昨日の夜、煮込み始めたときはイライラした気持ちをぶつけるように野菜とお肉を刻んでお鍋に入れた、ビーフシチュー。
赤ワインのアルコールはすっかり飛んでいて、今はもう酔いそうにない。
濃い赤というよりはブラウンのソースを簡単に混ぜながら、うっかりまたため息が出た。
昨日はイライラで、今はしょんぼりとか、どんだけよ。
我ながら、あまりにも感情に差がありすぎて、そのせいで疲れてもいるんじゃないかと心配する。
なんか、里逸と一緒にいられるようになってから、自分がよくわからなくなった。
ちょっとしたことで落ち込んだり、ちょっとしたことでテンション上がったり。
わけもなく不安になったり、かと思えばうきうきしたりなんかして。
……やっばい。
もしかして、情緒不安定?
だとしたら、そのせいで里逸がやたら気を揉んでるんじゃないか、なんてことまで考えてしまい、またため息が出る。
「…………」
今日のメニューは、ビーフシチューとサーモンのマリネに、フランスパンのカナッペ。
個人的にはクラッカーとかのほうが好きなんだけど、里逸はフランスパンのほうが好きだ、みたいなことを言ってたから、こっちを選択した。
いただいたチキンは、当然食卓へ。
でもその前に、オーブンで温めなおしてから……だけど、それは里逸がお風呂から出てから、かな。
ちらりと時計を見ると、まだ19時前だった。
こんな時間にお風呂へ入ること自体が珍しいけど、きっと里逸もいたたまれなさがあったんだろうな。
夕食の支度を始めてしばらくしたら、何も言わずにお風呂へ向かって。
目が合って初めて何か言いたげな顔をされたけれど、結局里逸は口を結んでそちらへ行ってしまった。
「はーあ」
アボカドのディップを作りながら、何度目かの大きなため息が漏れた。
あれからというもの、一生懸命思い出そうと考えを巡らせてはみたけれど、まったく思い浮かばなかった。
だけど、里逸はよその男と親しげにジャレついてる私を、見たと言う。
……でも、当人にそんな記憶はない。
となると――……どゆことよ、私。
里逸が嘘をつくとは思えないし、私を見間違うとも考えにくい。
実際、今日のバイトでサンタの格好してた同性なんて、私かマネージャーだけだし。
……でも、覚えてないんだよね。ホントに。
あーもー。
こんなんだから、里逸が『もういい』とか言うんだろうけど。
「っ……と」
水にさらしていた玉ねぎをザルにあけたところで、自宅の電話が鳴った。
普段はあまり鳴ることのない機械なだけに、ついびくりと肩が震える。
だって、この電話の相手ってお母さまの印象しかないんだもん。
まだそんなに経ってないあの日がトラウマのように蘇り、受話器に手を伸ばしながらもつい苦笑していた。
「はい」
もしもし高鷲です、なんて丁寧な名乗り方はせず、淡々と事務的な応対を心がける。
だって、相手が誰かわかんないし。
もし、学校関係者だとしても、さすがに声で私だとバレはしないだろう。
『……あ、もしもし。…………わかる?』
「え。アネアネ詐欺ですか?」
『違うわよ!』
こほん、と咳払いのあとに聞こえたぎこちないセリフに噴きそうになると、半ばキレた悠衣さんが『それに私は妹だし!』と丁寧なツッコミをくれた。
ああ、愛すべき高鷲家姉妹。
そういうところ、ほんっとかわいいんですけど。
「メリクリです。悠衣さん」
『……どうして略すの』
「え、なんかそのほうが軽いかなーって」
『そんなことしてくれなくていいわよ。……あのね。私も暇じゃないの』
「やだなー、知ってますよー」
きっと彼女は、受話器の向こうで心底嫌そうな顔をしていることだろう。
もしかしたら、少し離れたところには響くんや、カナちゃんがいるのかもしれない。
『わたしのー!』なんて甲高い声が聞こえて、眉を寄せすぎて凝ってしまったような眉間が、ふにゃりと緩む。
『メッセージカード、ありがとう』
「…………」
『…………』
「…………」
『……ち、ちょっと。何か言いなさいよ』
「え、やだ、なんか、ちょっとすっごいびっくりして。だって、悠衣さんがストレートに『ありがとう』とか言ってくれるの、稀じゃないですか?」
『失礼ね!!』
思いっきり時間をためて切り出すと、また彼女の大きな声が聞こえた。
でも、不思議。
くすくすと笑いが漏れると同時に、悠衣さんの赤くなった顔が目に浮かぶようなんだもん。
……ああ、やっぱ楽しいんだよね。私。
悠衣さんと有里さんと話してるの、好きなんだ。きっと。
『とにかくっ! 子どもたちもあなたに感謝してたから。……それを伝えたかっただけよ』
「それはそれは、わざわざありがとうございます。ちゃんとクリスマスに届いたみたいで、安心しました」
くすくす笑いながら、見えないのについうなずき、笑みが残る。
昨日の午後、郵便局から発送したメロディが流れるタイプのクリスマスカード。
カードを開くと反応して音が鳴る一般的なタイプだけど、ちょっとでも楽しんでもらえたら、それでいい。
『わーい』って笑ってくれる顔が想像できて、こっちまで嬉しくなった。
『まぁ……子どもたちには、予想外のプレゼントだったみたいよ』
「ホントですか? よか――……」
受話器を握りしめた手に、力がこもった。
わけなんて、簡単なこと。
単に、ひっかかったから。
……ううん。
正確には、今のひとことで“思い出したから”だ。
「…………プレゼント」
受話器からは、ずっと悠衣さんの声が聞こえていた。
でも、そっちには意識がまったく向かず、オウムみたいにぽつりとひとりごちる。
プレゼント。
今日の15時。
親しげに話していた男。
私が触ってもいた。
それは――…………!
「っ……悠衣さん!!」
『なっ……、な、によ! 急に大きな声出さないで! びっくりするじゃない!!』
「ありがとう! 悠衣さん、ありがとうっ……! ごめん、またかけるから!」
『え!? 何を言って……っていうかあなたね! 別にもうかけてくれなくていいわよ! 私の用件は済んだんだから!』
「ホントに!? っ……じゃ、ごめっ……! ごめん! 切ってもいい!?」
『は!?』
ああ、今私すっごい唐突なこと言ってる。
だけじゃなくて、きっと悠衣さんにめっちゃ失礼なこと言って、怒らせてる。
でも、でも! 今じゃなきゃだめなの!
だって、やっと思い出したんだもん!
わかったんだもん!!
だから――……どうしても、早く伝えたいの!!
「っ……ごめん! トイレ!!」
『なっ……!! 早く行きなさい!!』
わたわたしながら振り返った先に見えた、お風呂のドアとトイレのドア。
だけど、瞬間的に脳裏に響いたカナちゃんの声とトイレが結びついて、まったく思ってもなかった言葉が出た。
でも、いい。
だって、お陰で悠衣さんが『伝えたからね!?』と電話を切ってくれたから。
もう、もうね、体裁とか構ってる場合じゃないんだから!!
「っ……!!」
ガチャン、と乱暴に受話器を置き、パタパタとお風呂まで駆ける。
引き戸を開けた先に、里逸の姿はない。
それもそのはず。
だって、中からはシャワーを使ってる音が響いていたから。
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