「この間もそうだったんだけど……俺ばっかり食べてるね。ごめん」
「え! そんなことないですよー! むしろ、嬉しいです。……って、これもあのときと同じですね」
 くすくす笑われ、こっちも笑みが漏れる。
 こんな時間に、この部屋でともに夕食を摂る日がくるとは。
 ちらりと時計を見てしまい、改めて実感するとともに嬉しさがこみ上げる。
 サクサクと音が聞こえるほどよく揚がっている、桜えびのかき揚げ。
 素麺よりも少し太いひやむぎの中に何本か色のついた麺もあったが、旧暦の七夕だと聞いて納得した。
 帰宅してすぐ、ポーチで何か揺れてるなと思ったら、小さな笹飾りがあって。
 あまりにもかわいらしく、そして自分の部屋とは思えない変容ぶりに、つい笑っていた。
「……ん」
 付け合せのサラダ、だと思った。単純に。
 だが、どうやら違ったらしい……なんて言ったら、おかしいか。
 角切りの真っ赤な果肉。
 間違いなくこれは、アレ特有の色。
「あ! え、と……あの……!」
「いや、別に怒ったりしないから平気」
「すみません、つい……」
 俺の視線にすぐさま気づいたらしく、彼女が慌てて困った顔を見せた。
 別に、トマトが入っていたことくらいでどうの、というわけじゃない。
 ただ単に、嫌いなものが入っていたときの子どもと同じ反応が、つい出てしまっただけ。
 それなのに――……そこで、止めておけばよかったんだ。本当は。
 つい、嬉しすぎて、期待しすぎて、言葉がひっかかった。
 『つい』
 彼女が口にしたその言葉はあまりにも小さいのに、しこりになって残る。
 つい、と言いかけたその言葉が気になる。
 なんだ?
 あとに何が続く?

 “つい”いつもはそうだったから。

 言外にまるでそう言われているような気になり、情けなくも余裕が消える。
 よせばよかった。
 なのに、ここからだ。
 すべて、自分らしからぬ方向へすべてを考え始めてしまったのは。


「…………」
 おいしかった、ごちそうさま。
 それくらいはきっと、笑顔で言えたはず。
 なのに今俺は、彼女を残して書斎へと逃げた。
 ずるいな。
 前までの“俺”も、こんなことしたのか?
 いや、きっとしなかったんだろう。
 子どもと一緒だな。
 最低だ。だから――……きっと彼女が、前までの“俺”と比べる。
 これまでも、何度だって考えた。
 だが、そのたびに結局答えなど出なかった。
 彼女を思う気持ちはホンモノで、それに偽りはない。
 ……だが、どこかで考える。
 記憶を失う前は、どうだったのかと。
 今の俺と、昔の俺。
 どっちが、彼女を愛していたのかと。
 どんなふうに、彼女を愛していたのかと。
 ……もどかしくてたまらない。
 想像すればするほど、足元をすくわれるとわかっているのに。
 くだらないと言われるだろうな。
 それでも、不安なんだ。どこかで――……彼女もそう思ってるんじゃないか、と。

