「しっかしまー、何がいけないのかしらね」
「え?」
 カレーの材料はすべて切り終えて、現在煮込み中。
 そのとき、きらりと手首の時計が光りを反射して、視線が落ちる。
 ……えへへ。嬉しいなぁ。
 もらったばかりで傷ひとつない腕時計は、まだ私には大人っぽいかなぁって思うけれど、でも、祐恭さんが私を想って買ってくれたものだから、とても嬉しい。
 時間はまだ14時半。
 建物内じゃないからか、なんだか時間の進み方が穏やかに感じる。
 まだ行ってはないけれど、川のほうは遠浅で遊べるようになってるらしく、小さな子たちの声が小さく聞こえてきていた。
 なんていうか、ちょっぴり不思議な感じ。
 木の隙間から夏の強い日差しがときおり当たるけれど、全然熱くなくて、むしろ心地いいっていうか。
 ときおり強く吹く風でざぁっと木々が揺れる音は、そんなに記憶にあるはずないのに、懐かしいようにさえ思える。
 ドリンクホルダーのついたラウンジチェアへ深く座ると、たったそれだけで気分が高揚する感じもあるし。
 ああ、外って気持ちいいんだなぁ。
 普段聞いているのとは違う、いかにも“セミ”の鳴き声を聞きながら、それさえもうるさくないって思えるあたり、すごいなぁと素直に思った。
「えっと……何が?」
「だから、祐恭先生が手を出さない理由よ。んー……何か足りないのかしらねぇ」
「……足りない……?」
 顎に指を当てて真剣な顔をされ、同じ言葉を口にしていた。
 足りないって、なんのことだろう。
 というか、絵里の口ぶりだけで判断すると、もしかしたら“もの”じゃないのかもしれないけれど。
 ……うーん。
 女子力とか、なんかそんな感じのものかな。
 だとすると、確かに足りない気はする。
 おしゃれもメイクももっと上手になりたいとは思うけれど、よく知らないっていうか……勉強不足なところは確実にあるだろうし。
 そういう意味でいえば、葉月は女子力高いよね。
 うー……だったら教えてもらえばいいのかなぁ。
 爪のお手入れひとつ取っても、きっといろんな方法があるんだろうし。
「わかった。アンタ、隙がないのよ」
「……隙?」
「そう! 足りないのは、無防備だわ!!」
「っ……えぇ……?」
 目の前に座っていた絵里が、立ち上がってから私を指さした。
 隙。それって、足りないとかっていうものなの?
 頭の中に“?”がいっぱいで、だけど絵里はとても真剣な顔だから反応に困る。
 すがるように葉月を見てみると、さっきからほんのり甘い香りを漂わせている、鉄鍋……じゃなかった。ダッチオーブンを見やってから、私を見て首をかしげた。
「えっと……それって、何? どういうこと?」
「は!? いや、だからね? アンタに足りないのはこう、無防備さっていうか、だから……どゆこと?」
「え?」
「聞いちゃうところ!?」
「いや、だってなんか……葉月ちゃんなら、さらっと答えてくれそうなんだもん」
 ミトンというより、もっと耐熱です! みたいなグローブをはめた葉月が、ダッチオーブンを火から下ろした。
 ていうか、困るよね。当然だよ。
 私だってどころか、言い出しっぺの絵里がそもそもわかってないんだもん。
 絵里と私の間に置かれていたラウンジチェアへ腰かけながら、くすくす笑うのを見てため息が漏れた。
「どういうこと……かな?」
 さらりと髪が流れ、肩から落ちた。
 何気ない動作なのに、絵里が一瞬『ほお』とか声をあげたのが気になるけれど、でも確かに女子力高いなぁと改めて思う。
 髪を伸ばしたら同じに――ならないよね、絶対。
 となると、何をどうしたらいいんだろう。
 私に足りないのは、無防備とかっていうふわふわしたものじゃなくて、もっと明確な何かだと思うんだけど。
「いいわ。やっぱりここは、孝之さんに聞きましょ」
「えぇえ?」
「孝之さーん! ちょっと聞きたいんですけどー!」
「わわっ!? 絵里!!」
 何を思ったのか、いきなり立ち上がった絵里があっちの方向へ叫び始めた。
 両手を口元へ当て、メガホンよろしく。
 ていうか、相変わらず突飛すぎてとっさに反応できなかった。
「絵里ってば、落ち着いて!」
「いや、だってここはもう飼い主……じゃなかった、カレシに聞いたほうがいいじゃない。なんかてっとりばやくて」
「そういう問題じゃないでしょっ!」
「えっと……たーくんたち、まだ帰ってきてないよね?」
「…………」
「…………」
「そういえば……釣り場がどうとかって……」
「……言ってたね」
「っちぃ、肝心なときに……!」
 さわさわと風で木が揺れて、さわやかな音だけが返ってきたのが幸いかもしれない。
