「響くんのあの顔、普段からそうなんでしょ?」
「…………」
「あんなふうに、いっつも悠衣さんに対しておびえるような顔するんでしょ? 違う? 怖がってるんじゃないの?」
「っ……そんなことないわよ……!」
「じゃあ、なんであんなにママの顔色ばっかうかがうわけ? おかしいでしょ? あんな態度。空気読みすぎ。里逸より、よっぽど空気読めてる」
 もしかしたら今ごろ、リビングの張本人はくしゃみ連発に見舞われてるかもね。
 里逸は普段から、人の顔色をうかがうようなことをしない。
 ……だから、私が思ってることも汲み取れないんだろうけど。
 でも、それはそれ。人は人。
 読めと言われても書いてあるわけじゃないし、『こうなんだろうな』と想像するしかない。
 だから、難しいこともわかる。
 私だって、小さいころはそれができなかった。
「もしかして、悠衣さんも昔ああだったんじゃないの?」
「ッ……」
「お母さまに対しておどおどしながらも、誰よりも空気読んで1番のお気に入りになってたんじゃない?」
 少しだけ里逸から聞いた話を思い出しながら、ふと思いついたことを口にする。
 すると、悠衣さんは視線を落としたまま薄く唇を噛んだ。
 ……やっぱり。
 末っ子が大成するっていうのは世でも言われてることだけど、ピアノもそうならきっとほかの習い事でも、悠衣さんが誰よりもよくできたに違いない。
 だから、お母さまは彼女に期待した。
 けど――……結婚のときになって揉めて、仲違いした過去がある。
 ……あーあ。
 なんか、典型的なホームドラマなんかよりも、よっぽどわかりやすい。
「厳しくされたから、厳しくする。それって、正しいの?」
「…………」
「自分がされて嫌だったんじゃないの? なんでこんなにツラいんだろうって思ったこと、一度もなかった?」
「……あなたに……」
「え?」
「あなたには関係ないことだわ」
 キッ、と鋭い眼差しを向けた彼女が、口を一文字に結んだ。
 芯の強そうな顔。
 ……ああ、里逸にそっくり。
 でも、残念。
 私、そういう顔を見るのは嫌いじゃないの。
「じゃあ、響くんが一生あんなふうに周りの人の顔色をうかがいながら生きることに賛成なんだ」
「っ……それは……」
「私はやだなー。私の将来の夢って幼稚園の先生なんだけど、もし自分のクラスにあんな子がいたら『かわいそう』って思う。……それ、すっごい失礼な言葉だってわかるよね?」
「…………」
「響くん、幼稚園の先生にそう思われてない?」
「ッ……」
 少しだけ首をかしげると、彼女があからさまに戸惑った顔をした。
 心当たりあります、って書いてあるのと一緒。
 でも、この顔は『だから何よ』っていう強さからくるものじゃない。
 『どうしよう』っていう戸惑いのほうが強い顔。
 ……そんな顔するなら、どうしてほうっておいたままにしたんだろう。
 対処の仕方なんて、これまでにいっぱいあっただろうに。
「響くん、誰かに笑顔を向けられたらあんなに嬉しそうに笑えるのに、わかってても尚、家の中でおべっか使って機嫌取りする子に育てたいんだ? ありえない」
「そういうわけじゃ……!」
「そういうわけでしょ? じゃあなんで笑ってあげないの? よその子にもそんなキツい顔でレッスンしてる? してないよね? いつだって笑顔で、もっと優しくて、『上手になったわね』って褒めてあげてるんじゃないの?」
「ッ……」
「響くんは、そういう悠衣さんのこと知ってるんだよ? だから悔しいんじゃない。悩むんじゃない。なんで僕はママの子なのに優しくしてもらえないんだろう、って。なんでママはよその子にばっかり笑ったり優しくしたりするんだろう、って」
 あくまでも予想でしかないこと。
 だけど、羅列してみたら予想以上に悠衣さんが反応を見せたので、さらに調子を強める。
 図星、ってことね。
 残念ながら、当たったところでまったく嬉しさなんて湧かず、むしろ『なんで自分を変えなかったの』と彼女に対する怒りにも似た思いのほうが先に出てきた。
「あの子、すっごい賢い子だよ? 全部わかってるんだよ? だけど、悠衣さんには文句言ったりしないでしょ? なんでかわかる? 悠衣さんのことが……ママが誰よりも大好きだからに決まってるじゃない!」
「……っ……」