 彼女が、今の俺と昔の俺、どちらをより愛しているのか、と。

「……はぁ」
 椅子にもたれかかり、大きく息をつく。
 ムリヤリに開いたPCのファイルは、あれから大して進んでいない。
 ……馬鹿げた話だよな。
 同一人物なのに――……嫉妬なんて。
「…………」
 点滅を繰り返すバーを見ながら、つい頬杖をつく。
 もうひとりの“俺”の存在は、いつだって拭いきれない。
 彼女を愛しているのに、彼女に心底愛されていた“俺”が憎くてたまらないから。
 どのくらい?
 どんなふうに?
 想像すれども、はかり知れない部分。
 だからこそ、ああだこうだと想像ばかりがつきまとって、そこから抜けられない。
 深みにはまる。どつぼだ、まさしく。
 いつだって、思い描く自分は完璧で。
 彼女に対しても、すべてパーフェクトだったという幻影がつきまとう。
 ……幻影。
 果たしてそうなのか?
 責任転嫁なんて、みっともないってことは重々承知だ。
 それでも。
 どうしたって、今の自分を丸ごと肯定して認めることができないから。
 俺は今、こんな思いをしながら苦しんでいるのに、アイツは違う。
 なんの苦労をすることなく、無条件で彼女を愛し、そして愛されていた。
 ……だから、憎くてたまらない。
 嫉妬、なんて生易しい言葉じゃ足りないほどに。
「……祐恭さん?」
「っ……」
 コンコン、と控えめなノックのあと、うっすらと開いていたドアから彼女が顔を覗かせた。
 さすがに、ドアをすべて締め切ってはいない。
 そんなことをしたら、彼女はきっと俺がここを出るまで声をかけないだろう、と思ったからだ。
「あ。ご、ごめんなさい……邪魔しちゃって」
「いや、いいよ。何?」
「お風呂、沸きましたよ」
「ああ、先に入っていいよ?」
「え、でも……」
「気にしないで」
 これまでの自分は、それこそ笑顔などとは無縁の顔つきだったにもかかわらず、彼女を見たらすぐに表情が緩んだ。
 正直な人間だな、本当に。
 これまで抱いていたどす黒い感情をしまいこめるだけ、まだ人でいられる。
「いいんですか?」
「もちろん。どうぞ、使って」
「それじゃあ……お言葉に甘えて。あ! でもその前に、何か飲みませんか? お茶とか……アイスティーもありますよ」
「ホントに?」
「はい。あ、えっと……ごめんなさい、ポットを勝手にお借りしちゃいました」
「いや、いいよ全然気にしないで。むしろ、ありがとう」
 両手を椅子に置いて立ち上がると、やけにきしんだ音がした。
 どうやら、よほど重たかったらしい。
 俺という人間は、いつからこうもマイナスのことばかりよく想像できるようになったのか。
「……廊下のほうが涼しいな」
「少し、涼しい風が混じり始めましたね」
 照明を消し、ともにリビングへ戻る。
 そのとき、つい彼女へ手が伸びたものの、宙を掴んで下へと落ちる。
 ……馬鹿馬鹿しい。
 何に遠慮する必要もないのに、ここまでか。
 よっぽどだな。
 我ながら、重症だ。
 俺が触れたところで、彼女はきっと嬉しそうに笑ってくれるだろうに。
「……ん?」
 リビングに入ってすぐ。
 鮮やかな色が目に入り、足が止まった。
 赤い生地に映える、矢羽柄。
 金の刺繍もあしらわれており、ひとめで浴衣だとわかる。
「……浴衣?」
「あ、えと……前までお借りしていたチェストを片付けていたら、出てきたんです」
 近くには紙袋も置かれているが、帯も生地もそのまま。
 それこそ、これから着替えて遊びにもいけそうな雰囲気だ。
「……それは、俺のため?」
 なんの気なしの言葉だった。
 それこそ、滑り落ちたと言ってもいい。
 まったくの無意識の言葉に、自身でも内心驚く。
 ……いや、参る、のほうが正しいな。
 妙なスイッチが入ったのは、ここだったんだろうから。
「はい」
 いつもと同じ笑みだった。
 彼女らしい、素直なかわいらしい笑み。
 なのに――……にっこり笑ってうなずかれた瞬間、奥歯を噛みしめる。
 そんな顔をさせたのは、俺じゃない。
 この浴衣を選び、ともに横を歩いていたであろう“俺”だ。
「……愛されてたんだね、俺は」
「え?」
 は、と短い笑いが漏れる。
 だめだ。
 これ以上言ったら、彼女は――……困る、以上なのに。
「付き合ってたころの“俺”って、どんな人間だった?」
 嫉妬以上の感情がぐるぐると渦巻いて、握りしめたこぶしがほどけない。
 あくまでも、たずねているのは“自分”のこと。
 なのに、口ぶりがまるで“元カレ”のことを聞いているかのようで、苛ついた気持ちは消えてくれない。
「えっと……そう、ですね……」
 一瞬視線を外されたときの顔が、懐かしむようでいて……ひどく大切な何かを思い出しているようにも見えて、質問を誤ったと後悔する。
 こんな顔、俺にはさせることなどできない。
 まだ、時間が足りなすぎる。
 彼女との共有は、そこまで増えていない。
「…………意地悪で……だけど優しい人、って言ったらきっと怒られちゃいますね」
 苦笑した彼女は、微塵もそんなこと感じてなさそうだった。
 きっと“俺”が彼女に怒りの感情を向けたことなど、なかったんだろう。
 いつだって彼女を最優先にし、嫌がることはせず、きっと――……今の俺みたいな感情も、持ち合わせずに済んだはず。
 羨ましいヤツ。
 そのせいで俺は……なんて、吐き捨てたい感情が芽を出しているのに。
「……そう」
 聞いたことを、当然後悔する。
 見なくてもいいものを見た。
 ……こんな顔見せられて、平静を保てるわけがなかったのに。
 まるで――……いや。
 完全に、まったく俺の知らない男の話を聞かされ、単純に腹が立つ。
 俺のこと、ではある。
 だが、俺は知らない。
 結果、残ったのは嫉妬という醜い感情。
「どうしたら俺を見てくれる?」
「え……?」
「君の目は、俺の向こうにいる俺を映してるようにしか思えない」
 まっすぐ彼女を見つめ、つらつらと漏れる言葉を反芻する余力もない。
 どれだけ自分がかわいいんだ。
 こんなことを言ったところで、まるで……彼女を責めているようにしか聞こえないのに。
 最低だ。
 俺は、こうもみっともないヤツだったのか。
「俺が今好きなものを、俺が今嫌いなものを、知ってほしい」
「……祐恭さん……」
「嫌いですよね、好きですよね……そう聞いてほしくない」
 以前『平気なんですか?』と聞かれたことがあった。
 ワケをたずねると、以前は食べられなかったものだから、とのこと。
 逆も然り。
 好きですよね、これ。
 そう言って出してくれたものに、あえて箸をつけなかったこともあった。
 天邪鬼とか、子どもとか、それ以前の問題でありレベルだ。
 目に焼きついたんだ。
 一瞬、なんだ。ほんの一瞬だけ彼女が見せた、表情。
 なのに、ひどく印象強くて今の自信を色褪せさせるには十分なほどだった。
「ごめん……でも正直、気分はよくないんだ。俺は俺だから。前にもあとにも、当然ほかにいない」
 知ってる。
 これが八つ当たりでしかなくて、彼女を困らせるだけのモノだということは。
 なのに、ずるいな。
 ……いや、弱いだけか。
 言いたいことだけ言って、彼女の反論も聞かず背中を向けるんだから。
「風呂、先に入って。……ごめん」
 こんなはずじゃなかった。
 何度謝罪しても、詫びきれないことをしでかした。
 しかも――……ずっと、ずっと心待ちにしていた日なのに。
 “初めて”が、多くある夜なのに。
「……最低だ」
 書斎のドアノブを握りながら、苦々しげな言葉が漏れる。
 どいつに聞かせてやればいい。
 俺以外の誰も、決して悪くないのに。


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