「………………」
 カタカタと叩くのは、自宅のノートパソコン。
 そこに並ぶ英字を眺めるのは、今日で何日目か。
 毎日毎日、家でも学校でも、こうしてパソコンと睨み合う生活が続いていた。
 内容はもちろん、ネットサーフィンなんてお気楽なモノじゃない。
 ……そう。
 これは全部、いよいよ来週の頭に行うことになっている、中間テストの問題だ。

『今度の中間テストで、私が90点以上取ったらなんでも言うこと聞くって約束して。もしできなかったら、今後一切邪魔しないであげる』

 教師である俺と、取引をしようと言い出した宮崎。
 だが、その挑発を俺は、一瞬噴きだしてから思いきり笑い飛ばしていた。

 できるはずがないことを条件に挙げるなど、随分思いきったことをするな。
 いいだろう。お前が俺のテストで90点以上取ることができたら、なんでも言うこと聞いてやる。

 果たして、あのときの自分はどれほど不敵な笑みを浮かべていたことか。
 情けなくも生徒の挑発に乗り、それだけでなくさらに挑発をし返したのだ。
 ……とはいえ。
 そのときの宮崎は、なぜか自信ありげで。
 それが確かに気にはなったが、今さらあとの祭り。
 一抹の不安に駆られたのは、言うだけ言って帰って行った宮崎の後ろ姿を見送ったあと、佐々原さんの待つ場所へと戻り――……宮崎の弁当を片付け始めたときだったんだから。
「……はー……」
 これが一体、何度目のため息か。
 打っては止まり、打っては止まる。
 今さら、範囲を変更したり見直すつもりもない。
 どうせテストに載せるのは、教科書とは違う長文なんだから。
 普段から自分は、教科書にある文をそのまま載せることなどまずしない。
 授業中に板書したフレーズや文法を、違った文章に当てはめて作るだけ。
 ……作る、か。
 そう言ってしまえばラクなものだが、当然そこまでラクじゃない。
 適当な文を拾ってきて載せてしまうのも、まぁ、それは個人の問題だから敢えて口出しはしないが。
 それでも俺は、プライドが許さないとでも言えばいいか。
 やはり、できなかった。
 たとえ時間がかかるとわかっていても、自分の手で作り上げる以外の方法は考えつかなかった。
「………………」
 ついに止まったか。
 両手を乗せたままのパソコンを眺めてから、データを保存して立ち上がる。
 ……休憩。
 まさにそのままの意味である一服のため、ベランダへ。
 いつだったか。
 宮崎が人の部屋にずかずかと上がり込んで来てひとこと、『煙草クサい』と眉を寄せたのは。
 別に気にするようなものでもなければ、相手でもない。
 なのになぜか、そう言われると妙に気になるタチらしく、ついつい部屋の中で取り出すと手が止まった。
 ……ヘンな話だとはわかってるんだがな。
 一緒に住んでいるワケでもない、迷惑をかけているはずのない相手。
 なのに、言われたひとことにここまで反応するとは。
「………………」
 部屋からの光を背負ってベランダに出てすぐ、手すりにもたれて煙草を口にする。
 いつだっただろう。
 こうして、煙草を初めて口にしたのは。
 ……最初は、知らなかったんだよな。
 吸いながらじゃなきゃ、火が付かないなんてこと。
「……ふ」
 街灯だけが照らす夜道を眺めながら、赤い火種と白い灯りとを見比べる。
 きっかけは、友人の些細なひとことだった。
 『ストレス発散』
 そんな単純な動機で煙草を吸い始めたヤツが言った、ひとこと。
 だがそれが、こうも大きな威力を発揮するとは。
 今ではすっかり、手離せないシロモノ。
 当時は、煙草イコールダメなヤツだと勝手にレッテルを貼っていたのに、今じゃすっかりその仲間だ。
 ……人間なんて、結局は意志も何もあったものじゃないのかもしれないな。
 1度手を出したのが、今じゃこの有様。
 とはいえ、それが幸か不幸かなど……言うつもりもない。
「…………?」
 溜め込んだ煙を吐き出したとき、不意に何かが聞こえた気がした。
 小さな、だけどどこか耳に残るもの。
 ……そんな、声が。
「…………」
 車どおりもないため、音などほとんどないこの場所。
 だが、だからこそ耳を澄ませば自然に聞こえる、拾える、音。声。
 ……宮崎。
 すぐ右隣にある部屋から、それは確かに聞こえていた。
 小さな、高い声。
 ……声。
 そう。
 これは、恐らく――……何かを口ずさむ、歌声。
「…………」
 普段の彼女からはまったく予想もできないような、穏やかで静かなモノだった。
 恐らく、今流行りの歌なんだろう。
 いかにもといえそうな内容の歌詞がところどころ聞こえて、少しだけ『らしくない』などとつい思った。
 ……それにしても、まさかアイツがこんなふうに歌うとはな。
 意外だ。
 歌など、歌うようなヤツじゃないと思っていたのに。
 ……いや。
 もしくは、もっとガサツで不協和音としか思えないような音楽しか聞かないようなヤツだと思っていたから。
「…………」
 ところが、コレはどうだ。
 自分が思っていた以上に、優しさすら感じられるような声で。
 大人しくて、高くて、きれいで。
 ……きれい、か。
 随分とまぁ、自分らしくもないことを平気で考えるものだな。
 らしくないのは自分も同じか、などと思えてそれがまたおかしかった。
「…………」
 だが、こんなふうに呑気な歌声が聞こえてくるということはつまり――……まったく勉強してなどないということ。
 ……やはりな。
 宮崎ならば、そんなことだろうと思った。
「……フン」
 思わず小さく鼻で笑い、部屋へ身体の向きを変える。

