「はー……」
 難が去り、無事に訪れる平和な時間。
 ああ、よかった。本当によかった。
 何よりもすべては、隣にいる彼女のおかげ。
「うまかったよ。ごちそうさま」
「とんでもない! 私はただ、焼くお手伝いをしただけで……」
「いや、あれが重要なんだよ。とても。適度に焦げ目がついて、しっかり中に火が通ってたろ? あれがハンバーグなんだから」
 自室へ戻ってきたところで、羽織がくすりと笑った。
 知らないというのは、しあわせなことでいいんだろうか。
 いや、いいよな。もちろんだ。
 俺と同じトラウマを、彼女まで背負う必要はない。
「っと……それじゃ、出かけてみる?」
「あ、行きたいです!」
 夕食時、当たり前のように『お祭り行くんでしょ?』と言われ、一瞬なんのことかわからなかった。
 ここへ顔を出す理由のひとつだったのに、よっぽど“ハンバーグ”の5文字が強烈だったらしい。
 毎年、この時期に近くの神社で開かれている、夜祭。
 小さいころは、本家へ集まってきた従兄らと一緒に出かけたものだった。
 ああ、もしかしたら泰兄たち家族は行っているかもしれない。
 幼いころの記憶は、気づかないうちに自分の人生に深く根ざしてるものらしいから。
「それは……」
「着替えようと思って、一応持ってきたんです」
 祭りがあるというのは伝えてあったが、まさか彼女がそこまで用意しているとは思わなかった。
 少し大きめのショルダーバッグ。
 何が入ってるのかと思ったんだが、なるほどね。
「そっか。じゃあ、待ってるよ」
「はい」
 目が合ってすぐ、少しだけ照れくさそうに微笑まれ、こっちにも笑みがうつる。
「…………」
「…………」
「……あ。そうか」
 にこにこしたままの彼女を見ていたものの動きがないなと思ったが、それは当然だ。
 目の前にいたら、着替えにくいよな。
「ごめん、気づかなくて」
「や、あのっ……すみません」
 ドアへ向かいながら小さく謝罪すると、慌てたように羽織も首を振った。
 そのとき、わずかに頬が染まっているように見え、どきりとする。
「…………」
 廊下へ出てドアにもたれると、ひんやりとした風がどこからか吹いてきた。
 明かりもないせいか、部屋よりも涼しく感じるものなんだな。
 それにしても……気が利かないというか、なんというか。
 昔からそうなんだが、ふいのとき弱いよな。俺は。
 着替えるって言われていたのにすぐ動けず、彼女からはまぁ当然言い出しにくいだろうに、ようやく気づくという遅さ。
 こういうところ、どうやったら鍛えられるんだろうな。
 孝之なんて、普段鈍いのに『ああ、なるほど』と瞬間的な動きや判断に感心することも多い。
 性格の違いか、はたまた育った環境か。
 って、性格は環境に基づくからこそ、彼女の細やかさと孝之の見た目に反した几帳面さっていうのは、やっぱりあの瀬那先生とお袋さんの賜物ってことなんだろうが。
「……っと」
「わっ! だ、大丈夫ですか?」
 もたれていたドアがふいに開き、体重をかけていたせいで身体がふらつく。
 どうやら着替え終わったらしい羽織が、顔を覗かせ――……って。
「……それ……」
「変、ですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
 姿を現した彼女をまじまじ見たまま、思わず目を見張る。
 黒地に鮮やかな白と淡いピンクで描かれた大ぶりの花が浮かぶ、浴衣。
 それは、先日自宅で見た赤地に金の矢羽柄ではない、初見のものだった。
「浴衣……変えたの?」
「葉月に見立ててもらったんです。えへへ。ちょっと……大人っぽすぎて、私だと似合わないかなぁって思ったんですけれど」
 先ほどまでとは違い、アップでまとめられた髪型も、雰囲気をがらりと変えた要因のひとつ。
 はにかんで微笑まれ、思わず喉が動いた。
「似合ってるよ」
「っ……」
「かわいい……いや、きれい、って言ったほうがいいかな」
「……祐恭さん……」
 手を伸ばし、かごバッグを持った彼女の手を取る。
 そういう顔されると、手だけじゃなくて……いろいろ出したくもなるんだけど。
「じゃあ、行こうか」
 頬へ口づけ、ではなく軽く頭を撫でるにとどめる。
 ここで手を出したら、多分、危ないって自覚があったらしい。
 我ながら懸命な判断だったと、今だけは褒めておこうか。


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