「…………」
「…………」
「…………」
 本日2度目の再招集がなされたのは、瀬那先生の自宅のリビングだった。
 今日、瀬那先生とお袋さんは揃って親戚と夕食を食べるから、と外出していることもあり、この家にいるのは俺たちだけ。
 ……いや。
 俺たちだけというのは正確じゃないな。
 なんといっても目の前には――昼間とはまるで違う、3人の姿があるんだから。
「……頭いてぇ」
 まず最初に口を開いたのは、孝之。
 このセリフ、今日だけで何回聞いたことか。
 瞳を細め、それはそれは深いため息をつき、こめかみに手を当てる。
 まぁ、気持ちはわからなくもないけどな。
 現に彼の隣には、同じような表情をしている純也さんもいるわけだから。
 ちなみに、例のチョコレートを受け取った山中先生は、何度も何度も孝之に頭を下げて礼を言いながら、るんたるんたとスキップよろしく帰っていった。
 残ったのは、たったひとつのチョコレート。
 果たして、あの中身はいったいどんなモノが詰まっているのか、知りたいようで知らないほうがいいような気もする。
「……こんなことになるなんて」
 ぼそり。
 純也さんが、キッチンへ向けていた視線を戻し、細く長いため息をついた。
 絵里ちゃんの姿は、ここからでもよく見える――というより、3人ともよく見えてはいるが、なんだかこう、見てはいけない妙な力でも働いているのか、正視はできていない。
 日が落ち、ようやく暗くなり始めてきた19時過ぎの現在、うまそうな匂いが漂ってはいるものの、空腹感はまったくなかった。
「ていうか、まさかこんなすごい効き目なんて思わなかったよ。そもそも、大丈夫なの? なんかこう……薬事法的な意味で」
「さー……どーなんすかね。つーか、アレっすよ。効き目が何時間現れるのか、そのへん詳しく聞いてないんで……」
「まじで! うわああ……どうしよ。朝起きてもアイツがあんなんだったら俺、泣くかも」
「……やっぱり純也さんは、普段の絵里ちゃんがいいんですね」
「当たり前だろ! 祐恭君は何? あんな羽織ちゃんでもいいってこと?」
「いや……なんかこう、正直彼女に関してはそこまで違和感がないというか……」
「まあそれは……なきにしもあらずだけど」
 優人からもらった属性チョコという名のブツを食べてしまった、我らが彼女たち。
 中身はまったく違った成分のようで、三者三様の変化を見せた。
 ていうか……見た目以上の変わりようなんだけど、本当に大丈夫なのか。これ。
 変わるはずのない性格まですり替わっているようで、依存性がないのかという根本的な不安は拭えないんだが。
「なあ。やっぱこれ、どーやったら元に戻るかっていうの聞いたほうがいいんじゃないか?」
「あー……やっぱそうっすよね。ちょっと聞――」
「お待たせ」
「……え」
「…………うわ」
「……これは……」
 トレイに載せられてきたのは、冷茶。いたって普通の飲み物で、まったく妙なところなどない一般的なもの。
 だが、持ってきた人物が一般的でないというか普段と180度異なるというかで、それぞれが妙な反応をした。
「……絵里?」
「え?」
「お前、さ……なんか具合でも悪いの?」
 それぞれの前にグラスを置いてくれながら、絵里ちゃんが首を傾げた。
 きょとんとした顔のまま純也さんを見つめ――ふっと表情を緩める。
「もー。何言ってるの? 純也ってば。具合悪いところなんて、どこもないよ?」
「いや……そう、か?」
「大丈夫ったら。心配性なんだから」
 くすくす。
 口元に指先を当てて微笑む様は、どこからどう見ても“オトメ”だった。
 いや、これは決して間違いじゃない。
 巷で言われる女子力とやらは、確実に高いであろう。
 が、問題なのは絵里ちゃんがやっている点。
 これをしているのが、彼女以外ならば何も問題はなかった……と言ったら、素の彼女は怒鳴るかもしれないが、今はそんな要素はまるでない。
