「今日の15時ごろ、仕事上がりにスタンドへ寄った」
「そうなの? だったら――」
「にもかかわらず、声をかけれなかった理由は、わかるか?」
「え?」
 淡々とした声。
 だけど、ようやく私を見つめた里逸の顔は、普段の自信満々な感じとは違って、少しだけ困っているようにも見えて。
 まさに、『らしからぬ』様子に、眉が寄る。

「俺が見たとき、穂澄は俺の知らない男と親しげに喋っていた」

「……私が?」
「それだけじゃない。明らかに触れてもいただろう。男がお前に……だけじゃない、穂澄もそいつに触れていたんだ」
 淡々とした、静かな喋りはいつもと同じ。
 なのに、里逸はひどくつらそうな顔を崩さなかった。
 この顔は……前にも見たことがある。
 そう。
 瑞穂が男装したのを、勘違いしたときと同じ。
 ってことは――……今、もしかして嫉妬してくれてる?
 やばい。
 普段、あんまり感情を出したりしない人だからこそ、すっごい嬉しいんだけど。
 でも、さすがにこの状況下で笑い出したりはしないよ?
 それくらい、私だって空気読める。
「……そんな人いたかな」
「見たんだから、間違いないだろう」
「や、それはそうかもしれないけど……」
 顎に指先を当てながら、うーん、とばかりに思い返すバイトの時間。
 でも、15時ごろっていうと休憩あがりだよね。15分の。
 そのあとは……別にナンパされることもなかったし、里逸が言うような状況に陥ったことはなかったはず。
 あ、そういやひとり、セルフが初めてって言うおじさまの相手はしたけど、そのとき触られたっけ?
 んー?
 やばいなぁ。
 そのときは、喋り方がなんか合わなくって、ただただ『早く終わらせよ』しか考えてなかったから、よく覚えてない。
 ……でも、この状況で『よく覚えてない』とか言ったら、絶対怒られるよね。
 とはいえ、覚えてないのに嘘も言えない。
 ていうか、今日は結構忙しかったんだってば。
 お客さんの入りがやたらよくって、それはどうやらマネージャーたちに言わせると『サンタ娘効果』だとか言ってくれたものの、それを直で口にしたら絶対怒るでしょ? 里逸。
 っていうか、今ですら相当怒ってるっぽいのに、言えるわけない。
 こーゆー顔見るの、嫌いじゃないんだけど……ってことも言ったら、怒るよね。
 『そういうことを言ってるんじゃない!』って。絶対。
「……わかんない」
「な……っ」
「覚えてないんだもん」
 じぃ、と里逸を見ながら呟いた途端、それはそれは驚いたように目を見張った。
 ……あー、きっとここから怒涛のお説教タイムとかが始まっちゃうんだろうな。
 でも、しょうがない。
 悪いのは、私。
 そこまで、ヨソの男の人に気を払ってなかった私の落ち度だ。
「…………なら、いい」
「え」
「覚えてないなら、仕方ないだろう。……これ以上言ったところで、どうなるわけでもない」
 人は、予想外の行動を取られると、ひどく動揺するらしい。
 ……ううん。
 それどころか、思いきり焦り始め、がらにもなく心拍数が急上昇。
「え、ちょ……っ……里逸」
「なんだ」
「何って……え、終わり……?」
「ああ」
 目を閉じて小さく息を吐いた里逸は、座椅子にもたれるとコーヒーのマグに手を伸ばした。
 口づけ、改めてテレビをつけてから流れ始めたニュースに目をやる。
 その間、当然といえば当然なんだろうけれど、私を一度も見ることはなかった。
 ……えっと……。
 …………おしまい?
 ホントに?
 追求、しないの?
 だって、里逸は見たんでしょ? その目で。
 なのに――……ってことは、何。
 もしかして、『私が隠してる』とでも思われてる?
 っ……何よそれ。
 そんなことしてないし、別に思ってもないのに。
 ただ、本当にわからないだけ。
 でも確かに、そう言われたって、私だったら納得なんてできない…………のに。
「…………」
 ごめん、とか。
 違うの、とか。
 なんかいろいろな言葉が出そうにはなるけど、どれも口にしていいものじゃない気がして。
 だけど……まさか、のこのこと同じこたつに入って同じように他愛ない話をできるほど、馬鹿でもなくて。
 …………どうしよう。
 もしかしたら、里逸は本当に何も思ってないかもしれない。
 『これ以上どうしようもない』と言ったんだから、きっとこの話を蒸し返すつもりもないだろう。
 でも、それが私にとってほっとするかなんて言ったら、そんな馬鹿な話はなくて。
 ……すっごい気になる。
 いいわけないのに。
 このままで、オッケーなんていつもみたいに振る舞えるわけないのに。
 でも…………どうすればいいか、わからない。
「…………」
 ため息が出そうになったのを飲み込み、ひとりキッチンへ戻る。
 夕飯の支度、しなくちゃ。
 だって、今日はクリスマス。
 今日のために、ってずっと考えていたメニューがあるんだから、それを作りたい。
 ……作る、って決めたんだもん。
「…………」
 パタン、と後ろ手でリビングのドアを閉めると、やけにあのおいしそうなチキンの匂いが鼻についた。
 きっとそのせいではないと思うけれど、なぜか途端に泣きそうになって。
 自分自身のことですら何を考えているのか、どうしたいのかわからず、気持ちと考えがぐちゃぐちゃでわけがわからなかった。


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