「ママが好きだから、傷ついてほしくないから、全部自分が我慢してるだけなんだよ? それっていいこと? 違うよね? おかしいでしょ? ありえないでしょ? っ……自分の子どもにそこまで我慢させてどうすんのよ!!」
 小さいころ、両親に離婚してほしくなかった。
 お兄ちゃんは『どうしようもないんだよ』って言ったけど、そんなことないって思って、精一杯努力した。
 私が“いい子”でいたら、ふたりはずっと笑っていてくれるんじゃないかって。
 私ががんばれば、周りを変えられるんじゃないか、って。
 ……だけど、結果は何も変わらなかった。
 誰のことも変えれなかった。
 我慢したのに、精一杯努力したのに、どうにもならなかった。
 それでも――……今はもう、恨んじゃいない。
 今度は、“気づいた”私が周りを変えればいいんだ、ってわかったから。
「……じゃない……」
「え?」
「…………仕方、ないじゃない。…………わからないんだから……ッ」
 搾り出すような、だけど芯のある強い声。
 わなわなと両手を震わせながら私を睨みつけた悠衣さんは、心底悔しそうに歯を噛みしめた。
「どうすればいいかわからないから、困ってるんじゃない……! 笑えばいい? 褒めればいい? そんなの頭ではわかってるわよ! でも、自分の子になるとできないから困ってるんでしょ!!」
 バシン、と強く壁を叩き、まるで子どもを叱るときに見せる“強者アピール”の威嚇。
 いったい、響くんやカナちゃんは、何度こんなふうに叱られたんだろう。
 そのたびにどれほど萎縮して、恐怖を感じて、泣いたんだろう。
 ……ああ、だめだ。
 廊下で背中を丸めながら『ごめんなさい』って言わされてるふたりの姿が想像できてしまい、いつの間にか手のひらに爪が食い込むほど強く両手を握りしめていた。
「さっきから聞いてたら、何よ! たかが女子高生のくせに、偉そうなことばっかり言って……!! 幼稚園の先生になりたい? っは! ますますあなたの程度が知れたわ!!」
 鼻で笑い、ひどく勝ち誇ったかのような顔をされて、ひどく自分が冷めていくのがわかった。
 ……そんな顔しちゃうから、バレちゃうってわからないのかな。
 今の顔とセリフで、彼女がいかに人を見下して生きているか、よくわかった。
「よその子がイタズラしても笑って済ませるわよ。当然よね? だって、そこに責任がないもの。でも、自分の子は違う。自分の子がイタズラをしたら、叱って当然でしょう? それが躾じゃない! 間違いを正してあげなきゃ、困るのはあの子なのよ!?」
「…………」
「だからっ……いつだって厳しく接してなければ、あの子が困るもの。甘やかすのは簡単よ? でも、社会に出たらそんなの通用しない。小学校に行けば、もっとキツい環境になる。だからっ……だから、それに堪えられるだけの子にしなきゃいけないって思うじゃない!!」
「…………」
「いい学校を出て、いい会社に入って……立派な大人になってほしいって思うのは、どんな親でも共通でしょう!? 今のご時世、一度でも負けたら這い上がれないのよ! 周りを出し抜いて自分が勝ち組にならなきゃ、一生負け組みのままなのよ!!」
 遠い、遠い昔。
 こんなセリフを、有里さんや里逸、そして悠衣さんも言われたのだろうか。
 『人は、自分がされたことを経験として知識に蓄え、くり返す』
 虐待がくり返されるのと一緒。
 小さいころ、親にされたことを自分が“親”になったとき子どもにしてしまうのは、人間のサガだから仕方ない。
 だって、それ以外の方法を知らないんだもん。
 『わからない』
 人は経験で知識を吸収する生きものだと、偉い先生方はみんな口を揃えて言っているらしいし。
「だから、響にはきちんとしてほしいの! それこそ……っ……主人なんかと同じレベルの会社じゃ、あの子が不幸にな――」
「それ。……子どもの前で絶対言ったらダメだから」
「っ……」
 彼女をまっすぐ見つめたまま黙って聞いていたけれど、さすがに『タブー』を犯した以上黙ってはいられない。
 私は、悠衣さんの旦那さまに会ったことはないし、これっぽっちしか情報も持っていない。
 それでも、今こうしてよく知りもしない人間の前で旦那をこき下ろすことができている以上、きっと彼女は普段から子どもたちの前で言っているんだろう。
