「レポート、まとまった?」
「ぅ。まだ……あとちょっと残ってます……」
孝之と別れ、マンションの駐車場へ着いてすぐ、彼女から着信があった。
今日は、終わり次第一緒に出かける約束をしていたのだ。
15時を少しすぎた現在。
彼女を伴い、向かうのは平塚。
『お盆休みには顔を見せてね』
両親ではなく、なぜか紗那がずっとそう言っていたので、仕方なく了承したのだが、そのことを伝えると、思いのほか羽織は嬉しそうにうなずいてくれた。
同じ学部生同士、大学内で会ってるんじゃないのかとは思うのだが、意外とそうでもないらしい。
「この時間なら、まぁ……夕飯は食べずに済むかな」
「え?」
「いや。普段、家のことをやってくれてる佳代さんって人が、この時期は夏休みなんだ。だから、料理ベタなお袋のメシを食べなきゃいけないと思うと、ちょっとね」
少なくともそこは、変わりないはずだ。
きっと、彼女もわかっているんだろう。
くすくす笑いながら『でも、家庭的でおいしいですよ』なんて言ってくれたが、そこはうなずけなかった。
高校時代の弁当といったら、なかったな……いろいろな意味で。
早々に買う方向へ切り替えておいて、やっぱり間違いはなかった。
衝撃的だったのは、磯辺焼きの餅がカッチカチ状態で詰め込まれていたときだな。
できたての状態ならまだ食べられるが、冷めた餅ほどどうにもならないものはない。
即ふたを閉めたが、あれをほかの連中に知られずに済んで、本当によかった。
「あ。あそこの和菓子屋さん、寄ってもらえますか?」
「気を遣わなくていいのに」
「少しだけですから。お茶菓子になればいいんですけど」
「……わかった。ありがとう」
少し先に見えた菓子処の看板を指差され、相変わらずまめだなと思いながらも承諾する。
人となりっていうのは、こういうところにも表れるよな。
シフトチェンジしてウィンカーを出したところで、小さく笑みが漏れた。
「お久しぶりで――っわぁ!?」
「羽織ちゃんんんんんん!!」
チャイムを押して5秒で玄関ドアが開いたと思いきや、伸びた白い腕が羽織を掻き抱いた。
まさに、奪取。
引きずられるように連れ去られる彼女が慌てて靴を脱いだものの、主犯は有無をいわせずリビングへと姿を消した。
……どうなんだ、それは。
大きめのため息をつき、遅ればせながらリビングへ上がると、すでに彼女の両隣は紗那とお袋に占領されていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「なんだ、ずいぶんと他人行儀だな」
「いや、なんか……ついっていうか」
ポロシャツ姿の父を見るのは、なんだか久しぶりな気がする。
まぁ、事実実家へそうそう顔を出していないので、会ったのすらいつぶりのことやら。
すでに盛りあがっている女性陣から外れ、高校野球へとすでに視線を戻した父の隣へ座ると、一瞬彼女らを見てなぜか小さく笑った。
「母さん、よっぽど嬉しかったんだろうなぁ」
「なんで?」
「そりゃそうだろう。あんなことがあったんだ。本当に、よかった」
『な』と続けられ、ああそういうものなのかとも思う。
俺が怪我をし、記憶を失ってからというもの、お袋が何かを言ってくることはなかった。
電話で話すことはあったが、そういえば、羽織の名前を出されたことはない。
親だから、か。
もともと面識はあっただろうし、羽織がお袋に支えられている姿も病院で見はしていたから、彼女のツラさは十二分認識していたんだろう。
俺の心情も彼女の気持ちもわかったうえでの判断だとしたら、親の偉大さとやらも改めてわかる。
羽織の手を握り、うんうんとうなずきながら『よかった』と聞こえ、何に対してのものかはわからなかったが、ほっとはした。
「…………」
それにしても、紗那も紗那だ。
あれだけ喜んでくれるのはまぁいいとしても、べたべたしすぎじゃないか?
確かに、羽織のことを思い出せないとわかった瞬間からアイツはひどく俺を非難もしたし、『なんで』ばかりを繰り返してはいた。
が、今は元通りどころかそれ以上の関係になったんだから、そんなにあからさまな態度をとる必要はないだろ?
