遠くから聞こえていた祭囃子が大きくなるにつれて、人の波も多くなった。
 普段はほとんど人通りのない住宅路も、今日だけは別だな。
 赤い提灯、祭り特有の屋台の並び、ぼんやりとしたオレンジの光に、発電機の音。
 参道を駆けていく子どもの姿につい昔の自分を重ね、足が止まりそうになる。
「お祭りって、なんだか楽しくなりますね」
「そうだね」
 きゅ、と握られた細い指の感触でそちらを見ると、言葉どおり、わくわくしているように羽織が笑った。
 まあ、この雰囲気は特別だよな。
 祭りを楽しむ年ではなくなったものの、やっぱり悪くないと思ってる自分もいる。
「足は平気?」
「あ、はい。少し柔らかいものを選んだので、大丈夫です」
 ふと目に入った赤い鼻緒。
 そういえば、祭りで草履を履いた記憶はない。
 浴衣に草履といういでたちは、それこそ七夕まつりのころになるとあちこちで見られるが、自分が伴うことは正直想像もできなかった。
 夏特有の色、か。
 白いうなじから首筋へつい視線が張り付き、不思議そうに首を傾げられたところで、ようやく『なんでもない』と首を振る。
 なんでもないのに、嘘のつき方だけはうまくなってるらしい。
「あ、お参りしましょうか」
「うん、まあ……いいんだけど」
「? どうしたんですか?」
「いや、別に」
 正面奥にある、正殿。
 石段を上がった先に広がる場所を指差され、うなずきながらもついあいまいな返事になった。
 あそこだけは、この参道と違って喧騒がまったくない。
 まるで、あの大きな鳥居ですべて無効化でもされているかのように、音がやむ。
 それは不思議な感じもするし、いかにも厳かめいていて悪くないとは思うが、明かりのない真っ暗な場所だからこそ、ふたりきりで行くことにほんの少しだけ抵抗もあった。
 周りが、な。
 高校時代に友人らときたときは、隅のほうでいちゃいちゃと人目もはばからずくっついている連中を見たことがあり、ヘドが出そうだったものだ。
 弓道をしてきたこともあり、こういう場所を大切にしてもきたからこそ、理解のないヤツらを呆れもした。
 が、今は俺も同じなのか。ひょっとして。
 いや、さすがにあそこで手を出そうとは微塵も思っていないが、やましい考えをすべて払拭した状態で参拝できるかというと、少しだけ自信がない。
 こんなに雰囲気を変えられるとは、な。
 普段と違い、まさに“艶やか”という言葉がぴったりくるような姿だからこそ、手を引かれながらもついついいろんなことを考えてしまい、自己嫌悪。
 天罰なんて、落ちませんように。
 大きな賽銭箱の前まで来て、財布を取り出すよりも先に願いごとが口をつきそうになった。
「……何をお願いしたの?」
「え? えへへ。内緒です」
 カラカラと乾いた音のあと通例の作法をこなすも、彼女はしばらく手を合わせて目を閉じていた。
 その横顔が、うっすらとした明かりに照らされて、それはそれは色っぽくて。
 つい観察してしまい、慌てて自分を律したところで、顔を上げた羽織と目が合う。
「内緒、ね」
「祐恭さんは教えてくれますか?」
「んー……いや、じゃあ、内緒で」
「もぅ。一緒じゃないですか」
 くすくす笑われるも、俺の場合は言えないというか、言ったら言ったで羽織が困りそうだな、と思ってのことで。
 素直に応えてもいいけれど、この場所ではもう少し大人しくいないとね。
 散々配慮が云々と言っていた人間だからこそ。
「少し散歩でもしようか」
「あ、はい」
 石段を降りる手前を、ゆっくりと右折。
 今度は俺が彼女をエスコートする番。
 石畳ではなく、土がむきだしになっている地面を踏みながら、榊の小道を抜ける。
 この先には昔、“主”がいると言われた湧き水の池がある。
 小学生くらいまではしょっちゅう遊びにきていたが、それこそ訪れるのは数年ぶりといったところか。
 月は出ておらず、ここには提灯といった明かりもない。
 おかげで星がまたたく様を見ることもでき、いかにも夏らしい夜空が広がっていた。
「あ……涼しい」
「ね。祭りの雰囲気も悪くないけど、少し休憩」
 ソースやわたがしといった匂いこそ“祭り”かもしれないが、あの照明と人の多さで少し疲れたというのもある。
 彼女には申し訳ないが、少しクールダウンといきたい。
