「ねぇ、祐恭さん」
「ん?」
「……こうして……帰る場所が同じって、いいですね」
 車を駐車場に停めてから、戻って来た我が家。
 ……我が家。
 そう言える今は、本当に満たされていて。
 幸せの現れだって、自分でも思う。
「そうだな」
 リビングに入った私を見て、彼が笑った。
 優しい、顔。
 ……それが見れて、ほっとする。
「毎日が本当に楽しくて、すごく嬉しいんですよ?」
 ちょっと前までは、当たり前じゃなかった。
 当たり前のように私は私の家に帰って、彼は彼の家に帰って。
 ……それが、今ではこう。
 一緒の家から始まって、一緒の家に帰る。
 これって、当たり前なんていえないくらい、大切で特別なことだ。
「……羽織ってさ」
「え?」
 ふと、思い出し笑いをするかのように私を見て微笑んだ彼が、口元に手を当てた。
 それは、どちらかというと顎に触れているような……彼らしい、独特の仕草だ。
「なんか、ほっとけないんだよな」
「……え……」
「俺がなんとかしてやらなきゃ、って。……俺がいなきゃダメなんだなって、心底思う」
「っ……」
 その顔は、正直見たことがないような優しくて……溶けてしまいそうなものだった。
 ……なんて顔をするんだろう。
 かぁっと顔どころか身体まで熱くなって、思わずぎゅっと強く肩をかき抱いていた。
「……保護欲とでもいうか…………いや、やっぱり支配欲だな」
「え!?」
「いや、何も」
 とんでもない発言に、どきどきしていた気持ちが一瞬軽く飛んだ。
 瞳を丸くして、まじまじと見つめる。
 だけど、さらりと受け流した彼は、当然のように肩をすくめただけだった。
 ……なんだか……ずるいなぁ、もう。
 いきなり、恥ずかしくて嬉しくてたまらないようなことを言ってくれたかと思いきや、今度はすぐに反対の顔を見せるんだもん。
 相変わらず、笑顔しか浮かばない。
 しょうがないなぁっていう思いと、もぅっていう気持ちと。
 でも彼は、どんなときでも私の顔を見て、すごく楽しそうに笑ってくれる。
 ……それが、ちょっぴり嬉しくもあり……誇らしくもあり。
 彼が笑顔でいてくれるっていうのは、やっぱり私にとっては何よりも特別な自慢でもあるから。
「そういえば……今さらですけど」
「ん?」
「祐恭さん、今日ってお仕事は……?」
 自分でも、どうして今ごろってちょっと思う。
 朝イチから買い物に付き合ってもらって、そのあとは洗車をさせてもらって。
 ……でも、ちょっと思った。
 今はもう、彼は大学でお仕事をしている人なんだ、ってことを。
「ウチの研究室は、土曜は基本的に休みなんだよ」
「……そうなんですか?」
「そう。まぁ、行きたいヤツが行くっていうことにはなってるけどね。もちろん」
 苦笑交じりにうなずいた彼を見て、まばたきが出た。
 ……なんだか……気のせいかな。
 彼のその苦笑の理由に、宮代先生が関わっているような気がするんだけど。
 もちろん、彼が言ったわけじゃないし、ただ単に私の思い込みかもしれないけれど……でも、なんとなく。
 研究室の全権力を持つ宮代先生が、そんな令を敷いたような気がしてならなかった。
「どうしてもやりたいヤツはいるし、むしろ家になんかいたくないってヤツもいるし。……助手の田中先生なんかはやってるんじゃないかな」
「え?」
「……あの人、ある意味で宮代先生の手下になってるから」
「……へ……へぇ……」
 ごくり、と喉が動いた。
 ……なるほど。
 なんだか……あの…………た、大変だなぁ……なんて。
 彼から、宮代先生は笑顔でびしばし厳しいことを言うって聞いていたから、なんとなく容易に想像がついた。
「さて、と」
「……あ」
「それじゃ、ちょっと出かけて来るよ」
 テーブルに置きっぱなしだった、携帯とお財布。
 それを持った彼が、私に向き直った。
 時間は、お昼を少しすぎたところ。
 でも、私たちはまだ食べていない。
 ――……理由は、単純。
 単に、今日はこれから彼がお昼を奢ってもらう約束で出かけるからだ。
「高いもの奢ってもらってくださいね」
「あはは。じゃあ、そうするよ」
 ジャケットを羽織った彼に笑いかけてから、あとをついていく。
 約束の相手。
 それは――……うちのお兄ちゃん。
 どうして今日なんだろう、ってちょっと思ったんだけど……でも、理由を聞いたら、すんなりと許してあげられた。
 ……ホント、お兄ちゃん変わったよね。
 昔じゃ考えられない。
「なるべく、教えてもらったようなヤツ勧めてみるよ」
「昔と今とじゃ、ちょっと好みとか変わってるかもしれませんけれど……でも、大丈夫じゃないかなぁ」
「わかった」
 靴を履いてからこちらを向いた彼を、まじまじと見つめる。
 ……優しい顔。
 いつもこんなふうに微笑んでくれていたら……ううん。
 どんなときも、やっぱり大好きな人なんだけど。

