「いったい、どういうつもりなんだ!!」
 何度、この言葉を思い浮かべただろう。口にしただろう。
 大して悪びれた様子もなく髪を耳にかけた宮崎を見て、さらに頭に来る。
「お前のしてることは間違ってるぞ!? だいたい、あんな嘘までついて――」
「どこが嘘なの?」
「だから! 彼女の弁当云々というのが……」
「どうして嘘だと言えるの?」
「っ……それは……」
 これまでとは打って変わって、力強い芯のあるまっすぐな瞳。
 ……く。
 相変わらず、この顔は苦手だ。
 何もかも見透かされてしまいそうで、つい視線が落ちる。
「どういうつもり、って。こっちが聞きたいわよ」
 軽く、鼻で笑ったのが聞こえた。
 それだけじゃない。
 あからさまに嘲笑を浮かべている彼女は、やはり俺なんかよりもずっと年上の“女”に見えた。
「手作りなんです、料理学校に通ってるんです、だから料理には自信があるんです? ……よくもまぁ、そんな嘘ばっかりいくつも並べられると思って感心しちゃう」
「っ……お前……!!」
「だいたい、見抜けないほうも見抜けないほうよ。……ちょっとハナから信用しすぎなんじゃない?」
「なんだと……!?」
「そんなに焦ってまで結婚したいの?」
「っ……」
「そんなに大事? 世間体とか、体裁とか。下らないモン背負ってるせいで、とんでもないモノ掴まされそうになってるクセに?」
「宮崎! お前……っ……言ってイイことと悪いことがあるだろうが!!」
 何に対しての、怒りか。
 そこが正直、自分でもよくわからなくなっていた。
 ……だが、それに気づいたのはずっとあと。
 このときは、ただ悔しくて『なぜ』なんて理由まで考えようとはしなかった。
 あとになってみれば、よくわかる。
 結局は、彼女を選んだ自分自身を否定されているのが嫌で、強く反発したんだろう、と。
「じゃあ聞くけど。ホントにいいの? このままで」
「な……んだと……?」
「あの人のついてる嘘、ひとつやふたつじゃないわよ?」
「ッ……な……」
 すぅっと瞳が細まってすぐ、宮崎が呟いた。
 その言葉が、あまりにも衝撃的で。
 言葉に詰まり、そのあとがまったく出なかった。
「わかんないの? ……ま、わかんないでしょーね。鼻の下伸ばして、簡単にコロコロ騙されちゃってるんだもんねー?」
「っ……!」
「そもそも、あの人がセンセといて本気で楽しいって思ってるとでも? 自惚れないでほしいわね。女ナメすぎよ」
「それは……! 確かに、つまらないかもしれない。それでも彼女は俺に合わせて――」
「……くれてるとでも思ってんの?」
 は、と短い笑いはまさに嘲笑。
 自惚れないで。
 どこまでオメデタイの?
 まっすぐな眼差しがそう言っているようで、だからこそ内心『違う』とただただ宮崎を否定し続ける。
 こうしてなければ、負ける。
 いや、砕かれそうで怖かった。
「あの人が大切なのは、センセ自身じゃないの。戸籍よ戸籍。ハイレベル学歴を持つ高校教師の妻であるっていう、その世間体が欲しいだけ」
「まさか! 彼女は違う。そんなんじゃ……」
「そんなんじゃない? 何を根拠に言えるの? じゃあ聞くけど、あの人のことどれだけ知ってるわけ? 性格は? 好きな食べ物は? 休みの日には何してる人?」
「っ……それは」
 いったい何が確かなの?
 そう聞かれれば、いつだって自分自身の物差しだと答えた。
 信じられるのは、自分だけ。
 1番、確かなのは自分。
 誰が何を言おうと、正しいのは俺だけだと、いつでもそう思っていた。
 だから、誰に何を言われようと気に留めることもなくここまで来た。
 間違っていたなど、感じたことなく。
 これから先困るであろうなどとも、不安に駆られることもなく。
 …………だが。
「それは……」
 ここに来て初めて、何も言えなかった。
 確かなデータが根拠のすべて。
 そう思っていた自分が、初めて不確かすぎる“願望”を頼りにしたことに気づいた。
 気づかなかった、んだ。
 宮崎本人に指摘されるまで、それこそが間違いだったということに。
 ただただ、佐々原さんというある種絶対と思えるような結婚相手を見つけだしたことで、彼女のすべてをわかったように思っていたにすぎないのに。
 ……自分自身の固定観念という枠の中へ都合よくハメようとしていただけなのに、間違いでないと信じてやまなかった。
「別にあの人は、愛とかなんとかっていう、メンドくさいモノは全然欲しがってないの。いつだって私のこと邪魔そうにしか見てないし、今度は何をバラされるんだろうって、おべっかしか使って来ないし。ホントつまんない」
「…………」
「センセは本気かもしれないけど、彼女はただの遊び。今はどうでもいいの。年内に式を挙げてたくさんの未婚の友人を呼んで、お姫様になりたいだけ。……意味わかる?」
「……………」
「私立でも、ウチのガッコはそれなりにレベルが高いから年収だって名声だってそれなりにあるでしょ? しかも、イイトコ出のキャリア。ずーっとこの先も安定してる、高校教師。安泰よね? そりゃ。デカい企業ったって、若いうちから稼いでる人間なんてひと握りよ。どーせ、毎日あーでもないこーでもないって文句ばっかタレてんじゃないの? 私にはもっといい仕事が回ってくるべきなのに、どうして毎日こんな下らない人たちと一緒にされなきゃならないのかしら? あー、腹立つ……ってね」
「…………」
「ホントにデキる女ってのはね、どんな仕事でも選り好みしないの。どんなモノが来ても一流の回答を出してやるのが、頭のイイ人間なのよ? 愚痴ったってしょうがないでしょ? それで何かが変わるワケでもないんだから。だったら、自分が努力する。努力して周りを変える。それができて初めてアイツはデキるぞって言われるのに、なんでグチグチ文句ばっか言って、他人をこき下ろしてる人間が褒められるのよ。ンなワケないでしょ? 世の中そんなに甘くないっつーの。だいたい、自分何様よってカンジじゃない」
 内心、そこまで言う必要はないだろうと思いもした。
 逆に、どうしてそこまで信じることができないのか、とも。
 だが……出てこないんだ。
 情けなくも、彼女の言う言葉すべてに対して『ああなるほど。そうかもな』などと思っている自分がいるから。
 不思議と……頭に、浮かぶから。
 言われれば言われるほど、どんなときだろうと誰の言葉であろうと、流されることなどなかったのに。
 自分が思ったことは絶対に変わらなかったし、曲げるつもりもなかったのに。
 ……なのに、なぜひと回りも年下のしかも教え子に対して、何も反論が出てこないのか。
「結局何が言いたいのかっていうと、現実を見ろってことよ」
「……何?」
「努力しなきゃ何も変わらないの。文句タレてる暇があるなら、自分で考えて動かなきゃダメってこと」
 静かな声のままで告げられる、訓戒めいた言葉。
 もはや、当たり前にすら思えるようになった宮崎のこの顔から、少しだけ視線が逸れた。