 いわば、毒が抜けてしまったかのようにしおらしく、表情も仕草も、何もかもが穏やか。
 ……あー、純也さんが頭抱えた。
 普段は『もっと大人しくしろ』とか『素直になれ』とか言っている彼だが、実際に絵里ちゃんが豹変したことで誰よりもショックを受けている。
 きっと、今後はそんなセリフ言わないだろうな。
 『変な純也ね』と笑いながらキッチンへ戻っていた絵里ちゃんを見ながら、ふとそんなことを思った。
「…………」
 純也さんが撃沈していることを知ってか知らずか、孝之は相変わらずキッチンから視線をずらそうとしていない。
 どうやら夕食の支度をしてくれているらしく、戻った絵里ちゃんも加わって3人はカウンターの向こうにいるから、手元まではわからない。
 が、表情はばっちり見えているわけで。
「ひゃ……っ……は、葉月、これって……」
「大丈夫よ。怖くないから」
「でもっ……でもっ!」
「……ね? そっと触れば大丈夫。ゆっくり、そっと……そう。上手ね」
「ふあ、あっ……やだ……なんか、すごい……」
「もー、羽織ったら。怖がり過ぎじゃない?」
「……うー……だって」
 ごくり。
 思わずあらぬ想像をしてしまい、申し訳なさから視線が逸れた。
 3人の中でいちばん背が低いのは葉月ちゃんなのに、どうしてこんなにも年上のようなオーラを醸し出しているのか。
 確かに、普段も3人の中ではいちばん落ち着いていて、いちばんしっかりしている。
 だが、今日は特に違うように見えてしかたがない。
 立ち居振る舞いも、話し方も、表情も。
 どこか余裕めいていて、だからこそ妙な色香を醸し出しているように見える。
「もう。なぁに? たーくんったら、さっきからずっと見て。何か付いてる?」
「は? いや……別に」
「じゃあ……。なぁに? どうしたの?」
「っ……」
 くすくす笑いながら、葉月ちゃんがこちらへ姿を現したのを見て、孝之は肩を震わせると『うっわ』と小さく口にした。
 まっすぐに孝之のもとまで向かい、床へ両手と膝をついて顔を覗き込む。
 その格好は、間違いなく正面に座っている孝之には、胸元が強調されているはず。
 しかも、この表情。
 なんていうかこう……普段より、眼差しが扇情的とでも言えばいいのか。
 どうやらそれは孝之がいちばんよくわかっているようで、すい、と頬に触れられた瞬間、口を真一文字に結ぶと明後日の方向を見た。
「お腹空いちゃった? もうちょっとでできるから、待ってられる?」
「っ……おま……あのな。俺はガキじゃね――」
「ん、知ってるよ。……ふふ。じゃあ、もう少しだけ。ね? もう少しだけ、待ってて」
 ごくり。
 喉を鳴らした孝之の逸らした視線を絡め取るように、葉月ちゃんは両手を頬へ当てた。
 瞳を見つめ、目の前でにっこり笑い――するりと耳元を撫でる。
 吐息がめいっぱい含まれた声は、普段よりもっと柔らかで、しどけなくて。
 くるりと踵を返した葉月ちゃんを見送りながら、らしくもなく孝之の耳が赤くなってるように見えた。
 ……まあ、気持ちはわからないでもない。
 ていうか、なんだあの色気。
 いつもとまるで違い、普段比180%ほど発揮されて見える。
「…………心臓に悪い」
 盛大なため息をついた孝之が、がしがしと頭を掻いた。
 普段はいかにも清楚だからこそ、の反応なんだろうな。
 迷うことなく携帯を取り出し、パネルに触れてから耳へ当てる。
 無言の行動だが、かけた先が誰かは聞くまでもなくわかった。
「……あー、もしもし。今いいか? いや、それはいーからちっと聞けよ」
 テレビが付いていないのもあり、優人の声が微かだが聞こえた。
 どうして電話がきたのかは、若干わかってもいるんだろう。
 けらけらした笑い声も耳につき、ああ絶対に楽しんでるなとわかる。
「アレの効力ってどんくらいある? ……あ? ちょっと待て。もっかい。なんだって?」
「いやー、俺も使ったことないから知らないんだよねー」