「……羽織」

「っ……え……」
 いつもと違った。
 何が違うと聞かれても、すぐに答えられないけれど。
 ……でも、違ったの。
 すごく柔らかくて、くすぐったいような……甘い声。
 ごくっと喉が鳴って、どきどきと鼓動が早まるのがわかる。
「……どうした?」
「え……あ……なんか、あの……」
「羽織、昼メシどうする?」
「え? っ……あの……何か、適当に……」
「羽織、夕飯は?」
「ぅ……あのっ……その……」
「羽織、買い物いつ行く?」
「……うー……っ……祐恭さんっ!」
 しどろもどろに赤い顔のまま答える私を、それはそれは楽しそうに彼が見つめていた。
 ……うぅ。
 なんですか、その楽しそうな意地悪い顔は。
 思わず頬に手を当てて彼を見ると、くすくす笑いながら得意げに口角を上げた。
「……祐恭さんは平気なんですか?」
「まぁね」
「…………うー……」
「俺が同じ反応するのは……そうだな。まぁ、『祐恭』って呼んだときかもね」
 にやにや。
 いつしか、にんまり微笑んでいた彼の表情が、そんな具合に移り変わっていた。
 ……う……。
 …………祐恭、って……その……。
「…………ぅ……」
「う?」
「う……、きょ……ぅ」
「何?」
「うー……」
「面白いね、君は」
 言いたいのに、なかなか言えない言葉ってあるじゃない?
 しかも、こう……まったく隙もなくまっすぐに見つめられたりしたら……ねぇ?
 恥ずかしさと、嬉しさと、緊張と。
 とにかくもう、顔は赤いしどきどきするしでやっぱりなかなか言えなかった。
「ま、精進して」
「……がんばります」
「発声練習するみたいに、俺がいない間名前呼んでてもいいよ?」
「……じゃあ、練習しておきます」
 頬に手を当ててから、ちょっとだけいたずらっぽく笑ってみる。
 すると、一瞬瞳を丸くしてから、おかしそうに笑い出した。
 ……でも、いつか。
 できるだけ近いうちに、名前だけを呼べるようになったらいいな。
 だって――……彼が喜んでくれるって、わかるから。
 ……できることなら、少しだけ照れてくれるととっても嬉しいんだけれど。
「じゃ行ってくるよ、羽織」
「……はぁい。気を付けてくださいね」
「ん、了解」
 軽くうなずいて笑った彼が、不意に……私へ手を伸ばした。
 高さが違うから、ほぼ……というよりも、ほんの少しだけ私のほうが高い目線。
 ……なんだか、変な感じ。
 でも、ちょっと嬉しい。
「…………」
「……えへへ」
 頬に当てられた、大きな手のひら。
 その温かさが心地よくて、自然に瞳が閉じる。
「ん……」
 重なった唇からも温かさが伝わってくる。
 ……というよりは、なんだか……注ぎ込まれてくるような。
 そんな思いがあるから、やっぱり彼とのキスはひとつとして同じものはない。
「……じゃ、留守番よろしくね」
「はぁい」
 かかとを鳴らした彼が、ドアノブに手を当てた。
 少し重たい硬い音がして、徐々に開く。
 ……笑顔。
 当たり前の光景なのに、なんだかやっぱり……ちょっとだけ寂しくて。
 留守を預かる身って、結構寂しいよね。
 だけど、これまでも一度だけこうして彼を送り出してから、帰りを待っていたことがあった。
 ……あれはまだ私が高校生で、彼が先生だったとき。
 京都への出張に行った、あの日だ。
 …………それでも、今はもう思いが違う。
 だって、これからはきっと数えきれないくらい、こんなふうに時をすごしていくはずだから。

「いってらっしゃい」

 笑顔で手を振り、彼を見送る。
 ちょうど、ドアが閉まる寸前。
 彼もまた同じように微笑んで手を振ってくれたのが見えたんだけど……だからこそ、ちょっとだけ寂しくなった。


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