「……ねぇ、羽織」
 少しだけ開いていたドアを閉めてから、葉月がゆっくりと私の隣に座った。
 優しく頭を撫でてくれてから、こつん、と引き寄せられた頭がぶつかる。
 ……なんだか、いつかこうされたことがあったような。
 でも、それは葉月だったのかお母さんだったのか……はたまた、祐恭さんだったのか。
 悲しいけれど、鮮明には思い出せない。
「…………」
 ふわりと優しい匂いがして、少しだけ自分が落ち着いたように思える。
 それとも、こんなふうにしてくれているからなのかな。
 ……お母さんみたい、なんだよね。
 お姉さんでもあるように思うけれど、なんだか不思議な感じ。
 自分が確かに落ち着いたとは思うのに――……さっきよりずっと、涙が出て来るんだもん。
「怒るのと叱るのって、違うよね?」
 私の顔を覗きこみながら、葉月が笑った。
 優しくて、温かくて。
 まっすぐ目を見たまま、指先で涙をぬぐう。
「たーくんね……すごく迷ってたんだよ」
「……え?」
「羽織に、瀬尋先生の話をするかどうか。……でも、会わせなきゃ羽織は納得しない、って……たーくん、すごくつらそうだった」
 静かに、ぽつりぽつりと先日の話が紡がれる。
 ……しかも、私の知らない時間帯のこと。
 葉月は、お兄ちゃんとの電話で誰よりも先にこのことを知った。
 私が知るよりも、前。
 だから――……真っ先に事実に直面して、動揺したお兄ちゃんを唯一知っている人でもある。
「羽織だって知ってるよね? たーくんがずっと悩んでたこと」
「……それは……」
「羽織のことがかわいくないんじゃないよ? かわいくて心配だから……だから、たーくんは――」
「……違う」
「え……?」
「お兄ちゃんは私のこと、そんなふうになんか……」
 俯きながら、最後まで言えなかった。
 ……そんなふうになんか。
 その、続きが。
「じゃあ、たーくんが羽織を憎くて……あんなこと言ったんだって思う?」
 ゆっくりと私の髪を撫でた葉月が、微笑む。
 その言葉を聞きながら蘇るのは、さっきのあの彼の姿。
 真剣な顔で、眼差しで、私を見てたっけ。
 ……あんなふうに怒られたことって、そういえば……これまでもなかったかな。
 だから、本気で怒った彼に何も言えなかった。
 わかってた……んじゃないかな、とも思う。
 彼が、何をどう思って私にあんなことを言ったのか、って。