「はぁ? おま、それってすげぇ無責任じゃ――」
「っ……うわ!」
「なっ……お前……!」
「どーもー。お邪魔しまーっす」
 ガラリ、と音を立ててリビングの網戸が開き、携帯を握ったままの優人が姿を現した。
 からから笑いながら当たり前のように上がり、すぐそこへ座ってから、にかっと人懐っこい笑みを見せる。
 一瞬の出来事ではあったが、いかにもコイツらしい登場具合に、携帯をまだ握ったままだった孝之がようやく我に返る。
「おまっ……馬鹿か! どっから入ってくんだよ!」
「いやー、こっち開いてるかなーと思って」
「きちっと玄関からこいよ! 窃盗か!」
「やだねー、何も盗らないよ? 俺。てか、むしろ俺が玄関からちゃんとピンポン鳴らして入ってくるほうが、不自然じゃね?」
「そ……まぁ、確かにわからないでもねーけど」
「……どういう会話だ」
 うなずいた孝之に思わずつっこみを入れるものの、従兄弟というのもあって普段から優人はこの家では傍若無人なんだろう。
 ああ、確かに手土産を持ってきちんと『すみません、お邪魔します』なんて言っている姿は想像できなかった。
「あー、なんか喉乾いたな。羽織ー、俺にもお茶ちょーだい」
 ひらひらと手で自分を仰いだ優人が、当たり前のようにキッチンへ声をかけた。
 ――明らかに意図したような顔で。
「え? 優くん、いつ来たの?」
「ついさっき」
「そうなんだ。ちょっと待ってね、今持っていくから」
 驚いたように目を丸くした羽織が、すぐににっこり笑った。
 ……いつもと同じように見える。
 いや、それこそ9割はいつもと一緒なんだ。彼女に限っていえば。
 ただ――残りの1割が、先ほどからいかんなく発揮されていて、だからこそどきどきというよりは、内心ひやひやしてもいる。
 ほら。
 ついさっきと同じパターンじゃないのか、これは。
 なみなみと冷茶が注がれたグラスをひとつ、お盆に載せて運んでくる彼女。
 その手元はなぜか震えていて、かたかたと嫌な音が立っている。
「お、おまちどうさ――きゃっ!」
「っ……!」
 今までグラスを見つめていた彼女が、ふっと優人へ視線を移した瞬間、グラスがものの見事に斜めになった。
 まるでスローモーションのように、液体がグラスから塊のまま溢れ、生き物のように波打つ。
 そして――彼女にもっとも近い、俺へ。
 一瞬見えた、冷茶越しの電灯はほんのりとの淡い緑色だった。

 ばしゃあ

「きゃー!? う、ううう祐恭さんっ!!」
「…………」
 あ、と思った瞬間にはワイシャツからスラックスまで冷茶をかぶっており、じわじわと濃い色のシミが広がっていく。
 ぼたぼたといろんなところから冷茶が伝い、正直心地は悪い。
 だが、慌てたように俺の腕を引いた羽織が、今にも泣きそうな顔で『ごめんなさい!』を連呼するのを聞きながら『大丈夫』を同じく何度となく言うしかできなかった。
「い、今拭くものを……っ、ううん、やっぱりそれより洗面所へきてください!」
「え? いや、でも……」
「いいからっ!」
「っ……わか、った」
 ぎゅうっと腕を引かれて立ち上がった矢先、案の定染み込んでいなかった冷茶がぼたぼたと音を立てて水たまりを作った。
 のを見て、またも羽織が声をあげる。
 どうやら一連のことを見ていたらしい絵里ちゃんと葉月ちゃんがキッチンから飛んできたが、それを見て羽織はまた慌て、その拍子にソファへぶつかって水たまりへ前のめりに着地するという、大惨事にみまわれた。
 ……そう。
 羽織に起きた1割の現象は、これ。
 運が悪いわけでなく、いろいろな空回りとでもいえばいいのか。
 泣きそうになっている彼女を見ながら、おそらくここにいる誰よりも例のブツを把握しているであろう優人が『さすがドジっ娘』とからから笑った。


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