「……仕方がなかったんです」
手の甲で不器用に涙を拭うと、静かにジェドが口を開いた。
「彼を……彼と、あなた方ご家族を護るために、仕方がなかったんです」
「ッふざけないで……!! 何が『仕方なかった』よ! 人の家を壊しておいて……母を苦しめて、どん底に突き落として……ッ! それで、何が『護る』よ! ふざけないで!!」
あの白い部屋の、病院のベッドの横でひとり座る自分を、今でもはっきりと思い出す。
ほかの誰も来ることのない場所。
いつか来るんじゃないか。
もしかしたら、どこからか聞きつけて駆けつけてくれるんじゃないか。
そうあってほしい。
どの世界のどの神様でもいいから、そうしてほしい。
母に必要なのは、私じゃない。忽然と消息すべてを断った、父だけなのに。
お願いだから、父が間に合いますように。
手のひらに、爪の跡が深く残るほど願ったあのときの自分が、鮮明に頭へ蘇る。
……何も知らないクセによくも言ってくれるじゃない……!
すべては彼らのせいなんだ。
それが明らかになった今さら、何を言われようと到底信じる気にもならず、すべてが安っぽく聞こえてきて腹が立った。
「……彼は。ユズリハ教授は、『オープン』の開発者なんです」
「オープン……?」
「ええ」
聞きなれない単語で眉をひそめると、そこでジェドが私から視線を逸らした。
これまで、どんなことがあっても絶対にしなかったのに、ふいにされたわずかな行為で、次の言葉が予測できなかった。
「能力を植えつけ、無理矢理にでも才能を引き出そうとする――ドラッグの一種です」
「なっ……!」
一瞬、言おうか言うまいか躊躇したジェドが、再び私に視線を合わせてから静かに呟いた。
「我々が追っている組織は、教授の“オリジナル”と“解毒薬”を今でも狙っています。ですが……エステルさん?」
「…………」
愕然という言葉は、まさに今の私のためにあるんだろう。
……ドラッグ……?
これまで、考えたこともなかった言葉を突きつけられて、反応が一切できずただただ俯くしかない。
どくんどくんと鼓動が大きく響き、苦しいくらい脈が速まる。
……父が。自分の父親が、そんなモノを作り出していたなんて。
そんな大きすぎる事象を受け止めるだけの余力は、今の私には……ない。
だけど、ただひとつ。
唯一救われる点があるとすれば――母はそのことを一切知らずにいられた、ということか。
「……何よそれ……」
掠れた声をようやく搾り出すと、這うようにジェドへ視線が向かった。
でも、それは誰に、何に対する言葉なのか自分でもわからない。
混乱とはまた違う感じ。
脳内に霧がかかりでもしたかのように、今、自分が何をしようとしていたのかさえおぼつかなくなる。
「教授の名誉のために言っておきますが、元々は医療用に開発されたものですよ」
「……医療……?」
「ええ。本来の目的は、自然治癒力や潜在意識を高めて、治癒するために作られたんです」
『それを、弄って作り変えたのが、ドラッグになった「オープン」です』
静かにそう呟かれた言葉は、なんだか少し遠い場所から聞こえた気がした。
恐らく、彼に向けた視線は、縋りつくような情けないものだったんだろう。
一瞬、眉を寄せたジェドの表情がすべてを物語っている。
「…………」
「嘘偽りはありませんよ」
黙ってジェドを見つめていたら、念を押すかのようにうなずかれた。
その言葉は、あまりにも大きすぎた最初の言葉と違って、私を諭し安心させるためのようなものにも思えた。
でも……。
「……そう、なの……」
それでも、いいと思った。
本来の目的は、人を救うためのものだった。
いつも優しくて、『正しいことをしなさい』と常に言っていた父の笑顔が浮かんで、ふっと表情がほころんだのは――きっと、救われた気がしたからだろう。
「……それで、父は……。彼は、今でも……?」
一番聞きたかったこと。
でも、聞けなかったことでもある。
父のことを知ったとき、真っ先に本当は聞きたかった。でも――。
「…………」
もし、聞いた瞬間に彼の表情が変わりでもしたら、私はきっと平静を保ってはいられない。
……でも、重要なことだ。
父に、今でも……今、このときも同じ時が流れているかということは。
「ユズリハ教授は、今でも我々の保護下にあります」
「っ……」
唇を結んでから聞かされた言葉に、身体から力が抜けた。
同時に、ジェドを掴んでいた手からも力が抜け、するりと垂れる。
……生きてる。
そうわかった瞬間、涙がまた溢れた。
「ですが……」
「……え……?」
「身の保全のため、教授の居場所を明かすことはできません」
「なッ……!」
再び彼が見せた表情と、突き放されたような言葉を受けて、思わず瞳が丸くなった。
「いくら、あなたが実の娘だとはいえ……どこから情報が漏れるかわかりませんから」
「そ……んな……っ! そんなのって、ないでしょう!?」
淡々と呟かれる言葉のひとつひとつが鋭く突き刺さってくる。
だけど、これだけは明らか。
彼らが、人の繋がりよりも情報を重んじているということだけは。
「おかしいじゃない!! 私は娘なのよ!? なのに、会わせてもらえないなんて……ッ……! たったひとりの肉親なのよ!? これまでずっと、会えなかったのよ!?」
どこか冷めているようなジェドの眼差しに一瞬躊躇したけれど、それでもやっぱり黙って引き下がるようなこと、できるわけがなかった。
引き上げてもらってすぐ、突き落とされるような感覚だ。
身体の奥底から言いようのない怒りがこみ上げて、再びこぶしを握る。
「先ほど、ユズリハ教授が『オープン』とともに解毒薬を残した、とお話しましたね」
「だから何!?」
しばらく口を閉ざしていたジェドが、ひと息ついてから口を開いた。
だけど、その態度もやっぱり鼻について、噛みつくような言葉しか出ない。
今さら、何を信じろと言うの?
