「ご自分が危険な状況におられるというのは……もちろん、承知の上で仰っているんですよね?」
「……っ」
 すぐ目の前で両足を揃えたジェドが、なんだかとても大きく見えた。
 確かに、実際彼のほうが私よりも身長だってあるし、身体つきもがっしりしてるから、大きいと思えても不思議じゃない。
 でも、これまでと違った。
 さっきも言ったように、急にすべてが一変したように思えたのだ。
 ……だから、イヤだった。
 正直今のジェドは……とても怖い。
「なぜ、彼らに付け狙われているかご存知ですか?」
「……え?」
 彼がこちらへ手を出した瞬間、びくっと身体が反応した。
 ただの、ジェスチャーだろうとは思うし、わかる。
 でも、どくどくと早まったままの鼓動は、そう簡単に治まってくれそうにない。

「簡単なことです。あなたが、我々と係わってしまったからですよ」

「……っ!」
 そのとき。
 彼が、これまで見せなかったような顔を見せた。
 光が差し込んでくる大きな窓を背に立っているから、もしかしたらハッキリ見えたのかもしれない。
 でも、明らかに違いがわかった。
 サングラス越しの彼の瞳が、すぅっと細まると同時に――顔から笑みが消えた。
「なぜ、我々があなたをここに招き入れたか。理由はわかりますか?」
「理由……?」
「ええ。いくらなんでも、我々とて理由なく一般の人間を招き入れたりしませんよ」
 ふ。
 口元だけを緩めて作った彼のその顔は、果たして笑みと言えるんだろうか。
 ゾクっとするようなもので、これまで彼が浮かべていたどの顔とも違っていた。

「教授をご存知ですね?」

「ッ……な!!」
 まっすぐ、射抜かれそうな瞳で見つめられたせいかわからないけれど、身体の1番深い場所が一瞬にしてざわめきたつ。
「ど……いうこと……?」
 久しぶりに聞いた『教授』という呼称に、ビックリするくらい自身が落ち着きを失う。
 ……なんで?
 どうして、彼がそんなことを知っているんだろう。
 私とは違ってまったく表情を崩さないジェドを見つめていたら、いつしか――彼を睨みつけていたのに気付いた。
「なんで……っなんで、アナタが知ってるの!?」
「あなたが教授と関係があると思って、間違いないんですね?」
「っ……そんなのアナタたちに関係ないじゃない!! それより、どうしてアナタが彼を知ってるのよ!!」
 大声を張りあげ、精一杯大きな身振りで彼と間をあける。
 ジェドは、間違いなく何か知ってるんだ。
 私が知らない彼のことを――つまり、私の前からいなくなってからの、彼を。
 ということは、どう考えたってプラスの方向には考えられない。
 いくらこの組織が国家の中枢と繋がっているという、合法的なモノだとしても、それが“正しい”かどうかどうかは別問題。
 急にこんな場所に連れて来られただけじゃなく、いろんな知識を詰め込まれるかのように……まるで機密事項めいたことまで告げられて、それでも今の今までは黙って聞いていたけれど、話が違う。
 私に言わせてもらえば、目の前で喋っているジェドのことは名前以外何も知らないわ。
 むしろ、その名前だって本当じゃないかもしれない。
 確かめようがないんだもの。
「どういうことなのよ……!! 説明して!!」
 睨みつけてもまったく動じずに見つめ返してくる眼差しは、何を考えているのか伝わってこない。
 急に出された“彼”のことで、今の自分に冷静さが欠けているのもわかっている。
 でも、そういう問題じゃない。
 彼のことだけは、別問題だ。
「『エステル・ユズリハ』」
「ッな……によ」
「その名前を聞いたとき、正直驚きました」
 少しだけ間を空けてから口を開いたジェドは、わずかに私から視線を逸らして宙を見つめた。
 まるで、初めて会ったあのときのことを思い出し……そして、少しだけ懐かしむかのように。
「人よりも物事に鋭く着眼し、そして――レジェスト・ベルを理解している」
「……それは……」
「ですが、それだけでは断言など到底できない」
 そのとき。
 わずかに、ふっと笑ったように見えたのは、気のせいだっただろうか。
 それが確かかどうかを見極めようと視線を改めて定めたときには、もう、影も形もなかったけれど。
「ッ……それ!」
 コン、と軽い音を立ててジェドがテーブルに置いたのは、見覚えのある……だけどほんの少しだけ『懐かしい』と思える、あの、缶コーヒーだった。
「それです」
「え……?」

「その反応で、あなたがユズリハ教授の娘に間違いないと思いました」

 まっすぐ私を見て呟かれた言葉で、鳥肌が立った。
 彼の表情は、私を歓迎してくれているようではなく、むしろ冷たさと鋭さが合わさって、なんともいえない居心地の悪さを感じた。
「このコーヒー。一般には出回っていないこと、ご存知ですか?」
「っ……ウソ。だ、って……だって、コレ! これは、父が昔から、よく私に買ってきてくれたモノよ? そんなはず――」

