「………………」
ちゅー、と音を立てずにストローからアイスティーを飲むと、ほんのりした甘さと一緒にラズベリーの香りが広がる。
あぁ……幸せ。
目の前には、本日のシェフ特製ストロベリータルトと、ふんわりもこもこプレーンシフォン。
そして、少し早いランチパスタが揃っている。
ふふ。
このお店のメニューは、なんでもおいしい。
まだ駆け出しだったころに訪れて以来、このお店の虜になっている。
それはきっと、当時たまたまシェフと話す機会があったとき『女優を目指してる』と言ったら励ましてくれたことも影響しているんだろう。
懐かしいな。
お店の掛け時計のすぐ隣に飾られているシェフとの写真と自分のサインが目に入って、素直に嬉しい。
来るたび、おまけをしてもらった。
こっそり、まかない料理を持たせてもらったこともあった。
……このお店があったから、今の私がある。
それは、当時から決して変わらない思いだ。
「んー、おいし……」
タルトのイチゴをひとつだけフォークでつまむと、甘酸っぱさが口いっぱいに広がって、自然に笑みが浮かぶ。
このお店は、この国の中枢である、通称“特区”と呼ばれる場所ぎりぎりのラインに建っていて、周りにあるたくさんの会社関係のビルから大勢の人たちが訪れているらしい。
でも、その“特区”の内部は、実はあまりよく知られていない。
政府の機関があるというのは確かだけれど、ほかにもいろいろな重要機関があるらしい。
『らしい』というのは、私だけの言葉じゃないはず。
“特区”へ入るための道が限られているのと、その道では厳重な――それこそ、おかしいほど徹底した管理と検査とがあるので、政府高官などでない限りは門前払いというわけ。
見えているのに、見えない場所。
それが、“特区”。
侵入すら容易に許されない場所の中身が一体どうなっているかを知るためには……莫大な資金を元に裏経路から入るしかないのかもしれない。
……ま、別にどうでもいいんだけど。
特区の中の人間なんかに、興味ないし。
「っく……ぅー! おいしい!」
この先も私は、このお店で生み出される最高の味に出会いつづけることができれば、どんなことがあっても生きていけるんだろうな。
ほっぺたが落ちるって、こういうときに使うのよ。まさに!
フォークを握ったまま両手で頬に触れると、恐いくらい緩んでいた。
「……ねぇ、先輩」
「ん?」
「大丈夫ですか? ちゃんと聞こえてます?」
「はいはい。ちゃんと聞いてるから、心配しないの」
さくっとしたタルト生地にフォークを入れた瞬間、すぐそこから声が聞こえて一気に現実へと引き戻された。
聞こえてるけど、せめて堪能してる時間くらいくれてもいいと思うわよ?
カットしたタルト生地を見つめてから視線を向けると、小さくため息が漏れた。
「ホントですかー? 食べるのもいいですけど、ちゃんと見張っててくださいね?」
「大丈夫よ。隣の席なんだから」
おかげさまで、さっきから続いてる“アンジュの独り言deシミュレーション”もばっちり聞こえてるから、安心して。
目隠し代わりの常緑樹を挟んだ隣の席だから最初はどうかと思っていたんだけど、ビックリするほどよく聞こえすぎて、聞いちゃいけないことまで聞いてしまいそうだ。
……って、小声の独り言もそのひとつだろうけれど。
『かわいいよ』とか『やーん恥ずかしいー』なんてセルフやり取りまでばっちり聞こえて来るので、2,3回アイスティーを吹き出しかけた。
もしかして“演技志望”なのかしらと思うくらい、芝居がかった独り言だった。
「……あっ、来ました」
「え?」
潜められた声で植え込みの隙間からアンジュをうかがうと、入り口をまっすぐに見つめて唇を結んだ。
……ふむ。
少しだけ姿勢を低くしてから、変装用にとかけてきた眼鏡をずらす。
もしもあの人がアンジュの言う『秘密機関に属する彼氏』だとしたら――やっぱり“気のせい”とか“間違い”なんじゃないだろうか。
しかも、“山羊”の2文字を冠った組織名だとしたら……ねぇ?