私に何をしろと?
それこそ、私には何も与えてくれないのに、自分たちは欲しいものをとことん得るようなその態度に、不信感だけが高まりつつあった。
「教授は、あなたにそれを託したと言っています」
「……え?」
まったく身に覚えのないことだった。
でも、ジェドの瞳はそうは言っていない。
まるで『絶対に知っているはずだ。だから、その情報をよこせ』と言っているような気がして、ごくりと喉が鳴った。
……でも、そんなこと言われても私だって困る。
父がどうしてそう言ったのかわからないけれど、少なくとも私の記憶にはないんだから。
「覚えていませんか?」
「知らないわ、そんなモノ」
「幼少のときも含めて、思い出してください。何か受け取ったものがあるとか、言い聞かされたことがあるとか……何かありませんでしたか?」
「ないわ。……本当よ。父から受け取ったモノなんてないもの」
きっぱりと首を横に振り、即座に否定する。
嘘偽りないことを示すために、逸らすことなく彼の瞳を見つめて。
すると、しばらく事実かどうかを確かめるかのように私を見ていたジェドが、おもむろに口を開いた。
「そうですか」
「……残念だけどでも、本当のことよ」
何も言わずにいるのがほんの少しだけ申し訳なく思えて、さらに言葉を続ける。
――けれど次の瞬間、彼は思ってもなかった言葉を私にぶつけてきた。
「エステルさん。我々に協力してもらえませんか?」
「……は?」
唐突すぎる、なんの脈略もなかった言葉に、ぽかんと一瞬情けなく口が開いた。
でも、真面目すぎる彼の表情を見ていたら、これが本気の言葉なんだと実感して……次の瞬間には、驚きが不審へと変わる。
「何言ってるの……? っていうか、冗談じゃないわよそんなの! これまでだって、散々怖い目に遭ったのよ!? それなのに協力なんて……絶対イヤ。これ以上、アナタたちと関わるのは御免だわ」
ぎゅっと両腕を掻き抱くように抱きしめてから、ふるふるとカブリを振る。
でも、彼はまるで私がそう答えるのを最初から見越していたかのように、まったく動じずさらに言葉を続けた。
「ご協力いただけるならば、あなたの絶対の安全をお約束します」
「……それじゃまるで、協力しなければどうなっても知らないって言ってるのと同じじゃない」
「そう聞こえますか?」
「ええ。明らかに」
嫌味なほど丁寧に、ジェドが改めて呟いた。
……何よそれ。
こんなの、ハッキリした脅しじゃない。
これまでにない、汚いやり方だ。
「今現在、あなたが我々と関係があるということは、様々な人間に知られています」
静かに切り出した言葉が指しているのは、先日の彼らのことも指しているんだろう。
……明らかに、普通の人間とは違っていた。
見た目からしても、『ヤられるんじゃないか』と思わされるような、怖さがあった。
「…………」
もしかしたら、ジェドたちと出会ってからずっと感じていた拭い去れない不安は、そこから来ていたのかもしれない。
彼の口ぶりからして、恐らくもっと多くの人間が私を知っているということなんだろう。
表舞台には決して登場することのない、闇で動く人々が。
「我々が、メンバー以外の人間と行動をともにすることなどまずありません。黒山羊ともなれば、絶対に。ですから、例え同じ“山羊”の人間であろうとも、声をかけない限りはありえないことなんです」
……確かに彼の言う通り、初めてジェドと行動をともにしたあのときも、最後の最後にしかほかの人間が合流することはなかった。
白い服を着たいわゆる『白山羊』の人々も、どこに隠れていたのか、撤収作業で目にした程度。
それが、彼らの流儀だと言えばそうなんだろう。
事実、当人であるジェドの言うことが、正しいんだとすれば。
「けれどあなたは違った。偶然かつ短時間とはいえ、我々と行動をともにした。……あなたは一般人だ。なのに我々といた。ただでさえ名前と顔が広く知られている存在だけに、目立つのは当然ですよね?」
そのとき、彼がわずかに視線を逸らした。
その先にあったのは、相変わらず私の名前を流し続けている、情報番組だ。
「もし、ここであなたが『NO』と言ったとしても、今後付け狙われたりしないという保障には繋がりません」
「脅す気……?」
「とんでもない。事実を述べているまでですよ。……交渉しているんです」
そこで初めて、彼がふっと笑みを浮かべた。
……だけど、違う。
これまで私に見せてきた考えの読めないような笑みではなく――ハッキリと意図が伺える明白な色の笑み。
ああ嫌だ。
正反対に眉が寄るのがわかり、いつしか奥歯を噛みしめてもいた。
「イヤだと言ったら?」
じぃっと彼の表情を見逃さないように見つめたまま口を開くと、しばらく反応を見せなかったジェドが、一度瞳を閉じてから静かに唇を動かした。
「残念ですが、我々に関する一切の記憶を消させていただきます」