「私ね、羨ましかったの」

「……え……?」
「だって羽織は、たーくんにこんなにも想われてるんだもん」
 そうでしょ? と首をかしげた葉月が、少しだけはにかんだ顔を見せた。
 ……羨ましい……?
 そんな、あるはずのない言葉に思わず瞳が丸くなる。
 だって、お兄ちゃんは私なんかよりずっと葉月に優しいのに。
 優しくて、温かくて。
 全然意地悪なんかでもなければ、性格の悪い部分も見せていない。
 ……だから、葉月は私を羨ましいなんて思うはずないのに。
 だって、ありえないでしょ?
 いつだって喧嘩ばっかりで、言い合いしかしないような……私なんかを。
「たーくんはきっと、羽織の……こんな姿見たくないから言ったんじゃないかな?」
「……私……?」
「うん。……塞ぎこんでる羽織を見るのが、あまりにもつらくて……たまらなくて。誰だって、かわいそうに……って庇ってあげることはできるよね? でも、そのままつらいことから目を背けて逃げてばかりじゃ、生きていけないでしょう?」
「っ…………それは……」
「みんな、ひとりで立って歩かなきゃいけないんだもん。だって……誰も、羽織の代わりはできないんだから」
「っ……」
 まっすぐ目を見て言われた言葉に、思わず喉が動く。
 私の代わりは、誰にもできない。
 それは確かに当たり前のことなのに、改めて言われると、重さが全然違うことがわかった。
「羽織は羽織しかいないの。……だから、自分のことは自分でなんとかしなきゃ。誰も代わりに生きてはくれないんだから」
「…………」
「たーくんにとって、羽織は大切な子に変わりないんだよ。……確かに……ちょっとだけ言葉が足りなくて、ストレートには愛情が伝わってないかもしれないけれどね」
 小さく笑った葉月は、ホントにお兄ちゃんのことをわかってるんだなって思った。
 ……いつだって、そう。
 お兄ちゃんって、自分の言いたいことを言いたいだけ言ってくるから、『なんで?』って思うこともあるんだよね。
 確かに、あとになってよくよく考えてみれば、『あ、そういうことだったんだ』って思うんだけど、そこに至るまでが割と時間かかる。
 ……言葉、足りなすぎるんだもん。ホントに。
 そういえば、お母さんもよく言ってたっけ。
「でも、たーくんは羽織に早く元気になってほしいんだよ?」
「……え……?」
「私も、そう。そしてもちろん、伯父さんも伯母さんもそうだよ?」
「っ……それは……」
「ね? 絶対なんてこと、この世界にはないんだから。……よくも悪くもね」
「……葉月……」
「だから前を向いて。瀬尋先生のこと、ちゃんと見なきゃ」
 一瞬、葉月の声が違ったように聞えて、思わず顔を見つめていた。
 でも、ホントに一瞬だったんだろう。
 私が彼女を見たときにはもう、にっこりとした笑みを浮かべていたから。

「最初からじゃないんだよ。全部、ちゃんと続いてるんだから」

「……っ……!」
 笑みを浮かべたままで告げられた、言葉。
 それは、身体の深い深い場所にまで届いてきて。
 ……沁みる、ってこういうことなのかな。
 葉月をじぃっと見つめていたら、じん、と胸のあたりがあたたかくなった。
「葉月って……」
「え?」
「……お母さんみたい」
 思いきり彼女にもたれながら、笑みが浮かんだ。
 温かくて、いい匂いがして。
 ……なんだか、久しぶり。
 心も軽くなったような気がして、笑顔も浮かんできた。
 魔法、みたい。
 癒されたって言っても、いいと思うけれど。
「ありがとうね」
 感謝するのは私のほうなのに、葉月がくすぐったそうに笑った。
 それを見て、思わず目が丸くなる。
「…………」
「…………」
 ……お互い、同じような顔したんだね。
 途端に、おかしくなってくすくす笑い出す。
 最初は小さかった笑い声なのに、しばらくすると大きくなっていた。
「あはは」
「……やだもー。葉月ってば」
 ちゃんとした、笑顔。
 頬が緩んで、目も、口も、全部がちゃんと笑っていた。
 ……久しぶり。
 こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
 なんだか、随分笑ってなかったような気分。
 ……そんなことないはずなのにね。
 だって、昨日の午前中までは――……それまでと何ひとつ変わらず、“いつも”と同じように笑ってたはずなんだから。
「……もぅ」
 くすくすとあとを引きながらもう1度、葉月にもたれる。
 でも、少しだけほっとした。
 私、また笑うことができたんだなって……嬉しかった。
「……ありがと」
「え?」
「葉月のお陰で、私……笑えた」
 ぎゅ、と彼女の腕を掴み、もう1度笑う。
 すると、ほっとしたように微笑んでから、小さくうなずいた。
「それ、たーくんにも言ってあげてね」
「んー……考えとくね」
「……もう」
 くすっと笑ってから首をかしげると、一瞬瞳を丸くした葉月がおかしそうに笑い出した。
 それを見て私もまた笑みが浮かんだのが……やっぱり、嬉しくて。
 ……笑えた。私。
 作ったわけじゃない、ちゃんと心の奥のほうから。
 にっこり笑った葉月を見ながらまた笑みが浮かんで、そんな自分にとてもとてもほっとしているのに気づいた。

