「うぅ……本当にごめんなさい」
「いや、俺は平気だから。それより、羽織のほうがよっぽど――」
「ううんっ、私のほうが大丈夫です! 祐恭さん……だって、二度目じゃないですか……」
「いや、まあ……うん」
 だから、平気というかなんというか。
 これ以上付け足したら、恐らく彼女は崩れ落ちるほど猛省してしまいそうなので、さすがにやめる。
 今日の水難は、冷茶がふたつ目。
 ひとつめは、ここへ到着してすぐ。珍しく打ち水をしていた羽織に、頭から水をかけられた。
 だがまあ、あれはまだ気温も高かったし、水だったのでさほど難はなかった。
 携帯も鞄へ入れっぱなしだったし、唯一の財布もバックポケットだったので、困りはしない。
 しかしながら、まさかこれほどの効き目とはな。
 いったいどういう構造というか内容物なのか、非常に気になる。
 が、さすがに分析したところでとんでもないモノが出てくる予感しかないので、しない選択が正解だろう。
 すでにもう、消化吸収されていることはよくわかっているのだから、あとはもうとっとと効力が切れることを願うしかない。
「……うぅ……もぅ、なんでこんな……」
 懸命に拭いてくれながら、羽織が今にも泣きそうな顔を見せた。
 俺よりも目線は下であり、当然背も低いので、見下ろせばその顔が目に入る――だけじゃない。
 どうしたって、目が行くだろう。
 ……気づいてないんだろうな、確実に。
 普段でも怪しいのに、今の状態では“絶対”とつけてもいいほど彼女の注意力は落ちている。
 教えてやるべきか、やらざるべきか。
 いや、そこを迷うことはないんだろうが……つい、言いにくいというか、そびれるというか。
「……ん?」
 ため息をついた羽織が一瞬手を止めたとき、はらりと手元に何かがかかった。
 細いひものようなもので、だからこそ『ん?』と視線が止まる。
 材質からしてタオルでないことはわかったものの、てっきり、吸収性のいい布か何かで拭いてくれているんだと思ったんだが、明らかに違う……んじゃないか。これは。
「え?」
「これ……」
「…………わあぁ!?」
 再度拭こうとした彼女の手首をつかみ、そっと目の高さまであげてやる。
 途端、“それ”が何だかわかったらしく、羽織は慌てて布を広げた。
「……これ……もぉやだぁ……」
 こういうとき、いったいなんて声をかければ正解なんだろうな。
 今まで懸命に拭いてくれていたものは、どうやら羽織のキャミソールだったらしく、『お気に入りだったのに』と小さなつぶやきまで聞こえた。
 まさか、ここまでとは。
 さすがに、普段であれどここまでの失敗をしないため、目に見えて羽織が落ち込むのがわかったが、どう言えばいいんだ。
 慰めるとは少し違う雰囲気に、たまらず開きかけた口を閉じる。
 どれもこれも彼女の好意によるものだからこそ、励ましようがない。
 ほこりが立つからと打ち水をしていた。優人へお茶を運ぼうとしていた。うっかりこぼしてしまったものを、拭こうとしてくれた。
 どれもこれも、彼女の気遣いからの行為なのに、ことごとく裏目に出るとは。
 今ここで『大丈夫』などと言っても、沁みるはずがない。
 へたをしたら『何も大丈夫じゃないです』と泣き出してしまいそうだからこそ、両手で広げたキャミソールを見つめる姿をただただ見守るしかできなかった。
「……はあ」
「俺はもう大丈夫だから。とりあえず……さ」
「うぅ、洗います……先に戻ってください」
「うん。それも必要だと思うんだけど、もうひとつ」
「え?」
「羽織も着替えて」
「私……ですか?」
「うん。頼むから」
 ため息をついた羽織の両肩に手を置き、静かに伝えはするも、やはり彼女は的を射てない様子で首をかしげた。
 ああ、だから。そういう純粋な顔で見ないでもらえるかな。
 いろいろ――困るから。
「透けてるから、着替えて」
「え……? っひゃわぁあ!?」
 まっすぐに目を見たままだったのが、もしかしたらまずかったかもしれない。
 が、ほかに方法は思い当たらなかったし、ストレートに言わないと伝わらない恐れもあった。
 慌てて胸元を腕で覆ったが、今まで見えていた以上、申し訳ないほど目には焼き付いている。
 改めて自分はただの男なんだな、と情けないところをうなずくしかなかった。

「……あれ?」