私が知ってる“山羊”とはあまりにも違いすぎて、霞んでしまうほど。
だって……ね?
どこの世界に、くたびれたスーツを着込んだ諜報員がいるのよ。
表情もまるで緊張感がないし、歩き方もぺたぺたと足全体をついているし。
「……ダウト」
彼がアンジュのテーブルの前で止まったのを横目で確認すると同時に、そんな言葉が自然に漏れた。
明らかに、違う。
これはもう、『絶対』だと言っていい。
やっぱり、“山羊の団”所属だという彼は所詮、偽りで塗り固められた人でしかないだろう。
「……お待たせ」
「ううんっ。アンジュも今、来たばっかりだから大丈夫!」
かれこれ1時間以上も前からここに座っていたくせに、よく言ってくれる。
でも、どうやら彼が待ち合わせをしていた彼氏で間違いないらしい。
んー……でも、ねぇ?
やっぱり、どこからどう見ても胡散臭いのよね。
確かにまあ、それっぽさが漂ってないとも言えないけれど、でも……。
「…………」
この程度の芝居なら、初心者だってできるわよ。
ってまあ、芝居というよりは演技風だけどね。
周りを意識しているのは伝わってくるけれど、明らかにやりすぎ。
それじゃあまるで“大金を奪ったものの置き場所に困ってる気の弱い強盗”みたいよ?
あ、もしくは“ある程度高額の宝くじが当たっちゃったって周りが全部敵に見える人”とかもアリかしら。
枝の隙間からふたりの様子を観察していると、彼は頭を低くしてからテーブルに肘をついて手を組んだ。
「しっ」
「……えっ?」
「見張られてるんだ……あ! そのまま。ダメだよ、周りを見たりしたら」
「うっ……うん!」
……微妙。
いや、微妙以前に、笑ってしまいそうだ。
何よその芝居はー。ありえないでしょ。
ていうか、アンジュもアンジュよ。言われるままに頭を低くして、うなずいたりしないの。
そんな顔してちらちら周りを見回してたら、アヤシイわよ。ものすごく。
「…………」
突き刺したイチゴごとフォークをくわえて眉を寄せると、彼らから視線が逸れた。
……ま、大丈夫でしょ。
このぶんなら、間違いなく大事には至らない。
だいたいどこの世界に、追っ手に追われてる諜報員がこんな真昼間に人の出入りが激しいカフェで待ち合わせるのよ。やたら目立つじゃない。
見たところ、これといった変装はしてないみたいだし。
まぁ、もしかしたら“実は顔全部作り物”かもしれないけどね。
確かに、映画やドラマなんかに出てくる諜報員が現実の世界と同じかといえば、答えは『NO』だと思う。
でもやっぱり、格好からしても……この人は違うだろう。
どう控え目に見たって、普通のサラリーマン。
高給取りでも責任あるポストでもなく、ふつーーの人よ。ただの人。
『実は仲間から連絡があって、これから重要書類を受け取るんだ』
『そっと見てごらん。あ、もちろん目だけでだよ? ……ほら、あの窓際の席。さっきからパソコン弄ってる男がいるだろう? 彼も敵のひとりなんだ』
「ダウト」
頬杖をついてフォークを弄りながらため息が漏れ、隣の会話をシャットアウトしようと耳が反応した。
間違いなく、嘘。絶対違う。100%。
理由は簡単。
いくらアンジュが彼女とはいえ、そういう機密事項に関することをほいほいバラす諜報員なんて絶対いない。
そんなことを話したのが敵にバレでもしたら、大事な“彼女”がどんな目に遭うかわからないじゃない。
そして何より――。
『敵が潜んでいるカフェで、彼女と待ち合わせたりしない』
「…………」
お疲れ様、アンジュ。
……お疲れ様、私。とんだ無駄足だったわ。
まあ、もしかしたらって1%でも思った私が馬鹿だったとしか言えないけれどね。
相変わらず真剣な表情で彼の話にうなずいているアンジュを見ながら、苦笑が浮かぶ。
あーぁ。できることなら私の休日を返して。
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