 ガッタン

「ぐ……!!」
 弱みを握ったな、などと思ったのもマズかったのかもしれない。
 口元を緩ませながら部屋に戻ろうとした瞬間、室外機を思い切り蹴飛ばしてしまい、今の時間にはまったくそぐわない音が響いた。

 ガラ

「っ……!」
「……何? 今の……」
 痛さを堪えるしかできず、声を押し殺して手すりにもたれた途端、隣の部屋の網戸が開いた。
 ぷっつり止んだ歌声の、主。
 宮崎本人に違いない。
「…………」
「…………」
 ……まずい。
 非常に、まずい。
 コイツに見つかりでもしたら、それこそ何を言われるかわかったものではない。
 ましてや、聞き耳を立てていたなどバレでもしたら……最悪だ。
 変質者扱いされるだけでなく、それこそ管理職連中にまで直談判にいきそうだ。
「に……にゃー」
 苦し紛れとは、まさにこのこと。
 だが、これ以外とっさに思いつかなかった。
 ……俺としたことが、とは思った。したあとになって、な。
 だが、本当にどうしようかと思った瞬間頭に浮かんだのは、定番中すぎるズバ抜けてやってはいけない真似第1位のコレだった。
「……なんだ、猫か」
 だが、そうかと思えば意外な反応が聞こえた。
 ほっと息を吐いてから、足音が立たないよう部屋の網戸に手をかける。
 なんだ、宮崎は意外と単純なんだな。
 いや、むしろそんな人間で助かったが。
「って、そんなワケないでしょ!!」
「うわっ!?」
「……ったくもー。3階で野良猫の声なんて聞こえるワケないじゃない! だいたい、ここペット禁止だし!」
「な……おまっ……! 馬鹿! 落ちるだろうが!!」
「落ちないわよ」
 とんでもない声が聞こえて振り返った途端、思い切りベランダに両手をついて身体を乗り出している宮崎が見えた。
 あからさまに非難めいた顔をしており、部屋へ入ろうとした格好のまま止まる。
「いいから! とにかく、降りろ! 危ないだろう!!」
「……ったくもー、心配性ってゆーか小心者っていうか……。まぁいーけど」
 慌てて首を振り、手も振る。
 途端に火種が甲をかすめて、じりじりとした熱さが一瞬過ぎた。
「てゆーか、何してんの? こんなトコで。……まさか、覗きとかじゃないでしょーね」
「なっ……! 馬鹿言うんじゃない!」
「うーそだー。じゃあ、どうして顔が赤いのよ」
「いや、だからそれは……だなっ……」
「あ。まさか偵察!? うわ、ずるいんだー。教師がそんなことしていーの? さいてー!」
「だから! そうじゃないと言っているだろう!!」
 室外機の上に置きっぱなしになっていた灰皿へ煙草を押し当て、改めて首と手を振る。
 もちろん、内心ばくばくと心臓がうるさいのは承知の上。
 だからこそ、せめてバレたりしないように、という思いを精一杯込めて。
「それより宮崎! お前、勉強はどうしたんだ!」
 言うにこと欠いて、それか。
 よほど動揺していたんだなと自分でもわかるが、今さら遅い。
 口にしてしまったものは、もう取り返しがつかないんだから。
「そんなの関係ないじゃない」
「そ……れは、まあ……そうだが……」
 なんといえばいいのか。
 まるで、こちらの内心を見透かしてでもいるかのように、眉を寄せたまま怪訝そうに呟く。
 ……気まずい。
 そのジロジロとした視線は、間違いなく俺を非難していて。
 何がなんでも、悪者に仕立て上げたくてたまらなさそうだな、お前は。
「てゆーか、だからセンセこそこんなトコで何してたのよ」
「いや、俺はだから……ちょっと、一服を……」
「一服ぅ?」
 なんなんだ、だからその不満そうな口ぶりは。
 俺が一服して何が悪い。
 別に、お前の部屋にまで煙など行かない……だ、ろうに。