 『パパは本当にどうしようもないわね』と、ふたりにとって何よりも大好きな人間を馬鹿にしているんだ。
「子どもは、親を選べないんだよ?」
「っ……どういう意味」
「悠衣さんが考えてる意味、じゃないよ。少なくとも」
 子どもは親を選んで生まれてくるとか、選ぶことができないとか、そういう議論をしようとしているわけじゃない。
 そうじゃなくて、もっと根本的なところ。
 それこそ、“選択”そのものの話だ。
「パパかママどっちかを選べない、っていうそのままの意味」
「……え?」
「子どもにとって、パパとママはどっちも大事なの。だって、どっちも大好きなんだもん。なのに、ママがパパをそんなふうに言ってたら、子どももそうやって見るようになる。それどころか、簡単に馬鹿にしますよ。パパだけじゃない、周りの人間を。それこそ、友達も、先生も、全部ね」
 簡単に聞いちゃいけない質問なんだ、と聞いた。
 もちろん、ケーキとアイスどっちがいい? なんて簡単に答えを出せるものならいいけど、パパとママなんて選べるはずがない。
 馬鹿な女が仕事と自分どっちが大事なのよなんて言い出すのと、まったく同じレベル。
 だから――……両親が離婚するとき、ママにされたこの質問には答えられなかった。
「そんなふうに教えちゃ、絶対ダメ。どんな理由があっても、人を見下すなんてとんでもないよ?」
 ましてや、大切な父親を。
 いつしか両腕を組みながら彼女に対していたけれど、一方の悠衣さんはさっきまでの勢いが完全に失せ、まるで大きな傷を負ってでもいるかのようにとてもツラそうに見えた。
 ……ああ、なるほど。
 痛いところを突かれた人は、こういう顔するのね。
 そういえば、いつだったか里逸もこんな顔したことがあったっけ。
「だいたい、わからなかったら、みんなに聞けばいいじゃない」
「え……?」
「だって、家族でしょ? 悪いことしたら、謝ればいい。親だから子どもだからっていうのは、関係なくて。傷つけたら、間違ったら、謝ればいいだけじゃない」
「っ……そんなの……」
「親だからできない? 親は絶対だから? ……っは。笑っちゃう。そういうふうに虚勢を張るから、あとでツラくなるだけなのに。どっちが偉いなんて、親子では存在しないんだよ? さっきも言ったけど、子どもは全部わかってるの。馬鹿じゃないんだよ? 全部知ってる。きっと、悠衣さんがそうやって悩んでることも、全部」
 こうして、ずっと自分が思っていたことを言う前に、大きくなってしまった。
 だから、ママは私がこんなふうに思っていることを知らない。
 それでも別に、構わない。
 だって……もう私は、自分だけの力でも生きていけるってわかってしまったから。
「多分、悠衣さんが幼稚園の先生を馬鹿にしてることもわかってると思うよ?」
「っ……」
「てゆーか、笑っちゃうんだけど。そんなふうに馬鹿にしてる人に、大切な我が子を預けてるわけでしょ? ありえないよね。神経疑っちゃう」
 自分何様よ。
 は、と笑う代わりに瞳を細めると、まるで痛いところを突かれたみたいな顔をした彼女が、ぐっと口を結んだ。
 幼稚園の先生、かわいそうすぎる。
 きっと、このモンスターママさんはよっぽどのことを言い出しちゃう人としてリストに載っていることだろう。
「当然、ご主人もね」
「……え……」
「きっとご主人はわかってる。自分のことを見下してる、って。それでも文句言わないのはなんでかわかるよね? ……悠衣さんは、聡い人でしょ?」
 会ったことがない人だから、すべては想像でしかない。
 でも、鼻で笑って言い返してこないあたり、きっと私の想像は正しいものなんだろう。
 まったく私を見ず、ただただうつむくように視線を落としている悠衣さんを見ながら、そこでようやく小さなため息が漏れた。

「それだけ家族に愛されてるのに自覚ないとか、ホント、いっぺんみんなの前で土下座したらいいんじゃない?」

 彼女がそうする姿は想像できない。
 だけど、もしかしたら少しは考えを改めよう、くらいは思うかもね。
 さっきも言ったけど、悠衣さんは賢い人。
 初対面の私にこれだけのことを暴かれて、きっとなんらかを“気づき”は当然しただろうから。



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