 半泣き状態の羽織を洗面所へ残してリビングへ向かうと、純也さんと絵里ちゃんがちょうど靴を履こうとしているところだった。
 というか、正確には絵里ちゃんは自らの意志で履こうとしているわけでなく、明らかに後ろ髪引かれまくりなのを、純也さんが背中を押してなかば無理矢理にというほうが正しい。
「帰る……ん、ですね」
 無言で振り返った純也さんの顔を見て語尾を変えると、やはり何も言わずにうなずいた。
 絵里ちゃんはリビングを気にしており、小さく純也さんへ反発しているようだが、いつもの勢いは当然皆無。
 それどころか、ついついと袖を引っ張ってもおり、どこからどう見てもいじらしい彼女にしか見えなかった。
「これ以上あの気にあたってると危険だ」
「……気?」
「入ればわかる。いろんな意味で、やっぱり集まっちゃダメなんだよ。属性もちは別々に監視しないと大変なことになるぞ」
 なんだか、やけに現実離れした内容をまくしたてつつも、純也さんはきっちり絵里ちゃんの腕をつかんでいた。
 顔が真剣すぎて、とてもじゃないが茶化していい雰囲気ではないので、うなずくにとどめる。
 しかし……なんだ、“気にあたる”って。
 いや、もちろん意味としては理解できるが、この場にそぐわない気がし――たものの、ひょっこりリビングの扉からダイニングを見て把握した。
 あそこだけ、明らかに色が違う。
 オーラとでもいえばいいのか。はたまた、実際に何かが漂っているのか。断言こそはできないが、明らかにこちらとあちらの空気が違っているのだけはよくわかった。
「あれ? 絵里、もう帰っちゃうの?」
「うん。ごちそうさま」
「そっか。じゃあ、気をつけ――わわ!?」
「っ……!」
「わああ、ごめんなさい祐恭さんっ!」
 足音で振り返ると、Tシャツに着替えた羽織が歩いてきたまではよかったが、間違いなく何もなかった廊下の真ん中でつんのめり、どーん、と両手を突き出したまま俺へ突進してきた。
 が、背中に当たったのは手でも腕でもなく、柔らかな感触。
 これが何かなんて、考えるまでもなくわかる。
 俺の両脇に、彼女の腕が通ってるんだから。
「……意味わかった?」
「はい」
 背中で『ごめんなさい』と連呼する羽織の腕を撫でつつ、純也さんに大きくうなずく。
 ここは危険だ。早く立ち退かなければ。
 見えない力の効力が強大すぎて、正直違う意味でどきどきと苦しさを覚えた。
「おいしい?」
 リビングに入ってすぐ、ダイニングから甘い声が聞こえる。
 いや、葉月ちゃんはいつだって柔らかくしゃべるので、普段と変わりないといえばそう。
 だが、違う。明らかに、意図されているような甘さというか、どこか媚びているかのようにも聞こえ、彼女らしくないからこそ眉が寄る。
 が、誰よりもわかっているのは、目の前で箸を握っている孝之だろう。
 テーブルの上には飯台が乗っており、中にはひつまぶしが鎮座ましましている。
 今日の夕飯はうなぎだそうだ。
 どういう経緯でそう決まったのかはわからないが、妙な気をまとわりつかせている3人が寄って決めたメニューなのだから、見えない何かが決定したんだろう。きっと。
 意図的であり、故意的だから困る。
 そうとわかれば普段なら声を荒げる孝之でさえ、今のところ一度も3人を叱り飛ばしてないんだから、だいぶ深刻だ。
「……よりによって、なんでこんな盛り盛りなんだよ」
「ここのところ、暑い日が続いてるでしょう? バテたりしたら困るから……たーくんは毎日、お仕事があるんだから」
「へーきだっつの。ンな体力仕事じゃねーだろ」
「でも、心配なの」
 飯台からひつまぶしをよそった孝之の茶碗前には、うなぎのかば焼きがこれでもかと乗っていた。
 ひつまぶしなのだから、ご飯そのものにもかなりの量が含まれているが、さらにアレを乗せて食えということなんだろう。
 ふっくらと分厚いうなぎは、見るからに柔らかでうまそうだが、あれを全部食べたら大変なことになるだろうよ。
 今夜はいろんな意味で試されているとしか思えない。
「いけなかった? おいしく……ない?」
「いや、うまいけど」
「よかった……たーくんに喜んでもらえるなら、私、なんでもするから」
「な……!」
「だから言ってね。……なんでも。ちゃんと、するから」
 息を含んだ声は、いつもより濡れて響く。