「ホントにあの人と結婚したいの?」

「っ……」
「いい? 今さら焦って『誰でもいい』って言ってるような人なのよ? ……なのに、そんな人を抱きたいの? 絶対つまんないってわかってるのに?」
 つまんない。
 宮崎はいつもそう言って眉を寄せる。
 ……今もそうだ。
 今もまた、確かに心底から面白くなさそうな顔をして俺を見た。
 つまんない、か。
 そう言って素直に自分の中で白黒をきっちりわけれたのは、いつごろまでだったろうか。
 ふと、今の自分と目の前にいる10代の人間との間にギャップを感じて、ため息が漏れた。
「……お前には関係ないだろう」
 そう言うのが精一杯だった。
 だからこそ、『何それ』とつまらなそうにため息をつかれたところで、仕方がないと思っている。
 ……だがここで、ある考えが浮かんだ。
 気づいたら、言い返されるに違いないのに、彼女に対して意見をしていた。
「普通の日常が、つまらないのは当然だろう?」
 小さくため息をついたか、つかないか。
 そんな短い間のあとで、宮崎をまっすぐに見つめる。
 すると、案の定挑戦的な目をして何かを言いかけた唇を結んだ。
「そうだろう? あちこちに、面白くて楽しいことばかり溢れているはずがない。なのに、何かあればすぐ『つまんない』で片付ける。……そんなもの、現実逃避と一緒じゃないか」
「…………」
「イイことを言ったなどと思っているかもしれないが、それは違うぞ」
 俺が喋ってる間、ずっと宮崎は何も口にしなかった。
 ただただまっすぐ俺を見つめたまま、微動だにせず。
 ずっと俺の言葉が終わるのを、まるで待ってくれていたかのようにさえ感じた。
「そんなのわかってるわよ。当然でしょ?」
「……ほう。ならばそ――」

「だから、言うんじゃない」

 凛とした声があたりに響き、長い髪を片手で簡単に流す。
 だが、なぜかその一挙一動に目がいき、ついつい視線だけはその手を追いかけるように動いていた。
「簡単に、そのへんに面白いことなんか転がってない。そんなのわかってるわよ。……だから、探すんじゃない。自分の目で、足で、満足するために」
 背を伸ばして告げた彼女が、どこか満足げな笑みを見せた。
 両手を腰に軽く当て、少し離れた俺を見つめる。
 その眼差しは相変わらず力強くて。
 俺を責めるでも非難するでもない、しっかりとした自分を持っている確かな証拠にも思えた。
「…………」
 何も言い返せず――……いや。
 むしろ、特に何かを言い返すつもりはなかった。
 どうせコイツに何かを言ったところで、自分がうなずけるような言葉があるとは思っていない。
 だから、さっきのはさっきのままでもよかった。
「……でも、ま……そうね」
 そう納得しようとしたのに、なぜだろうか。
 宮崎はまるで何か面白いことでも思いついたかのように、指先を顎に当ててほんのりと笑みを浮かべた。
「どうしてもあの人とふたりきりでデートしたいっていうなら、それ……叶えてあげなくもないけど?」
「っ……何……!?」
 くすり。
 少しだけ流すような視線をこちらへ向けると同時に、宮崎がいたずらっぽく笑った。
 もしかしたら、コイツのことだ。
 何か罠のようなモノがあったのかもしれない。
 だが、このときの俺にとっては、その言葉こそが何よりも欲しいすべての免罪符のようなモノで。
 気づいたときには、とっさに飛びついていた。
 あとになって考えてみれば、愚かだったのかもしれない。
 だが、あまりにもオイシイ話が突然目の前にぶら下がって来たせいか、普段の自分を置き去りにしたまま、情けなくも食いついてしまった。
「ただし、ひとつ条件があるけどね」
 そう言って宮崎は、また女っぽい笑みを浮かべた。
 きれいで、濡れているような艶のある唇で笑い、白い歯を少しだけ覗かせる。
「…………」
 それは、まるで洋画に出てくるような謎めいた、したたかな女のようで。
 思わず、ごくりと喉が鳴ったのは情けなくも事実だった。


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