思ったら即行動。
 その言葉が我が人生の訓辞と思っているので、アポイントを取ってもらえてすぐ飛び出してきた。
 おかげさまで、飛び込み営業をしなくなって早何年経ったことか。
 むかーしむかし、この業界に入ったばかりのころは、個人的に平気で仕事を請負ったことも何度かあったのよね。
 ま、それも若さというよりは幼さからできたものなんだろうけれど。
 あのころは本当に、必死だった。
 この道しか残されてないって思っていたから、どんなことでもやって自分を売りたいと心底思っていたんだから。

 『Light vellum Co.』

「……大きいビルね」
 キラキラと光を受けて輝きを放つプレートの文字に、一瞬目がくらむ。
 何階建てなのかは、途中まで数えてやめた。
 首が痛くなること必至のビルには、ひっきりなしに何人もの人々が出入りしている。
 ルイが探し当てたこのビルこそ、『ライト・ベラム化粧品』のビルだった。
 ……ホントに、ここ……?
 や、ルイを疑うわけじゃないんだけれど、ごめん。やっぱり今日、無理やりにでも付いてきてもらえばよかったかも。
 本当は、一緒に来ると――ていうか、実際はひとりで行くなって止められたのよね。
 まあ、そりゃあそうでしょうけれど。
 でも、申し訳ないけれどそれは丁重にお断りした。
 だって、もしもここが本当にジェドたちが属する組織だとしたら、ルイを巻き込むわけにいかない。
 ってまぁ、こんなにも大々的なビルが実は……! なんてなったら、ある意味ニュースになりそうなんだけどね。
 それにしてもいったい、最上階は何階になるのかしらね。
 大きなガラス張りの正面入り口に立ったまま見上げるものの、霞んでいるような気がしてちゃんと見ることができなかった。
「……よし」
 いつまでもこんなところに立っていたって、ラチがあかない。
 もしもココがルイの言う通り『山羊の住処(すみか)』なのだとすれば、それはそれで問題ないんだしね。
 …………。
 でももし……もしも、間違いだったとしたら……?
「っ……ぶなっ……!」
 くるくると動き続ける回転扉の前で一瞬立ち止まりそうになり、危うく挟まれるところだった。
 ……ま、まあ……間違っていても、そのときは『ごめんなさい』で帰してもらえるかもしれないし……大丈夫よね?
 別に、取って食われたりしないわよね……?
 大きな大きなシャンデリアが下がっている吹き抜けのホールに圧倒されてか、ここにきてちょっとだけ帰りたくなった。

「……ここ、ね」
 ピンポン、と鳴った目的階に着いたことを知らせるベルでエレベーターを下りると、そこは少し変わった作りのフロアだった。
 まっすぐに伸びた、白い廊下。
 それはまさに、“Light”と社名に冠っている通りの景色。
 受付で広報担当の人と連絡を取ってもらうと、すぐにこの14階のフロアを告げられた。
 受付嬢の電話へすぐ折り返しが入り、担当の人を迎えに来させてくれるとまで言われたけれど、丁重にお断りしたのは、ついさっき。
 別に、独りでエレベーターにも乗れれば、目的地にだって行ける。
 重役でもなければ子どもでもないから……と言ったら、受付の女の子が笑ったっけ。
 まあ、ひとりで出向いた時点で相当驚かれたし、『本物ですよね!?』とひとしきり盛り上がられたあとでだから、何が起きてももう驚きはしないわ。
「……あ」
 どこまでも続くんじゃないかと思っていた、ひとりだけの空間。
 だけどそれは、割とすぐ幕切れが訪れた。
「えっと……。あの。すみません」
 化粧品会社、に違いないはずのフロア。
 でも、なぜかエレベーターからまっすぐ続いていた1本道の先にいたのは、髭を生やしたオジサンだった。
 ひとり用の受付デスクへ座り、壁と同じ真っ白いテーブルの上に手を組んで置いている。
 その表情はお世辞にも愛想があるとは言えなかったけれど、ほかに訊ねられる人もいないんだし、と咳払いしてから頭を下げる。
「何か御用ですか?」
「実は、広報担当の方とお約束をしたのですが」
「失礼ですが、お名前を頂戴できますか?」
「え? あ……失礼しました。エステルと申します」
 始終変わらない、口調と表情。
 そしてピシリとしたスーツ姿に、自分が抱いていた化粧品会社のイメージと合致するものがひとつもなく、表情には出さなかったものの、頭には『?』が多めに溢れた。
「エステル様ですね。確かに、承っております」
 デスクに置かれた機械で確認を取ってくれたのか、モニタを見て笑みを浮かべた。
 ……ずいぶんと印象が変わるものね。
 自分の父と同じか、もしかしたらそれ以上の年の男性なのに、なんだかすごく深みのあるステキな笑顔で、一瞬見とれていた。
「あ、りがとうございます」
 『確かに』と言われただけなのに、ものすごい何かを了承されたかのような気になり、軽く頭が下がった。
 あとになって思えば、いったいなんの条件反射だったのかと不思議にもなるけど。
「それでは、どうぞ。そちらのドアからお入りください」
「わかりました」
 ゆっくりと、示された手のひらへつられるようにそちらを向くと、大きな擦りガラスのドアがあった。
 ……こんなドア、あったっけ。
 まさか、突然現れるはずがないのに、この人に気をとられていたせいか、まったく気付かなかった。
 ちょっと……危ないかもしれないわね。私。
「では」
 もう一度頭を下げてからそちらへ向かうと、同じように頭を下げられた。
 ……なんだか……なんだなぁ。
 ほんの少し、まるで狐にでもつままれたような気になったせいか、足取りもちょっとだけふわふわと心もとないように感じられたのは……気のせいじゃかったと思う。