 まぁもっとも、水辺とはいえここもさほど涼しいわけではなく、むしむしとした空気の中、ときおり吹く風が冷たいレベルでしかないが。
「平気?」
「大丈夫です」
 ベンチというよりもっと簡素な造りのソコへ腰かけたところで、彼女が足元に目を移した。
 草履なんて、俺は素足で履くことないからな。
 靴と違って擦れるものだからこそ、そうは言いながらも疲れはするだろう。
「……ん?」
「あ、ごめんなさい。なんか……嬉しくて」
「嬉しい?」
「だって、こんなふうに夜のおでかけなんて、初めてじゃないですか。なんか……デートみたいだなぁって」
 嬉しそうでついたずねると、予想外の柔らかな表情で喉が鳴った。
 デートみたい、か。
 もしかしたら、何も言えないでいるのを勘違いでもしたのか、彼女が慌てたように両手を振る。
「えっと、そういう意味じゃないんですけれど……なんか、すみません。嬉しくって」
「いや、なんていうか……デートでしょ? これって」
「っ……」
「俺は最初からそのつもりで誘ったんだけど」
「祐恭、さ……」
 小さく咳払いして彼女を見ると、まばたきしてから唇を噛んだ。
 ああ、だめだろ。そういう反応しちゃ。
 表情が変わり、わずかに瞳が潤みを帯びて見える。
 いつの間にか頬へ手が滑り、柔らかな感触につい顔が近づく。
 そういえば、今日はまだキスしてなかったんだったな。
 口づける寸前で目が閉じたのが見え、わずかに口角が上がる。
「ん……っ」
 濡れた音も、普段とは違う息遣いも。
 触れるたび耳に届く音が、どうしたって鼓動を速める。
 唇の柔らかさを味わってから舌を這わせると、おずおずながらも応えてくれ、離れないようにと腰へ回した手に力がこもった。
「……は……ぁ」
 今彼女の胸に手を当てたら、俺以上にどくどくと早い鼓動を感じられるんだろうな。
 離すのが惜しくて顎下へ引き寄せると、シャツを握った手の感触が少しだけくすぐったかった。
「下心がない男はいないよ?」
「っ……そ、ゆわけじゃ……」
「まして、こんな格好されたらね。俺のために、いろいろ考えて選んでくれたんでしょ?」
「……です」
「嬉しいよ」
「っ……」
「俺のためを思って、俺だけを考えて、動いてくれたことがこんなに嬉しいっていうか……満たされるっていうか……なんていうのかな。独占欲でいっぱいになる」
 はらりと頬へ沿った髪を耳にかけてやりながら、離れた外灯の明かりで浮かぶ濡れた唇を、親指でなぞる。
 俺だけの君。
 触れるだけでこんなにもいい顔をされたら、もっと先へ進んだらいったいどれほどの反応をしてもらえるのかと、今からぞくぞくする。
 なんて、口に出しはしないけどね。
 さすがにそこは、“内緒”。
「今夜は、送らなくてもいい?」
 疑問形じゃない。声に出しながらも、決定事項を伝えただけ。
 おそらく彼女にもそれがわかったのか、なんともいえない恥ずかしそうな顔をしながらも、小さくちいさくうなずいた。
「っ……あ!」
「え?」
 ふいに彼女の視線が外れたと思いきや、後方の空を指差した。
 長く白い指先を伝うようにそちらを見ると、真っ黒い空に咲く、小さな花。
「……花火」
「どこでやってるんでしょうね。すごい……きれい」
 ぐるりと池を囲むようにある林と空の境に見えるが、大きさとあとから響く音からして、距離はかなり遠そうだ。
 花火なんて、そういえば学生時代にもわざわざ見に行くことはなかったな。
 彼女と同じく孝之も祭りは好きであちこち行った覚えもあるが、わざわざ花火だけを見に連れ立った記憶はない。
 だが……これほど楽しそうに見てくれる相手が一緒なら、足を運んでもいいか。
 花火といえば夏がメインだが、県内探せば秋も冬もそれなりに楽しめる会場はいくらでもあるだろう。
「……あ……」
「続きはまたあとでね」
「っ……」
「残念。……そういう顔されると、待てなくなる」
「ぅ、祐恭さんっ!」
「いや、本音だから」
 頬へ口づけてから肩を引き寄せ、髪を撫でる。
 眉を寄せて困ったような顔をされるのも、なかなか悪くないものだな。
 あまりにも予想通り……いや、それ以上のかわいい反応をされ、小さく噴き出すと、唇を噛んだ彼女が『もぅ』と小さくつぶやいた。


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