「……聞こえた?」
 すぐそこの壁にもたれていた彼に、ドアを閉めてから小さく笑った葉月が首をかしげた。
 だが、聞こえたかどうかわからないような反応しか、彼は見せなかったが。
「ちゃんと最後まで言ってあげたらいいのに」
「……いーんだよ。お前が言ったほうが、アイツは反発しねーんだから」
 肩をすくめた孝之は、腕を組んだまま階段に向かい、相変わらずぶっきらぼうな態度のまま音を立てて段を降りる。
 そんな後ろ姿を見ながら、やっぱり葉月はおかしさから笑みが浮かんでいた。
「……ありがとな」
 ぼそっと聞こえた、小さな声。
 それでも、彼が言ってくれた……自分に対する、気持ちに違いない。
「ううん。私は何もしてないよ」
 胸のあたりが温かくなって、嬉しさから頬が緩む。
 彼がこんなふうに言ってくれるときは、そんなに多くない。
 だから、とても貴重でとても幸せな時間だ。
「私は、たーくんの言ったことを噛み砕いて言っただけだよ?」
「……それができるから、すげーんだよ」
「っ……!」
 とん、と最後の段を降りた瞬間、彼が振り返って葉月に腕を伸ばした。
 ぐりぐりと少し強めに頭を撫でられ、髪がはらはら幾房も落ちてくる。
 ……それでも。
 やっぱり、嬉しいことに変わりないから。
「……よくできた翻訳家だな」
「ふふ。……ありがとう」
 にっ、と笑ってもらえた瞬間に顔がほころぶ。
 何よりも、嬉しかったからだ。
 彼に認めてもらえることが何よりもどんなことよりも、葉月にとっての肯定感を増すことに繋がる。
 にんまりと緩んだ頬に両手を当てたままリビングに入ると、少しだけ不思議そうな顔をした彼の両親が見え、葉月は思わず『なんでもないです』と手を振っていた。

「あら、おいしそうねー」
「……ほぉ。これは、いい匂いがするな」
「よかった。沢山召しあがってくださいね」
 その日の夕食は、久しぶりに揚げ物が揃っていた。
 大皿に沢山の種類が乗り、それぞれが箸を持つ。
 ……のだが。
「…………」
「…………」
 対峙するように真正面で座ってしまった瀬那家の兄妹は、箸に手を伸ばしもせず、背を正して座ったままだった。
 ……ある意味、怖い。
 ピンと張り詰めた空気が全員もわかっているからこそ、あえて楽しそうな雰囲気を作り出したというのに、これでは元も子もない。
 ――……が。
「…………ありがとね」
 ぽつりと。
 本当にぽつりと、羽織が孝之をちらりと見てから呟いた。
「……おー」
 それに応えるかのように、孝之もひとことだけ。
「…………」
「…………」
「…………」
「……ふふっ」
「なっ……!?」
「え……っ!」
 視線を合わすことのないまま行われたやり取りに、思わず葉月が小さく笑っていた。
 その途端、顔を赤くしたふたりが慌てたように彼女を見つめる。
 だが、すでに時遅し。
 ツボに入ってしまったらしく、葉月はおかしそうに破顔したままお腹を抱えて首を振った。
「ふたりとも、やだぁ……」
「な……ンだよ急に!」
「葉月っ!?」
 けらけら笑い続ける葉月を、慌てたようなふたりが同じような顔で見つめる。
 だが、それが尚一層葉月のツボに入ったとは思わなかったらしい。
「……だって……! ふたりともそっくりなんだもん……!」
 あはは、と笑いながら首を振った葉月。
 ……の姿を見てから、ふたり互いに見つめ合ったのは――……言うまでもなく。

「全然違うよ!」
「違うだろうが!!」

 セリフをカブらせたことで、さらに彼女をドツボへとハメこむ結果になった。


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