……俺の彼女なのに。
今日は、ついさっきまで同じ時間を過ごせていなかったうえに、車内でも触れてさえないからこそ、非常に腹立たしい。
というかまぁ正直言ってしまえば、悔しいというか……あー、妬いてるんだよ妹に。馬鹿馬鹿しいけど。
「で! 大丈夫? 羽織ちゃん。お兄ちゃんに優しくしてもらえてる?」
「失礼だぞ。その言い方じゃ、まるで俺がひどいヤツみたいに聞こえる」
「え、自覚ないの?」
「……どういう意味だ」
面と向かって失礼なことを言われ、ああコイツは俺の妹だなと実感する。
ずけずけと文句言えるようになったという点で言えばこれまでと同じに、戻ったということか。
紗那は紗那なりに、いろいろ考えたりヘコんだり傷ついていた、というのはここに居ない涼から聞いたこと。
だが、それを聞いたのが羽織との関係で悩み、自身すら危うい状態だったころだからこそ、むしろ『どうしてお前が』という思いが湧くだけで受け入れられなかった。
仲良かったんだな、意外だ。
紗那にぎゅうぎゅう抱きしめられながらも、笑顔を絶やさず話している羽織を見て、そうだったのかとよくわかった。
「てゆーか! 私ね、実はずーっとお兄ちゃんは彼女とかいないと思ってたわけよ」
「え? 祐恭さん……ですか?」
「そそ! てっきり、年齢イコール彼女いない歴みたいな? 絶対寂しくってかわいそうな人なんだーって思ってたから、去年初めて羽織ちゃん連れてきたときは、ほんっとーにびっくりしたの!」
「っ……」
いつまで経っても飲み物が出てこないので、キッチンを勝手にあさり、自分と羽織のグラスを手に戻ってきたところでとんでもないセリフが聞こえた。
麦茶なんて久しく飲まないにもかかわらず、床にこぼすところだった。
「だってさー、ちっとも浮いた話なんて聞かないし、当然本人もしないでしょ? だからね、もしかしたらお兄ちゃんって、実は孝之さんとデキてるんじゃないかって思ってたの!」
「えぇっ!?」
「ごほっ……おま……!」
ずびし、と高らかに人差し指を天井へ向けて言い放ったセリフは、とてもじゃないが尋常じゃない。
羽織も慌ててるし……っていうか、まさか真に受けてないだろうな。ミリ単位ほども。
なぜかお袋と紗那はきゃーきゃー言いながら勝手に盛りあがり始めており、訪れて30分も経っていないが、早々に引きあげたくなった。
「だってだって! ふたりって、ちょお仲いいでしょ? それに、孝之さんのことは家でも話してたし、大学内でふたりきりなのとかしょっちゅう見たりするし! 極めつけは、孝之さんだけウチによく泊まってたってトコ!」
「とこ、じゃないだろ。……馬鹿かお前は」
「ひど! 馬鹿じゃないし! 馬鹿って言う人が馬鹿なんだからね大学講師のくせに!!」
大きなため息とともに麦茶を多めに飲み下すと、大げさな身振りで羽織へ擦り寄ってから、紗那が子どものように口を尖らせた。
そういう反応、涼と一緒だな。まったくもって。
あははと笑ってはいるが、羽織も内心は呆れてるに違いない。と思いたい。
今ごろ盛大なくしゃみをしてるであろう孝之に、心の隅で『妹の妄想ネタにされてるぞお前』と送っておく。
「そういや、涼はどうした?」
ぎゃいぎゃいと相変わらずうるさい紗那に反応せず、誰ともなしにたずねると、今まで一緒になって笑っていたお袋がこっちを向いた。
ていうか今小さく『そういえば孝之君のこと好きよねぇ祐恭は』とかとんでもない言葉が聞こえた気がしないでもないが、反応するともっと大変なことになりそうなので、今はスルーが正解だろう。
「あの子ねぇ、レポートが仕上がらなかったみたいで大学へ行ったわよ」
「は? いや……でもこの時期、開いてないんじゃないのか?」
「それが、教授の弟子になるとかなんとか言ってたかしら。ねえ?」
「そーそ。ま、いわゆるパシリってことよ」
お袋に振られた紗那が肩をすくめ、ソファへともたれかかった。
ああ……なるほど。いや、いいんじゃないか。それもアイツらしいといえばらしいし、そういう生き方もあるだろう。
今ごろ、半泣き状態で体よく研究室の掃除とか命じられてそうだな、なんてことが容易に想像できた。
「あらあらっ、もうこんな時間じゃないの。ささっと夕飯作らなくっちゃ」
「え」
「え」
「え」
今の時計の見方は、若干わざとらしさがうかがえた。
もしかして、ずっと言いたかったのか。今の。
羽織以外の身内のみがついうっかり本音を漏らしたのが気に入らないらしく、先ほど紗那がしたように、お袋も口を尖らせた。
「何よー。文句ないでしょう? 今日はせっかく羽織ちゃんが来てくれたんだもの。あ、ねえ羽織ちゃん。ハンバーグ好き?」
「あ、はい。好きで――」
「ちょおおお!!」
「待った!!」
こういうときの息のぴったりさも、ある意味でいえば兄妹か。
とんでもない品名が聞こえ、慌ててさえぎる。
意味を知らないのは、羽織だけ。
不思議そうに見られたものの、この場の雰囲気を……いや、お袋の機嫌を悪い方向へねじ曲げないためにも、できるだけ被害の少ないメニューへと変更させなければ。
「……母さんのあれは、爆弾だったなぁ」
あれこれとメニューを考えていた矢先に聞こえた、在りし日の反芻。
黒に赤という、色だけでいえば食欲のそそられるものの決して口にしてはいけないトラウマが蘇ったのか、父の言葉に紗那も俺と同じツラそうな顔をしていた。
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