あれは、今週の月曜日のこと。
 旧暦の七夕を一緒に過ごした翌日とあって、気分はかなり落ち着いてもいた。
 ずっと考えていたことも、勝手に思い込んでいたことも、彼女に話せたことですべてが報われて。
 一緒に過ごすことのできた時間が何よりも嬉しかったが、彼女が俺は俺のままでいいと受け入れてこれたことが嬉しくて、何よりも安堵した。
 だからこそ、がんばろうと思っていたんだ。
 この1週間を過ごせば、週末からはまとまった休みを得ることができるから。
 だから――……月曜はいつものように大学へ行き、学生がまばらな学内でいつものように過ごし、夕方まで研究室にこもってからの帰宅は、普段と同じ20時間近になった。
「……あ、れ」
 何も考えず、何も期待せずに帰宅して驚く。
 ふたつ閉めたはずの玄関の鍵がひとつしか掛かっておらず、しかも、ついているはずのない照明が点いていたんだから。
 そんなはずない。
 一瞬そう思ったのは、今朝、真っ先に彼女が俺の研究室をたずねてくれたから。
 この時期は集中講義もないからこそ、夏休み中の彼女がいるはずないのに、わざわざ俺に会うためだけに大学へ来てくれたとわかって、心底嬉しかった。
 ああ、俺は大事にされてるんだな、とわかって誇らしくもあった。
 だからこそ、いつもと同じ時間で帰宅した自分を少しだけ恨む。
 もっと早く帰宅していれば、密な時間を多く過ごせたのに、と。
 こういうときくらい、下手なウソをついてでも、彼女のために時間を作ればよかっただろうに、と。
 しっかり揃えられているパンプスの横へ革靴を脱ぎ、自分の家なのになんとなく物音を立てないようリビングへ向かう。
 まさかという気持ちよりも、嬉しい気持ちのほうが大きくて、無意識のうちに彼女を驚かせでもしたかったからか。
 だが、キッチンへのドアを開けてすぐ、驚くのは俺のほうだった。

「お誕生日おめでとうございます」

 ドアを開けてすぐ、彼女が俺を待ってくれていた。
 それだけじゃない。
 赤と金のリボンがかかった箱を、両手で大事そうに持って。
「祐恭さ……っ」
 満面の笑みで迎えてくれたのが、嬉しかった。
 心からかわいいと思った。
 だから――……本来言うべき『ただいま』よりも先に、彼女を抱きしめていた。
「……こんなに嬉しいものなんだな」
「え?」
「この年になって、誕生日を祝われるのが嬉しいって思ったのは初めてだ」
 ゆっくりと腕を解きながら顔を見ると、うっすら唇を開いてから、ふたたび嬉しそうに笑った。
 笑顔で『おめでとう』って言われるのが、こんなにも満たされた気持ちになるなんて。
 ああ、俺は幸せなヤツだ。
「っ……うわ、すごいな」
「ホントですか? えへへ。よかったです」
 ふいにリビングのテーブルへ目を向けてみて、改めて驚いた。
 普段は無機質なガラスのテーブルだが、今日はそこに赤い布がかけられており、さらには『ディナー』と呼ぶにふさわしいような数々の皿が鎮座している。
 これで照明を間接的なものに変えたら、そこそこのレストランと遜色ない。
「え? 祐恭さん?」
 そちらを見たまま、口元へ手を当てたのがどうやら気になったらしい。
 不思議そうにというよりは、少しだけ不安そうな彼女が俺を見上げたのがわかり、ゆっくりと首を振る。
「いや、なんか……ニヤける」
 言わなくてもいい本音がついこぼれた途端、羽織が嬉しそうに笑った。
 孝之とはまるで違う反応だな。
 同じ血が流れているとは、とてもじゃないが思えない。
 にっこり笑い、『よかった』とかみしめるようにつぶやいたのが聞こえ、反射的にふたたび彼女を引き寄せていた。

 だから、知らなかったんだ。俺は。
 自分の誕生日の翌日が、羽織の誕生日だなんてことは微塵も。

「最悪だ」
「だから、俺に当たるなつってんだろ! そーやって不愉快そうな顔で人を見下ろすのはよせ!」
 店を出たあと、駅前の市営駐車場まで歩きながらも当然表情は変わらない。
 今はどこからどう見ても不機嫌そのものだろうが、他人の視線なんてどうでもよかった。
 今はただ、覆らない事実と取り戻せない時間に悔いるのみ。
 ……くそ。
 誕生日を祝ってもらったとき、『羽織はいつ?』って聞けばよかったんだ。
 なのに――……。
「はー……」
「そんなか? 別にいいんじゃね? 誕生日忘れたくらい、なんてことねーだろ」
「お前、それが葉月ちゃんでも言えるか?」
「いや、アイツの誕生日は最初から知ってるし」
「…………」
「だから、よせっつってんだろ! その顔! だいたい、知ろうとしなかったお前が悪いんじゃねーか」
「くっ……」
 どが付くほどの図星をつかれ、一瞬息がつまる。
 ああ、そうだ。俺が悪いんだよ。
 すべては知ろうとしなかった俺がな。
 だからこそ、腹が立つんだ。
 どうにもならないことをぐちぐち言われるのも言うのも嫌だし、引きずってる自分も悪いってわかってるから。
「でもま、俺に感謝したほうがいいんじゃねーの?」
「何がだ」
「ほら。怪我の功名っつーだろ?」
 孝之と同じ黒い紙袋を提げた左手を、ちらりと孝之が見た。
 その瞬間反射的に足が出て、つんのめりそうになったヤツの『っぶねーだろーが! 馬鹿か!』という大きな声があたりのビルへ反射した。


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