「…………」
 少し頭を冷やしたらいい。
 誰にそう言われるまでもなく、自身で実行する。
 リビングの掃き出し窓を開けてポーチに出ると、時間のお陰か湿った熱気の残る風にまじって、ひんやりとした風も当たった。
 空に浮かぶ、いくつもの星。
 明滅を繰り返すさまは、まるで呼吸しているかのようだ。
 残念ながら下界が明るすぎて天の川は見えず、強い光の一等星だけが、かろうじて映る程度。
 俺がいちばん好きな星も、まだ見えない。
 何よりも強く印象に残り、ほかを一蹴するほどの圧倒的な存在感と輝き。
 唯一無二の星、シリウス。
 夜明け前、ここから眺めたことは果たして何度あっただろう。
 赤紫や白と水色に染まる空のシリウスは、まるでこの世界の支配者のようにも見えて好きだった。
「…………」
 遠くからはまだ、水の音が聞こえてくる。
 何も言わず、何も言わせず、聞かずに過ごす別々の時間。
 ……泣いていたら、どう責任をとるつもりだ。
 我ながら、詰めの甘さに辟易する。
 ふと横を見ると、笹飾りが夜風に揺れていた。
 さらさらと立てる音が、まるで泣いているかのように聞こえるのは今の俺の心境そのものか。
 細長い緑の葉に絡まるようにして、輪飾りと金の短冊が揺れる。
 部屋の明かりに照らされ、箇所箇所だけが映し出されている笹飾り。
 まさか、こんな寂しげなものになりさがってしまうとは、帰宅したときには思いもしなかった。
「はい」
「……え?」
「祐恭さんも、お願いごと。どうですか?」
 夕食後、キッチンで片付けをしていた彼女が戻ってきたとき、後ろに何か隠しているような仕草はしていた。
 珍しく、企んでいる……というよりは、何か褒めてもらいたいことを教えようかどうしようか、うずうずしている小さな子のようにも見え、つい頬が緩んだ矢先に手渡された、金の短冊。
 懐かしいというよりは、幼いころから見ることはあれど手にしたことなどなかったシロモノを思わず受け取ってしまい、ほんの少しだけ戸惑ったのも事実。
 『ねがい』
 それは俺の、願いでいいのか。
 それとも――……?
 よせばいいのに勝手に深読みした自分に嫌気がさす。
 散々、昔と今の自分は違うとかなんとか、言っているくせに。
 いざとなると――……いや。
 彼女の、あまりにも素直なこの笑みを見ていたら、どっちが彼女にとっての幸せなのか、と考えてしまったのもあるんだ。実際。
 俺は彼女にそこまで優しくできているだろうか。
 笑顔を増やせているだろうか。
 昔の――……前までの俺のほうが、よっぽど幸せだったんじゃないのか。
 楽しそうに、嬉しそうに、心底から笑えていたんじゃないのか。
 彼女と過ごす日々が、時間が、増えれば増えるほどとうしても考えてしまい、両手で受け取りこそしたものの、つい視線が落ちた。
「きっと叶いますよね」
 まるでひとりごとのように呟いた彼女が見ていたのは、俺じゃなかった。
 ポーチに飾られた、笹飾り。
 そういえばあのときも、今と同じようにさらさらと乾いた音が部屋の中まで聞こえていた。
「…………」
 俺の願いと、“俺”の願いは、きっと違うんだろうな。
 それでも、俺が書けるのは今の自分の願いだけで。
 ……悪いが、譲る気はない。
 あれだけ彼女に対してキツいことをヌかしたクセに、この期に及んでこんなことを言う俺を、君はどう思うだろう。
 何を願う。
 君は、何を願ったんだ。
 空に。
 そして――……俺に。
「…………」
 趣味が悪いうんぬんのレベルではないのは重々承知。
 なのについ指先が笹ではなく、金の短冊の隣へ並ぶ銀の短冊へと伸びた。
 見るつもりなんて、最初はなかった。
 それでも……どうしても、気になって。
 本音を言えば、最初からわかってたんだ。
 ……彼女の願いごとは。