 明らかな意図を感じたのは俺より孝之のほうだろうから、内心で“大変だぞお前”と今夜を案じてやるにとどめる。
 ごくり、と孝之が喉を動かした途端、茶碗を持とうとした手を滑らせ汁物の椀に当たった。
 拍子に中身がこぼれ、机を伝ったところで、葉月ちゃんが慌てたように立ち上がる。
「大丈夫? 濡れなかった?」
「いや……」
「もう。たーくんたら、どうしたの? しょうがないんだから」
「っ……」
 ふふ、と笑いながらテーブルを拭いた彼女が、孝之の顔を下からのぞきこんだ。
 ああ、あれはもう確実にヤられたな。
 目線が葉月ちゃんの顔から落ちてすぐ、頭を抱えたのが見え“ご愁傷さま”と内心つぶやく。
 だがまあ、仕方ないんじゃないか。これはもう、男のサガだ。
 つい先ほど、俺とて同じ経験をしているんだから、責めることも嘲ることもできない。同類だからな。
「ん、やだ……こぼれちゃった」
「ッ……おま……」
「たーくん、拭いてくれる? や……ぁ、冷た……」
「っち……!」
 ちょっと待て。
 そう言いかけたであろう孝之は、奥歯を噛みしめると慌てたように立ち上がった。
 一瞬、だった。
 本当に一瞬のできごとすぎて、アイツも動揺したらしい。
 迂闊といえばそうかもしれないが、これはもう……なんだ。人災か。天災か。いや、単純に試されてるんだろうな。恐ろしい。
 葉月ちゃんが冷茶のグラスをかたむけた瞬間、唇の端から伝った液体が、きれいなラインを描いて胸元へ滑り込んだらしい。
 慌てるというより、ひどくたおやかな仕草で胸元の服をつまんだ彼女は、それはそれはもう艶やかな表情を孝之へ真正面からぶつける。
 場所が場所だけに、孝之も躊躇するだろう。まあ、わかる。
 が、きっと葉月ちゃんは孝之が動いてくれるまで、ああいう態度を続けるんじゃないのか。
 普段と180度違いすぎるが、それはすべて薬のせい。
 そう。シラフじゃない。アレは酔いの一種だと思えば、なんてことはないじゃないか。
 ずい、と胸元を見せつけるかのように身体を倒しながら、あられもないセリフというか反応というかを……。
「え?」
「いや……なんか、ちょっと……」
 正視しかねる状況にたまらず視線を逸らすが、自分と同じくそちらを見ていた羽織の目元も覆う。
 目の毒。いろんな意味で。
 回れ右をし、未だ聞こえてくる聞いてはいけない声を聞きながら玄関まで向かうが、忘れてはならないものがもうひとつ。
「優人。お前もこい」
「え? 俺?」
 ソファにどっかりと座ったまま野球を見ていた優人を指差すと、なぜ呼ばれたかわからないような顔をした。
 それが腹立たしいことに、どうして気づかないんだお前。
 ああ、そうだった。お前は昔からそういうやつだったよ。
 というか、そもそもこの状況はすべてお前が作り出したんだもんな。
 ……この加害者めが。
 『しょーがないなー』とか言いながらようやく立ち上がったのを見てほっとするも、あえて孝之へ『ほんじゃ、がんばれよ』と余計なひとことを残したせいで、本日初となるヤツの怒声が響いた。
「お前、わざとだろ」
「何言ってんだよ、そんな器用じゃないってー」
「器用だろ! というか、計算なんじゃないのか? 何もかもすべて。だったら察しろよ」
「やー、ごめんごめん。俺、空気って読めないうえに感じたことないんだわー」
 器用に両手を頭の後ろで組みながらも、いつの間に移動させたのか、きっちり玄関へ置かれた靴を履いた。
 その姿はやはり飄々としていて、相変わらずこいつらしいと素直に思う。
「んじゃ、羽織。またな」
「あ、うん。またね」
「気をつけろよー? ざ・ドジっ娘!」
「……え? ドジ……?」
「優人!」
「へーへー、帰りますよー」
 だから、どうしてお前はそうやってちょいちょい捨て台詞を残していくんだよ……!
 今度は、不思議そうに首を傾げた彼女の耳を塞ぎ、ぴしゃりと言い放つ。
 とはいえ、こんなことに効果があるとはミリ単位でも思っちゃいない。
 ああ、そうだ。コイツはこういうヤツだよ。
 『お先に』と言い残してドアから出て行ったヤツの後姿を見送りながらも、きょとんとした顔で俺を振り返った羽織に、結局は俺が“ドジっ娘”の説明を求められるはめになった。


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