 ……いや、実際はどうなのか知らないが。
「またそーやって、煙草でごまかす」
「ごまかしてないだろう!」
 とんでもないことを言われそうになって、慌てて首を振る。
 ……いかん。
 このままでは、ラチがあかない。
 もっとほかに、何かイイ話題はないものか――……などと、思ったとき。
「あ」
 そういえば、あることが頭に浮かんだ。
 まだ記憶にも新しい、つい先日のこと。
 ……そう。
 あの、無理矢理3人でのデートと相成った、日曜のことだ。
「宮崎。そういえば、どうしてあのとき俺が駅前にいることを知っていたんだ?」
 ベランダの手すりへもたれたまま、相変わらず身を乗り出してこちらを覗いている彼女。
 そちらへ一歩近づきながら指を差すと、不満げな顔をしてから小さく肩をすくめた。
「別に」
「別にって……お前」
「だって、センセの声聞こえたんだもん」
「……は?」
 あっけらかんと言われた、とんでもないセリフ。
 それこそまさに、身に覚えはなく。
 だからこそ、ぽかんと口が開いた。
「佐々原さんだっけ? あの人とまだ、あれから会ってないでしょ」
「……それは……まぁ」
「ま、そゆこと」
「何? だから、どういうことだ」
「だからー、そのまんまじゃない。センセが電話で話す声、単にウチまで聞こえて来るってだけの話」
「…………」
「…………」
「……なにぃいい!!!?」
「…………え、知らなかったの?」
 ガラにもなく、宮崎と見つめあうこと数秒。
 とんでもないことを聞かされ、思いきり絶叫する。
「なっ……なんだと!? 会話が聞こえる!?」
「そーよ。なんか、やったらテンション高い嬉しそーな声なんだよねー。珍しくない? ホント。びっくりしちゃった」
 くすくす笑っていた顔が、いつしかニヤニヤへと変わる。
 ……う。
 まさか、そんな理由だったとは露知らず。
 てっきり、宮崎のヤツがまた変な手段を用いてやったんじゃないかとばかり思っていたからこそ、自分自身のせいだとわかって一気にヘコむ。
 ……不覚。
 宮崎ならば間違いなく、末代まで無理矢理引きずっていきかねない恥。
 そう瞬時にわかって、思いきりため息が漏れた。
「ま、そゆことだから。来週末はちゃんと空けといてね」
「……どうしてそうなる」
「だって約束したでしょ? 90点以上取ったら、言うこと聞いてくれるって」
「フン。だから、それはあくまでもお前が90点以上取れたらの話だろうが」
 負けじとこちらも瞳を細め、背を伸ばす。
 だが、宮崎は相変わらず猫みたいな瞳で笑うと、頬に指先を当ててから俺と同じように瞳を細めた。
「あのね。私が()の悪い賭けなんかするとでも思ってるの?」
「……は。その過剰な自信はどこから来るんだ?」
「過剰じゃないわ。正当でしょ? ……ま、せいぜい問題に凝ることねー」
「手加減はしないからな」
「そんなの当たり前でしょ」
 いったい、何がその余裕溢れる表情の源になっているんだ。
 理由もわからず、原因も思い浮かばず。
 だた、恐らくはただのヤセ我慢でしかないんだろうと思っていた。
 ……少なくとも、このときの俺は。まだ。
「ま、せいぜいあがくことだな」
「はいはい」
 人差し指を向けながら忠告し、半分ほど開いている網戸に手を伸ばす。
 すると、ひらひらと手を振りながら、まるで子どもにでも向けているかのような表情が見えた。
「……それはどっちかしらね」
 くす、と聞こえた小さな声。
 だが、もう振り向いたときはもうそこに、宮崎の姿は残っていなかった。


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