「でも、大切に思ってくれてる証拠だと思うよ」
「ま、それはそうね。個人的には、よくもまぁ祐恭先生の理性がもつなと感心するけど」
 流れた髪を押さえた葉月がにっこり笑ったことで、絵里もそれ以上は何も言わなかった。
 ――あの夜。
 あの、とき。
 キスをしてもらえて、抱き寄せられて、触れられて……それ以上のところまで進んでも構わない、とさえ思った矢先に祐恭さんは離れようとした。
 どうしてって思いもあったし不安にもなったから、『祐恭さんならいいんですっ』って言っちゃったんだよね。
 好きだから、キス以上の関係になりたかったのは確かだし、願わくばって思いも当然ずっとあったけれど、祐恭さんは驚いたように目を丸くしてすぐ、困ったように笑った。
 そのまま抱きしめられたけれど、あの顔を見たら咄嗟に謝っていた。
 何に対しての謝罪かは、自分でもよくわからない。
 ただあんなふうに笑われて、どうしていいのか戸惑ったというのはあったと思う。
「ねえ、みんなもうじき帰ってくるだろうから、先におやつにしましょうか」
「おやつ!?」
「え! キャンプでおやつなんて食べられるの!?」
「ふふ。おいしくできてるといいんだけど」
 重たそうなダッチオーブンのふたを、葉月がゆっくりとずらした――途端、ふんわりと漂っていた甘い香りが一層強くなった。
 絵里とふたりで覗き込むと、目に入ったのはほどよく焦げ目のついた生地。
 この香り、この見た目。これって……もしかしなくても。
「チーズケーキ!?」
「そうなの。簡単に作れるから、ちょっと甘いものが食べたいときに重宝するんだよ」
「ふあぁああなんてことぉお!? ちょ! すっごいおいしそう!! 食べたい! てか、食べましょ!!」
 まさか、こんな場所でいかにも手作りデザートを食べられるなんて思わなかったからか、思わず絵里と一緒に立ち上がっていた。
 葉月がその様子をみてくすくす笑ったけれど、もうね、今はそれどころじゃない。
 目の前にある、できたてほやほやのベイクドチーズケーキを食べさせてもらうのが先!
「え、え、私何したらいい? お皿とか用意したらいいかな?」
「っし! じゃあ私はお茶の準備するわ!」
 互いに即分担し、絵里と別れてキッチンへ向かう。
 このコテージには、包丁やまな板、お鍋なんかのキッチン用品はもちろんだけど、カップやグラスといった食器も10人分程度用意されている。
 お兄ちゃんは『キャンプ初心者には十分だな』って言ってたけど、きっと初めてのキャンプじゃテント泊って厳しいだろうし、次もあるならこういうキャンプでいいかなぁと私は思った。
「夜、たき火をしたときにはマシュマロクラッカーを作ろうと思ったけれど、昼間はもう少ししっかりしたおやつ、食べたいでしょう?」
「「食べたい!」」
「ふふ。よかった」
 お皿とナイフを手に戻ると、チーズケーキがカッティングボードへ移されたところだった。
 うぅ、すごくおいしそう!
 きっと、この様子をお兄ちゃんが見たらまっさきに『ずりーぞお前らだけ!』って言うかもしれない。
「6等分だと、少し大きいかな?」
「ずぇーんぜん! むしろ大きめのいただきます!」
 ナイフを入れようとした葉月に、絵里がぶんぶんと首を横へ振った。
 でも、その意見には私も同意。
 いつだって葉月のおやつがおいしいのを知ってるから、できることならたくさん食べたい……って言ったら、ほかの人に怒られちゃうかもしれないけど、でも、甘いものを食べられなくて怒るのは若干1名だけのはずだから、大丈夫なはず。
 それにしても、こんなに本格的なおやつを外で食べられるとは思わなかったなぁ。
 なんでも、葉月は小さいころからキャンプをしていたらしく、それでいろんなアウトドア料理も覚えたんだとか。
 そういえば、葉月の昔のアルバムを見せてもらった中にも、恭ちゃんとふたりで大きなお肉の串焼きを食べようとしてるものがあったっけ。
「みんな紅茶でいいわよね?」
「うん!」
「ありがとう、絵里ちゃん」
「どいたしましてっ! ささっ、3人で食べるわよー!」
 タンブラーに入れてくれたストレートティーをトレイで運んできた絵里に、それぞれお礼を言ってから着席。
 思わず3人で顔を見合わせた途端、妙におかしくって笑い声が漏れた。
「それじゃ」
「せーの!」
「いただきます」
 フォークを手にあげた声はそれぞれで、だけどひとくち食べたあとの顔は、みんな同じようなものだった。


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