成績がどうだとか。
 この先の進路がどうだとか。
 そーゆーのはもう、一切関係ない。
 ……それどころじゃないよ。
 もう、意味がわからない。
「…………」
 タン、と勢いよくまな板に包丁が当たって、刻んでいた玉ねぎがシンクに落ちた。
 今日はクリスマスイブ。
 ……クリスマスイブ……だけど、何?
 こんな気持ちのまま、『聖夜』を過ごせるわけないのに。
 別に、信じてないわけじゃないし、嫉妬がどうのなんてことも言わない。
 そうじゃなくて。
 もっと根本的なことに、どうしても引っかかっていた。

『この間の日曜日、ドクターが横浜でデートしてた』

 まるでパパラッチ並みの情報をあれよあれよと披露してくれた男子は、それはもう鬼の首でも取ったかのような勢いだった。
 とはいえ、情報源は彼じゃない。
 ほかのクラスの男の子。
 だから、彼は単に聞きかじったことを周りに伝聞していただけだから、どこまでが正確な情報なのかはわからない。
 ……だとしても。
 『あのリーディングの高鷲先生が、ものすごく美人を連れてみなとみらいにいた』っていうのは、どうやら事実らしい。
 あのあと、ほかのクラスの子に聞いてみたけれど、どの子も共通してそのことだけは言っていた。
「…………」
 やばい。本格的に手が止まった。
 別にね?
 私としては、里逸がどんな女を連れてても、実際どこまでヤることヤったのかもまったく興味がないし、聞きたいとも思わない。
 ……そうじゃないのよ。
 私がイライラしてる原因は、そこじゃない。

 なんで、私に本当のこと言わないわけ?

 ほかの誰でもない、里逸が私にとった行動こそが、何よりも腹立たしかった。


「高鷲先生」
「っ……」
 教室でのLHRが終わったあと、まっさきに向かったのは職員室。
 今日は午前授業だっていうのもあってか、先生方はみな一様に同じお弁当を机に広げていた。
 それは、里逸も例に漏れることなく。
 今日はお弁当いらないって聞いてたし、その理由がなんでかも数日前から聞いていたけど、まったく自分色のないおかずを食べているのを見て、なんだか余計におもしろくなかった。
「……どうした?」
 こんなふうに職員室にいる彼を訪ねるのは、随分と久しぶりだ。
 最近の私の授業態度は申し分ないらしく、里逸にも担任の先生にもここへ呼び出されることがなかった。
 お陰で、入ってすぐ担任の笹山先生が『誰かに呼ばれたのか!?』とお茶を噴きだしたほど。
 先生のその態度、すっごい久しぶりだったからちょっとだけ嬉しくなっちゃったわよ。
「ちょっと。話があるんですけど」
「話?」
「……いいから」
「っ……」
 椅子に座ったまま訝しげに眉を寄せた里逸に、瞳を細めてぼそりと呟く。
 すると、立派なお重のようなお弁当に蓋をしてから先に立ち上がり、隣の進路指導室を指さした。
「…………」
 この部屋に来るのも、久しぶり。
 だけど、今日は昼休みがないのもあってか、ほかに生徒の姿は見えなかった。
 いつもならすべて埋まっている個別相談ブースも、カーテンが開けられてがらんとしている。
「……どうしたんだ?」
「…………どーもこーもないわよ」
 こんだけ自分でも『うわ』って思うような低い声、久しぶりに出た。
 ついこの間、里逸のお母さま方に対していたときだって、出なかったのに。
 ……あーあ。
 女って、なんでこんなにあからさまなんだろう。
 我ながら、里逸のこととなると感情がうまくコントロールできないみたいで、悔しい。
 ……余裕ない、って言ってるのと同じじゃない。
 すっごい腹立つ。
「この間の日曜日。横浜に行ったって、本当?」
「……日曜?」
 ブースの椅子に座ることなく、立ったまま私を見下ろしている里逸は、小さく呟くと眉を寄せた。
 ほかの先生みたいに、壁やドアにもたれたりすることが決してない人。
 いつだって背を正していて、姿勢が良くって、それだけでほかの先生方とは一線を画してる、私が好きになった相手。
 だけど――……言ってなかった?
 嘘をつくのも、つかれるのも嫌いだ、って。
 日曜日、私は久しぶりに朝からべったりバイトが入っていた。
 だから、里逸がその間どこで何をしていたのかはまったくわからない。
 それでも、夕方いつもより少し早い時間だから、と里逸の迎えを断って帰ると、家にはいつもと同じように里逸がいて、当たり前だけど私を迎えてくれた。
「…………」
 当然、“誰か”が横浜で見た相手が里逸じゃない、っていうのも事実としてはあるかもしれない。
 見間違いか、はたまたデマか。
 作り話だったら、それはそれで光栄じゃない。
 モテモテの独身教師とは真逆の立ち位置にいる里逸がそんなふうに吹聴してもらえるのなんて、よっぽど彼をどうにかしたくての扇動だろうから。
「……それは……まぁ、そうだな。確かに、出かけはした」
「…………」
「…………穂澄?」
「あ、そう」
「っ……おい。穂澄? どうした」
「……別に」
 里逸が私から視線を外す、前。
 明らかに、動揺を見せた。
 一瞬だけわずかに目を丸くし、まるで痛いところでも突かれたかのように唇を開いた。
 ……その顔が見れただけで、十分。
 なるほど。
 どうしても私に言いたくない何かがある、ってことがよくわかったわよ。
「よくわかったから、もういい」
「っ……ちょっと待て。何がわかった。どういうことだ? いったい、何を――」
「だから……ッ……もういい、って言ってるじゃない!」
 里逸に背を向け、職員室側じゃなくて廊下側に出るドアノブを掴むと、反対の腕を掴まれた。
 大きな手のひら。
 大好きだけど――……正直、今は心地よくなくて、ギリ、と奥歯を噛みしめる。
「もう何も聞かない」
 だから、私にも何も言わないで。
 顔だけで里逸を振り返ると、いつものクセか瞳が細まった。
 悪いけど……私、そこまで優しい子じゃないのよね。
「ほ――……ッ……宮崎!!」
 後ろ手で閉めようとしたドアが内側から強く引かれ、振り返りもしない私の背中に切羽詰まったような声が当たった。
 廊下に響いた大きな声が、なんだか懐かしくてちょっとだけ嬉しかった。
 ……なんて言ったら、里逸はどんな顔するの?
 普段呼んでくれている名前じゃなくて苗字に言い直した彼は今、いったいどんな気持ちでいてくれるだろうか。
 でも、そこから先の想像はしない。
 リアルの世界には、『たら』も『れば』もないんだから。
 ひと気のなくなった教室で私を待ってくれているであろう瑞穂にも、今の里逸の声が聞こえたんだろう。
 唇を噛みしめて顔を上げると、戸口へ立っている彼女の心配そうな顔が見えた。


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