「お兄ちゃん!!」

「ッ……な……!?」
 ガチャン、とすりガラスタイプになっているプラスチックのドアを開けると、もうもうとした湯気の中で、ものすっごい目を丸くしている里逸がいた。
「お兄ちゃん!!」
「は……なっ……何!?」
「だから、お兄ちゃんなの!」
「ッ……何がだ!! というかそもそも、俺はお前の兄ではないぞ!!」
「当たり前でしょ!! 知ってるわよそんなの!!」
 呆然としたというよりは、みるみる眉を寄せてなかば怒ってるみたいな顔をしたけれど、ぶんぶん首を振って一歩踏み込む。
 じわり、と足の裏にあたたかい濡れた感触。
 ……う。気持ち悪い。
 でも、入っちゃったものはもう、しょうがない。
 出しっぱなしになっているシャワーのせいで赤のスカートに濃い斑点が付き始めたのも目に入ったけれど、どうしようもなかった。
「思い出したの!! 里逸が見た人! あれ、お兄ちゃんだから!!」
「な……っ」
「ごめん、思い出せなくて!! 今っ……思い出して、だから、言わなきゃって……!」
「そ……ッ……ちょっと待て!! 濡れるだろう!!」
「いい!! 濡れてもいい!!」
「ッ……風邪を引く!!」
「いいッ……!!」
 里逸の腕を掴んだ途端、彼は目を丸くして慌てたようにシャワーを止めた。
 だけど、濡れるのなんて今さら。
 むしろ、足元はすっかりびしょ濡れだし、里逸に触れている袖口から、じわじわと染みは広がって肘まで伝っていた。
「……ごめんなさい……っ」
「ッ……」
「不安にさせて、ごめん。思い出せなくて、ごめん……っ……やな思いさせて、ごめんね里逸……」
 言いながら、じわりと涙が滲んだ。
 ……う。やっばい。
 こんなとき、まさか感情のセーブがきかなくなったなんて、情けないどころの話じゃないのに。
 あったかい湯気のせいなのか、それとも安心したからなのかはわからないけれど、両手で里逸の腕を取ったまま見上げていたら、涙が目の端に浮かんで周りが滲む。
「……っ」
「いい、と言っただろう。……別に、信じてないわけじゃない。穂澄が思い出せない程度のことなら、どうせ大したことじゃないだろうからな。……俺のほうこそ、悪かった。別に……お前を不安にさせるつもりは、なかったんだ」
「……ふ……」
「っ……待て! 泣くな!」
「もぉ……なんでそんな優しいのよ、ばかぁ……!」
 静かな声のせい、もあっただろう。
 だけど、何よりも私を信じてくれていたのが嬉しくて、情けなくも眉が下がった。
 ぼろ、と涙がこぼれたのを見て、ぎょっとしたように目を丸くした里逸がおろおろと両手をどうするべきか悩むのも目に入る。
 ――……けど。
「ん……っ」
 あたたかい両手が頬を包むと、当然のように引き寄せられたのが嬉しかった。
 いつもよりずっとあたたかくて、なのに濡れている非日常的な感じ。
 それでも、里逸は里逸。
 舌先で唇を舐められ、ひくんと身体が反応してしまい、結局濡れることなんておかまいなしに身体を預けていた。
「は……ぁ」
 里逸の前髪から落ちたしずくが伝い、唇を濡らす。
 ……あーあ。びしょびしょ。
 普段とは違って、まず見ることのないような前髪を下ろしてる里逸と目が合ったものの、その困ったような顔がさらに幼く見えて、ついつい頬が緩んだ。
「……ね」
「どうした?」
「一緒に入っていい?」
「っ……な……!」
 鼻先がつく距離で首を傾げると、それはそれは驚いたような顔をされた。
 え、でも待って。
 この状況でダメだとか言われたら、本気で泣くけど。私。
「ちょ……っ……ちょっと待て。今、出るから……!」
「なんで? 別に出なくていいし。一緒に入ろうよ」
「っ……断る!」
「な……っ……ちょっと! そんなに拒否らなくてもいいじゃん!」
「仕方ないだろう! そんっ……なことを急に言われても、困る!」
「もー! けち!」
「そういう問題じゃないだろう!」
 目を見たまま全否定を浴びた私の気持ちはどうなるわけ?
 シャワーが止まったせいで、全体的に身体が冷えてきてなんか寒いのに!
 そりゃ、里逸はまだあったかいでしょうよ!
 きっと、ばっちり湯船につかってたんだろうから!
 でもね! 私は中途半端に“濡れた”状態であって、まったくお風呂を満喫してないのに!
 なのに、『今出る』とか言われても…………無理だし!
「っ……穂澄!!」
「だって! うー……冷たくなってきちゃったんだもん!」
 タオルで髪を拭き始めた里逸を確認しつつもまずは靴下を脱ぎ、じっとり重たくなった上着も脱ぐ。
 ていうか、今さら下着姿を見ようと、裸そのものを見ようと、何も困ったりしないでしょ!
 何も、ピュアでウブな関係なんかじゃないんだから!
 現に私は、里逸の裸を見るのを全然躊躇なんかしなかったし!
「だから、待て!」
「やだ!」
 スカートを脱いで完全に下着だけになったところで、慌てた里逸が逃げるように脱衣所へ出てしまった。
 ……ちぇ。
 せっかく、一緒に入ろうと思ったのに。
 ていうか、今まで『一緒に入るか』とか誘ってこないのもどーかと思うけど、いざそういうシチュエーションにムリヤリ持ち込んでも断られるとか、どーなのよこれ。
 確かに、このアパートのお風呂だとふたりで入るにはかなり狭いけど。
 でも、だからこそくっ付いていられる特性があるってもんなのに。
「……ったくもぉ」
 ちょっとフクザツ。
 ていうか、惜しいことをした感じが否めないのは、なんでだろう。
 ……こーゆーのって、フツーは男が感じるものじゃないの?
 まぁいいけど。
 ドア越しに髪を拭いているらしい里逸の姿が見え、尖った唇がようやく笑みへと変わる。
 仲直り、になるのかな。もしかしたら。
 それがちゃんとできて、いつもみたいな私たちに戻ったから、夜は、これから。
 特別なクリスマスは、こうでなきゃいけない。
「……えへへ」
 下着を脱いでドアを開けた瞬間、里逸が驚いた様子でなぜか背を向けたのがおかしくて、『何よそれー』なんて私らしい言葉が漏れた。


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