 『記憶が戻りますように』

 彼女にとってそれは絶対条件であり、何よりも嬉しいであろう“しあわせ”の形。
 だが、必ずしもそれが当人にとってイコールであるかといえば、そうじゃない。
 “俺”と俺は違う。
 別人だと言ってもいい。
 覚えていないものはどうすることもできないし、変えることだって不可能だ。
 いつだったか孝之に言われたことがある。
 『お前がお前で安心した』と。
 最初はどういう意味かわからなかったんだが、どうやら去年の“俺”はまるで違う人間じゃないのかと思うくらい、彼女を溺愛していたらしい。
 それは否定しないし、今だって俺自身のかなりの割合を彼女が占めている。
 それでも『違う』と言われた。
 学生時代を知っている人間なら卒倒するレベルかもな、と。
 ……まぁヤツのことだ。
 かなり膨らませて言っているとは思うが、それでも……違うと言われたことに少しだけほっとしてもいた。
 俺は俺だ。
 ほかにいない。
「…………」
 だから、記憶が戻れば――……俺はどうなるのか、という不安が常にあるんだ。
 消えるんじゃないのか。
 “俺”の意識下に、埋もれて吸収されるんじゃないのか。
 ……怖いな。
 情けない話だが、自分が消えてほかの人格が現れるようにも思えて、ぞっとしない。
 記憶が戻ってほしい。思い出してほしい。
 そう願う人々は当然周りに多いし、彼女だってそうだろう。
 だから、そのことを余計なお世話だとは言わない。
 だが、俺は…………俺の願いは違う。
 思い出さずとも困らない。
 今の俺は生きている。
 記憶もすべて、残っている。
 幼いころのことも、学生時代も、そして社会人になってからのことも。
 何ひとつ残らず覚えているのに、どうして否定されなければならないんだ。
 あの日からずっと、俺は生きているのに。
 まるで、全否定されるような気になるから、嫌なんだ。
 ……記憶なんて戻らなくていい。
 俺は俺のままなのに。
 だから、俺の願いはひとつ。
 どうか彼女が俺を望んでくれますように。
 俺のままでいいと、言ってくれますように。
 ただそれだけ――……決して叶うことはないのに、な。
「…………っ」
 自嘲気味に笑ってから、裏返しになっていた短冊をひっくり返した途端。
 浮かび上がった黒い字を見て、目が丸くなった。

 『今がずっと続きますように』

 たったひとことだった。
 丸い、彼女らしい字でたったそれだけ。
 思いもしなかった“願い”に、ごくりと喉が鳴る。
「……なんで」
 嘘だろ。
 愕然としたまま、どうして、なんで、そんな言葉しか浮かばない。
 ……彼女の願いがこれ……?
 じゃあ、俺の……さっきの俺の言葉は、セリフは、いったいどうなる。
 『今の俺を見てほしい。今の俺を愛してほしい』
 そんなの…………彼女はずっとわかってた、のか。
 そうしてくれていたのか……?
「っ……」
 気づかなかったのは、俺。
 いや。
 わかろうとしなかったのは……俺だけ。
 情けない話だが、ぞくりと鳥肌が立つ。
 後悔どころじゃない。
 これは――……完全に、失態でしかない。
 何を言ってるんだ、と罵られてしかるべき事態。
 彼女は俺のことを、きちんとわかってくれていたのに。
 ……子どもだな、まるで。
 お見通しとはもう、言葉が出ない。
「……あ」
 少し離れたところから、戸の開く音がした。
 と同時に、甘い香りが風に流れてくる。
「あ、えっと……お風呂、出ました」
「ッ……」
 初めて見る、パジャマ姿の彼女。
 どちらかというとルームウェアのようで、すらりとした長い足が目に入る。
 肩にタオルをかけたまま髪を軽く拭き、目があった途端にっこりと微笑んだ彼女。
 強さ。
 あんなことを言った俺に、ちゃんと笑ってくれるなんて……俺はどうしたら許してもらえるだろう。
「わ……涼しいですね、ここ」
 ぺたぺたと歩いてきた彼女が、サンダルを履いて隣へ並んだ。
 同じシャンプーの匂いが強く香り、どくりと心臓が鳴る。
 その表情に、曇りはなかった。
 あんなことを言ったのに。
 彼女を突き放すような……いや、試すような真似事をしたのに。
 それでもなお彼女は、笑っている。
 …………まいった。
 俺のほうが、よほど子どもだ。
「祐恭さん?」
「っ……」
 いつもと同じ甘い声。
 トーンも喋り方も何も変えずに名を呼ばれ、肩が震えそうになる。
「…………」
「? なんですか?」
 まっすぐに目を見たまま、言おうとした言葉が消えた。
 柔らかく微笑み、わずかに首をかしげられ、改めて彼女の大きさを目の当たりにしたせい。
 俺は、なんて愚かだったんだろう。
「…………ごめん」
「え……?」
「ごめん……」
「ッ……や、だ……! や、そんな、そんな顔、しないでください……っ」
 眉を寄せて彼女を見つめ返した俺は、いったいどんなふうに目に映ったんだろう。
 もしかしたら、それこそ今にも泣きそうな顔だったのかもしれない。
 あまりにも情けなくて、恥ずかしくて。
 俺はこんな程度の人間だったのかと、改めて思い知ったから。
「どうして? どうしたんですか? ……なんで……っ」
 ふるふると首を振りながら、彼女が慌てたように俺へ手を伸ばした。
 だが、それよりも先に腕が伸びる。
 泣きそうな顔を見たら、反射的に動けたんだ。俺も。
 じわりと涙が滲んだように見えたのは、恐らく気のせいじゃない。
「……何もわかってなかったのは、俺だ」
 顎下に彼女の頭を収めると、強いシャンプーの香りがした。
 それがどうしようもなく落ち着くのは、“俺”の記憶なんだろうか。
 伝わってくる鼓動も、この温もりも、抱きついてくれる腕の力も。
 何度もこうしてきたかのように、何ひとつ違和感などなかった。


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