「いやぁー、嬉しい限りですよ。本当に!」
「……はぁ」
「あ! 実はですねー。こちら、来月発売予定の新商品なんですよ。どうぞお試しください」
「ありがとう……ございます」
 目の前の、ものすごく滑舌がいいこの人と違って、私は始終『はぁ』とか『なるほど』とか、そんなありきたりの歯切れ悪い言葉しか出てこなかった。
 ……ええと。
 ちらりと視線だけ動かして今の時間を確認すると、ここに来てから早3時間が過ぎていることがわかった。
 3時間だよ? 3時間。
 なんともまぁ、時間の経つのが早いこと……。
 時計を見て『え!?』と表情に出さなかっただけ、仕事柄、驚きにも対応ができているんだということだろうか。
 ……にしても、3時間って。
 目の前で、始終笑顔を浮かべながら化粧品の説明をしてくれる彼は、まだまだ話足りないのか、次から次へと新商品らしき物を手にとっては饒舌に勧めてくる。
 あー、うん、そうですねー。どれもこれもきっと、お高いだけあってとてもスペシャルで、とっても効果抜群なんでしょうねー。
「はは……はあ」
 まだまだまだまだ、解放されないかもしれない。
 背もたれの長い椅子にもたれると、乾いた笑いとともにため息が漏れた。

「……はぁあ……疲れた……」
 これほどの疲労感に襲われたことは、あまりない。
 と同時に、ここまでの『やらなきゃよかった』という後悔も。
 両手一杯、抱えきれないほどたくさんの化粧品が詰め込まれた紙袋には、真っ白くてもこもこした山羊のイラストがプリントされている。
 そういえば、確かにこのイラスト見たことあるわ……。
 ルイが言っていた言葉がようやく頭に浮かんだものの、疲れと呆れからかため息が漏れる。
「それにしても、いいのかしら……こんなに」
 来るときにも乗ったエレベーターの壁にもたれながら、紙袋に入っていたひとつを手に取ると、上品な白いパッケージに顔が映る。
 なんでも、来月新発売のフェイスパックだそうで。
 販売価格は聞かなかったけれど、見せられたパンフレットにはしっかりと『え!?』と思うくらいの額が書かれてたっけ。
「…………」
 タダでもらって帰ってきちゃったのは……マズかったんじゃないの?
 それこそ、賄賂みたいな感じで。
 CMの話を持ち出されて困っているときに、押しつけられるように持たされた商品の数々。
 ……これはやっぱり……やっぱり、なんだろうか。
 うー。ルイに言ったら、怒られるだろうなぁ。
 ただでさえスケジュール管理でゴタゴタしてる中、急遽作ってもらった今日のこの時間なんだもの。
 あちこちへ頭を下げてくれた彼のことだから……私が勝手に『CM契約もらってきた』なんて言ったら、泡を吹いて倒れるかもしれない。
 てんてこ舞いだったからなぁ。ここのところ、ずっと。
 忙しくて、ちゃんとした食事を摂ってないルイの姿が頭に浮かんで、ちょっとフラついた。
 ……ごめんね、ルイ。
 今度、何か奢るから。
 壁にもたれたまま、減っていく階数表示を見ていたらため息が漏れた。
「…………」
 でも、やっぱり違ったか。
 ……ま、そう簡単に辿り着けるとは思ってなかったけど、でも、もう少しなんとかなるんじゃないかなって期待してたんだけどな。
 結局また、ふりだし。
 ジェドたちに関して、まったく情報のない状態へと戻っただけ。
 また、イチからね。
 手探りでひとつひとつ探し出して、本物かどうかを分別するしかない。
 正直、ほんのひとかけらでもいいから、情報が欲しかったんだけどな。
 彼らの組織が表立ったものじゃないっていうのはわかっていたけど、でも、存在するのは事実。
 だとしたら、どこかの団体や企業と繋がっていても――って、思ったんだけどな。
 やっぱり、そう甘くはないのが人生というか現実で。
「……白山羊、ね」
 開いたドアからエントランスへと向かう間、幾人もの、胸に羊とも山羊ともおぼつかないマークのバッジを付けている人が目に入る。
 社章じゃ仕方ないわね。そりゃあ、たくさん出入りしてるでしょうよ。
 建物だって規模だって、大きな会社だもの。
「残念」
 大きな荷物を抱えたまま、会釈した警備の人にあいさつしてから外へ出ると、傾き始めた太陽が見えた。
 ここに来たときは、もっとずっと日が高かったんだけどな。
 足を止めて空を見上げると、空の低い場所は赤く染まり始めている。
「…………」
 少し冷たい風が頬を撫で、建物の中と大して気温差がなかったことに今ごろ気づいた。
 でもきっと、窓を閉めきっている我が家は、かなり暑いんでしょうね。
 ま、日照条件ばっちりなのはありがたいんだけど。
「……ヘンなの」
 あまりにも、今までいた場所が非庶民的すぎてか、普段は思ったりしないのに『洗濯物乾いたかな』とか『植木に水やらなくちゃ』なんて家のことを心配している自分が、今は一般人みたいだな……なんて、ちょっとおかしくなった。


ひとつ戻る  目次へ  次へ