで引っかからないように……としか言えないけど」
「ま、コイツの場合は実地よりそっちのほうが問題かもな」
「……むぅ。なんか、よくわからないけど馬鹿にされた気分……」
「よくわかってんじゃねーか」
「もぅ! ひどい!」
「たーくんってば、もー……そんなふうにまた、羽織をからかうんだから」
「からかってねーって」
 くっくと笑ったお兄ちゃんを葉月がたしなめてはくれるものの、肩をすくめただけ。
 ……うー。なんだかなぁ。
 とは思うものの、祐恭さんも楽しそうに笑ったのが目に入り、咎める気持ちが緩んでしまう。
「……免許かぁ」
 お箸を握ったままふと思い出すのは、どうしたって……あの日のこと。
 彼が自身の記憶を失ってしまうことになった日だけど、一緒に洗車をして彼の車の運転席に座らせてもらった特別な時間は、やっぱりどうしても“なくてはならないもの”で。
 ついついあのときのやり取りを思い出してしまい、懐かしさとなんともいえない感じから、俯き加減に視線が落ちる。
 でも、楽しかったし、嬉しかったのは間違いないから、想いは今も変わらない。
「がんばります」
 顔を上げれば、正面には彼がいてくれる。
 あのときと変わらない、優しい笑みで。
「あんまり肩に力入れないで、がんばってね」
「はいっ」
 うなずいた彼に微笑むと、その顔は私らしい笑みだった。


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