「ッ……な!」
「もちろん、ここで聞いたユズリハ教授のこともすべて」
「ちょっと!!」
「お約束通り解放はします。ですが、身の安全は一切保障できません」
「な……によ、それ!! それじゃ脅してるのと一緒じゃない!!」
「仕方ありません。それが、あなたと我々のためなんです」
ぎゅっと握った手をそのままに大声を張りあげるものの、彼はまったく動じずに淡々と言葉を続けた。
まるで、なんとも思っていないみたいね。
私ひとりがどうなってもまったく構わないどころか、自分たちの保全が第一だと言わんばかりの口調が、何よりも腹立たしかった。
「人をこんなところに連れてきておいて……っ、人の生活をかきまわしておいて! それで、それ!? ふざけないで!! 人をなんだと思ってるの!?」
「あなたにとって、我々の情報など必要ないことでしょう?」
「ッ……! だからって、私の記憶を――」
「あなたにはこれまで、我々の情報など知ることなく成り立っている普通の生活があった。……ということは、これから先も不要でしょう」
一見すると口調は穏やかなのに、言っていることはどれもこれも穏便ではない。
私に言わせてもらえば、『脅迫』どころか『強請り』よ。
卑怯だわ。
やってることは、彼らが対している立場の人々となんら変わらないじゃない。
「だから、記憶を消すって言うの?」
「ええ。知る必要のないことですから」
淡々と。
まるで何かの説明をするかのように、事務的な口調でジェドが答えた。
「何よそれ……!」
あまりにも勝手すぎることばかりを一方的に押し付けられて、怒りしか湧いてこない。
ああそう。私をここに連れて来たのは、最初からそういう理由があったってわけね。
「…………」
納得しなくても、うなずかせる。
まるでそう言っているかのような彼の瞳を見ていたら、ギリっと奥歯が鈍く軋んだ。
「我々も、リスクを背負ってまであなたをここに迎え入れたんです」
「…………」
「万が一、あなたがユズリハ教授と何も関係がないとしたら、とんでもない事態を引き起こしかねなかった。ですが、持て得るすべての情報網であなたを調べ、そして警護を決定したんです。擁護する必要がある……そう判断したので」
静かに低い声で続けられ、いつの間にか視線が落ちていた。
見えているはずなのに、見ることができない。
そんなおぼろげな状態ながらも、急な展開に対処すべき最善の策を、懸命に考えていたんだと思う。
「……わかっていただけますね?」
しん、と静まり返った部屋の中で、ジェドが私の顔を覗き込むかのようにわずかに動いた。
「…………」
それにつられるかのように、俯いていた顔がようやく上がる。
……こういう顔、したことあったかしら。
目の前にある、どちらとも判断のつかない表情を見ていたら、自然と……でもはっきりと。
静かに小さくうなずいていた。
「……わかったわ」
わずかに首を動かし、唇を噛む。
当然、納得はいかない。
だってこれ、一方的すぎるわ。私にメリットは皆無。
無理強いと同じだもの。
でも――父は生きている。
彼に会う前に自分がいなくなってしまったら、母はもっと悲しむだろう。
父が母のことを知っているのかどうかはわからないけれど、伝える義務はある。
ならば、私がとるべき行動は、ひとつしか残されていない。
……いいえ。
そんなもの、最初からひとつしかなかった。
ジェドと関わってしまった、あの日からきっと。
「約束すればいいんでしょう? 何ができるかわからないけれど……わかった。協力するわ」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐと、いつしか……身体から力という力がすべて抜けてしまったように感じられた。
……まるで、本当に子どもみたいね。
自分にこんな弱い部分があったのかと思うと、ほんの少しだけおかしくもなる。
「だからお願い。……絶対に護って」
死ぬのは御免だわ。
がらにもなく静かな声が、わずかに震えていたように聞こえたのは、恐らく気のせいじゃないはずだ。
突然突きつけられた現実を前にして、今ごろ様々なことが頭をよぎり始めた。
「……え……?」
わずかに、部屋の中がざわめき立った。
動いた、と言ってもいいと思う。
それくらい鮮やかに、雰囲気が変わった。
「……この命、懸けてお護りいたしましょう」
「っ……」
傅かれての宣誓なんて、演技でも経験したことはなかった。
でもこの瞬間、まるでジェドが――中世の騎士のように見えて。
……ヘンなの。
黒一色なのに、どうして一瞬白いマントを想像したのかしらね。
「ご協力、感謝します」
そのままの格好で見上げられ、これまでとはまったく違う柔らかい笑みに、何も言うことはできなかった。
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