「だから、何度も言ってるでしょう。ここはもっとひとつひとつの音をはっきり弾くの」
「…………」
「違う! もっと、しっかり指を立てて!」
「…………」
 テンポいいピアノの音が、そんな大きな声とともに遮られる。
 くり返されているやり取りは、早30分以上。
 けれど、流れるようなピアノの音は2分と聞こえることがなく、どちらかというと悠衣さんの声のほうがずっと長く聞こえていた。
「十分、きれいなパガニーニだと思いますけど」
「っ……! あなた、どうしてそれを」
「よく、里逸さんが聞いているので」
 『だから――』とさらに甲高い声が響きそうになったので、クッキーをほおばったあとで彼女のほうを見ると、それはそれは驚いたような顔をしていた。
 だけど、そこで里逸の名前を口にしたせいか、隣に座っていた彼もちらりとふたりを見やる。
 そのとき、悠衣さんの視線が私から里逸へ移って、ほんの一瞬だけだけど“妹”の顔になった。
「響くん、ピアノ好き?」
「……うん」
「あのね。答えるとき、ママは見なくていいんだよ? 私は、響くんに聞いてるんだから」
 瞬間的に彼は、隣にいた悠衣さんの顔を見上げた。
 きっと、これはもうクセ。
 だけど、わかったからこそここで食い止めなければならないモノでもある。
「ピアノよりもっと好きなことってある?」
「…………ええと……」
 じぃ、と視線を向けたままで『ママを見なくていいの』と念じたのが伝わりでもしたのか、今度は視線を足元へさまよわせながらも、悠衣さんを見ることはなかった。
「ほんとはね……サッカー」
「サッカー? いいね。みんなでやるの?」
「ううん。おそとへあそびにいけないから、パパが休みのときにやるの」
「そっかぁ。サッカー、楽しい?」
「うんっ。このあいだね、しょうがっこうでやったんだよ。すごくひろくて、たくさん走ったんだ」
「へぇー。たくさん走ったとき、どんな気持ちだった?」
「たのしかった!」
「そっか、楽しかったんだ。響君は、みんなでサッカーするの好きなんだね」
「うんっ」
 ほぐれた笑顔を見ることができて、内心ほっとした。
 ……そう。
 やっと見せてくれたじゃない。子どもっぽい顔。
 誰の影響を受けるでもなく出た、自分そのものの意見。
 これこそ、大事な自我。
 って私は思うけれど、彼の隣で聞きながら口を一文字に結んでいる悠衣さんは、果たして感じてくれているだろうか。
「里逸。響君に、ピアノ教えてあげて」
「っ……どうして俺が」
「だって、弾けるでしょ? それに、里逸は先生じゃん。普段から“教える”ことに特化してるんだもん、何も問題ないじゃない」
 新聞を読み終えたらしく畳んでテーブルに置いたところで、里逸の肩を叩く。
 すると、彼よりも先に悠衣さんのほうがかなり驚いた顔をした。
「な……っ……。そんな、無理に決まってるわ」
「無理じゃないですよ。だって、中学まではやってたんでしょ? なら、弾けますって」
「そういう問題じゃ――」
「ね。響くんも、たまには違う先生に教わってみたいでしょ?」
 渋る里逸の腕を立ち上がりながら引き、半ば強引にピアノへ連れて行く。
 すると、座ったまま私と里逸とを見比べたあと、響くんは困ったように悠衣さんを見た。
「…………好きにしたらいいわ」
 ため息まじりに悠衣さんが椅子から離れると、響くんは少しだけ困ったような顔をした。
 『あ』の口と彼女に向いた手から、彼の今の気持ちは推し量れる。
 でも、今は我慢のとき。
 それこそ、悠衣さんにとっても響くんにとっても、だ。
「……じゃあ、最初から。ゆっくりでいい。テンポはこのくらいで、ひとつずつ正確に弾くことを考えて」
 『本当にやるのか?』みたいな顔で私を見た里逸に大きくうなずくと、響くんを見てからゆっくりとしたテンポで手を叩いた。
 それこそ、今弾いていたテンポの約倍の遅さ。
 だけど、響くんは里逸にうなずくと素直に指を動かし始めた。
「…………」
 部屋に響く、はっきりとしたピアノの音。
 譜面の音符をひとつずつ正確になぞり、止まることなく伸びやかに音が広がる。
 確かに、音はとてもゆったりとしていて、決して譜面どおりじゃない。
 でも、さっきまでの弾いては止められ、直しては怒鳴られ……という時間ではないのもあってか、とても心地よく耳に届いた。
「……そうだ。上手じゃないか」
「えっ……ほんと?」
「ああ。一度も間違わなかったな。そうやって正確に弾けるようになったら、少しずつ速さを戻せばいいだけだ。何も、最初からこのテンポで弾こうとしなくていい」
「そうなの? でも、ママが……」
「ママだって、昔はこの曲を弾くのにとても時間がかかったんだ。最初からうまくできたわけじゃない。むしろ、響のほうがずっと上手に弾いてるぞ」
「……ほんとう?」
「ああ。上手に弾けていた。がんばったな」
「っ…………うんっ!」
 ふわり、と里逸が響くんの頭に手を置いた瞬間、彼はとても嬉しそうに顔をほころばせた。
 今まで私たちには見せたこともなかったような笑顔に、ついこちらもつられる。
 ……だけど、ただひとり。
 ふたりを離れたところから見つめていた悠衣さんだけが、違った。
 愕然とした顔つきが視界の端に入り、続いて彼女だけがひとりリビングをあとにしたのも見えた。


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