「これは、特区内及びそれと同等の位置付けをされている機関でしか、扱っていません」

「な……っ」
 『特区』という、自分にとってはまったく関係のない言葉を聞かされて、瞳が丸くなった。
 ……でも、まさか。だって父は、そんなこと……。
「ウソ……」
「いいえ。これは特殊な成分配合がなされているものですから、誰でも口にしていいものではないんです。……市場に出回っては『困る』、と言っても過言じゃありません」
 緩やかに首を振るでもなく、ただただ彼は淡々と言葉を紡ぐだけ。
 そんなジェドから視線が落ち、俯いたまま足元を見るしかなかった。
 幼いころ、父は必ずどこかへ出かけるたびにあのコーヒーを買って来てくれた。
 特別なお土産でもない、ただの缶コーヒー。
 だけど、私にとって父を思い出すときには、必ず一緒に記憶の中で蘇る。
 タイプが幾つかあるらしいけれど、彼が私に買ってきてくれるものは、いつも決まってミルクたっぷりの甘いモノ。
 それを飲むのが楽しみで、遅くまで帰って来ないときがあっても、眠らずに待っていた日もあった。
 ……別に、そのコーヒーがそこまで好きだというわけじゃない。
 そうじゃないけれど……それを飲むとき、いつも決まって父は嬉しそうに笑ってくれた。
 穏やかな眼差しで見つめてくれて、『おいしいか?』と必ず聞いてくる。
 普段、家にいないことが多かったせいもあってか、そのやり取りをしている時間が、私はすごく好きだった。
「これを先日あなたに見せたとき、明らかに表情を変えましたよね」
「……それは……」
「それで、符合したんです。あなたは、やはり教授の娘に――」
「ッ……だから、それがどうしたって言うの……!?」
 まるで、私を『試していた』とでも言わんばかりの口調で、つい大声をあげていた。
 ぎゅっと手を固く握り締め、まっすぐにジェドだけを見据える。
 こんなことしたって、この程度じゃ彼が揺らいだりしないことはわかってる。
 ……わかってはいるけれど……でも、やっぱり素直に聞くだけの心持ちにはなれなかった。
「教授、教授って! アナタが父の何を知ってるって言うの!?」
「…………」
「私が娘だったら、何!? 父の次は私ってこと? 何もないのに……ッ……なのに、まだ私たちをどうにかしようとでも思ってるの!?」
 ピリピリと少しだけ空気が震え、シンと静まった部屋が心底居心地悪かった。
 だけど、今さら止まれない。
 彼が私に何をしようと思っているのかはわからないけれど、とにかく悔しさでいっぱいだった。
 だって――騙されてたんだ、私は。これまで、読めない笑顔で近づいて来たのは、少なくとも私を利用するためだった。
 それに気づかされた今、いったい何を信じろと言うんだろう。
 ……何が、クリーニング屋よ。
 世間的――ううん。
 国家的には“払拭”する者だというのはわかったし否定するつもりもないけれど、でも、私に言わせてもらえば、ずかずかと人のプライバシーになんの躊躇もなく踏み込んでくる、汚し屋だと言ってもいいくらいだわ。
 ……ズルイ人たち。
 権力を振りかざして、なんでもするのね。
 ほんの少しとはいえ彼に気を許し始めていた自分が、心底情けなくてイヤだと思った。
「それとも、何? もしかして、アナタたちがすべて仕組んだとでも言うの?」
 は、と短い嘲笑とともにジェドを見つめると、何も言わず唇を結んだ。
 その行為が少しだけ癇に障ってか、カツカツと足音を響かせて彼へ詰め寄る。
 そのとき、ほかの人たちがわずかに動いたけれど、もう、今さら銃を向けられようと構いやしなかった。

「父を……っ……私たちから父を奪ったのはアナタなの?」

「…………」
「アナタは、父の何を知ってるって言うの? ……ねぇ。返して。返してよ……! 父を知ってるなら、彼を返して!!」
 ぎゅっというよりは、半ば乱暴に彼の襟元へ掴みかかると、予想通りほかの面々が私を引き離しに来た。
 だけど、ジェドは彼らを見ることなく手で制する。
 視線を私から動かさず、私を見たまま何も言わずに。
「返して!! お願いだから、返してよ……ッ私たちの時間を、返して!!」
 いつの間にか、涙がいっぱいに溜まっていた。
 声が滲み、それに気づいた今……本当に泣き出してしまいそうで悔しい。
「母がどんな思いでいたと思ってるの!? 私だってそうよ……ッ! いきなり居なくなって、どこを探しても見つからなくて!!」
 ぎゅうっと手に力を込めると、気が緩んだのか、ぽろぽろと涙が頬を伝った。
 父が居なくなってからの日々は、本当に地獄のようだった。
 消えた火は灯ることなくあり続け、あのころの母と言ったら……表しようがない。
 警察に言っても、結局、居場所は愚か情報すら手に入れることができなくて。
 本当に、手の施しようがないという状態を身を持って実感した。
 ――だから私は、この世界に入ったんだ。
 メディアを通じて世に訴えかけることができる立場になれば、もしかしたら何かレスポンスがあるんじゃないか。
 そんな、限りなくゼロに近い希望を胸に。


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