「………………」
 天気のいい日だった。
 こんなとき、朝早く起きると少しだけ得をした気分になる。
 休みの日に、天気にも恵まれるとなれば……それはそれで。
 自然と頬が緩みそうになるのも、仕方がないというのに。
「ちょっとー。ちゃんと前向いて運転してよね」
「……うるさい。少しくらいは、別に構わないだろう」
「いーわけないでしょ! 事故でも起こしたらどーするのよ!」
 ……なのに、なぜ。
 絶対、隣になど乗せるつもりもなければ乗せたくもなかったヤツが、座り込んでいるのか。
 助手席。ナビシート。
 いわゆるそこは、特定の人間しか座ることを許されていないある意味大切でかつ、神聖な場所だというのに。
 ……く。
 まだ佐々原さんを乗せたことすらないというのに。
 こんなことならば、前回のとき無理矢理にでも車で行くんだった……と、今になって後悔する。
「それにしても……センセって、ちゃんと運転できるんだ」
「当然だ。何年乗っていると思ってるんだ、お前は」
「ふぅーん?」
 ひぃ、ふぅ、と小さく言いながら、指折り数え始めたな。
 それがどれほどの嫌味に映ってるか、わからないだろう。
 ……まったく。
 ああ、本当に腹が立つ。
 だからこそ、今になって呪いたくなるな。
 ちょうど1週間前に交わした、口約束を。

「始め」
 一斉に、紙が翻る音が教室に満ちた。
 カリカリとすぐに聞こえ始める、シャーペンの音。
 誰も彼もが机に伏し、まるでその様は教壇にいる俺に対して平伏しているかのようにも見えて、割と気分はいい。
 ……などと、もちろん態度に見せるだけで口には出さないが。
 何かと口うるさい今の教育に対する親たちに、伝わりでもしたらたまらないからな。
「…………」
 しかしながら、そんな中にも例外というのはいるもので。
 ……やはりお前か、宮崎。
 頬杖をついてかったるそうに記入する姿を見ていたら、ため息が漏れると同時に少しだけテンションも下がった。
 いかにも、『空欄を埋める』態度。
 長文も、果たして読んでいるのか読んでいないのか、まったく検討がつかない。
 ……どうせ、適当な答えを書いて終わらせるつもりなんだろう。
 毎度のことながら、結局は口でああ言おうとなんだろうと、同じ。
 本人の言葉イコール態度に表れるかといえば、やはりそこまで劇的な変化はないようだ。
 まぁ、当然だろう。
 結局、あれから宮崎の授業態度がそれじゃあ変わったのかと言えば、そんなことはなく。
 いつもと同じように欠伸を我慢せず見せ付けながら、ときにはあからさまに面倒くさそうな顔で教科書をたどたどしく読み……と、俺の沸点ギリギリなことを何度もしでかした。
 ……よく堪えたモノだ。
 これもひとえに、宮崎が決してテストで90点を取ることができないイコール……何者にも邪魔されず過ごせる、佐々原さんとの幸せなひとときがあったからのようなもの。
 それが理性をしっかり保たせてくれていたのは、間違いない。
 面倒なことは、御免だ。
 ヤツとはこれで、おさらば。
 そう思えば、どんなことに対しても寛大になれた。
「そこまで。後ろから前へ、答案を回すように」
 きっちり合わせた腕時計で終了の合図を送り、半ば急かせるように立ち上がって教卓に両手を置く。
 ……コレで、何もかもが決まったな。
 いろいろな意味での終了、まさにそれだ。
「……ふぁーあ」
 大きな欠伸をしながら身体を起こした宮崎を見つめ、小さく口元だけで笑う。
 途中から寝ていたのは、ギブアップと取っていいだろう。
 なんせ彼女は、始まってものの20分も経たない内に、用紙を裏返して即居眠りを始めたのだから。
 それぞれが持ち寄った、それぞれの答案。
 毎回のことだが、答案はできるだけ早く返すようにしている。
 ……そのほうが、いろいろと都合もいいだろう?
 自分も学生時代には早く返してほしかったし、今でもそうだ。
 楽しみだからな。
 ……今回は、特に。
 内心ほくそ笑みつつ職員室へ戻ったのは、まさに答案を集め終えてすぐだった。

「えー。何、いっちょ前にETCとか付いてるの?」
「……別にいいだろう」
 高速のインターへ入った途端、宮崎がとんでもなく失礼なテンションで言いきった。
 ……腹が立つことばかりするヤツだな、本当に。
 なんだか、頭痛がし始める。
 とはいえ、それは今に始まったことでもないが。

 『御殿場のアウトレットに行きたい』

 そんなことを言い出したのは、宮崎にすれば当然といえば当然だったのだろう。
 だが、何もテストを終えたその日の夜に、人の家へ乗り込んで来なくてもいいと思うぞ。
 どれだけ非常識なんだ、コイツは。
 すでに半分以下程度にまでテンションが下がっていたからこそ、余計にダメージが大きかったというのに。
「…………はあ」
 ため息混じりにゲートを抜け、名古屋方面に向かう。
 土曜だというのに、そこまで混んでいない道。
 天気も良好。
 ……なのに、どうして隣がコイツなのか。
 律儀に約束を守ってやっている、俺も俺だとは思う。
 だが、さすがに反故にはできなかった。
 意地、と言ってもいい。
 アレだけコイツの手前いろいろ言ったのもあるし、何よりも……あの結果。
 まさに、ある意味パーフェクトだったんだから。
「ホントはアレ、満点のはずだったんだけどなー」
「っ……」
 両手でハンドルを握り締めたままでいたら、宮崎が触れなくてもいい話題に触れ始めた。
 ぴくりと当然のように身体が反応をし、ついでに眉も上がる。
 ……腹の立つヤツだな、本当に。
 さんさんと降り注いでくる日の光とは真逆のモノを感じて、少しだけ奥歯が軋む。
「ま、いっか。どっちみち90以上は取ったんだしね」
 シートを少しだけ倒しながら思いきりもたれ、両手を上に伸ばす。
 完全に、くつろぎモード。
 だからこそ、余計に腹が立つ。
 ……だが、何も言えない。
 いや、言わないと決めたんだ。
 まさかあそこまでやられるなどとは微塵も思っていなかったから、言い訳はしない。
「…………」
 追い越し車線から走行車線に戻り、スピードをそれなりに落とす。
 左側を流れるように飛んでいく、看板。
 そこにはしっかりと、御殿場の文字も見えていた。
 ――あれは、職員室でのこと。
 次の時間に試験監督を任されなかった俺は、当然のように終えたばかりのテスト採点を始めた。
 本来ならば、宮崎を1番最初に持ってこようかとも思ったんだが……そのときは、何もかもをまったく予想していなかった。
 どうせあんな試験態度を取っていたアイツが、できているはずがない。
 そんな普段と同じことをまず考え、上から順番どおりに始めた。
 …………が、しかし。
 もしかしたら、ついつい宮崎とのことを意識しすぎてしまい、普段より少しだけ難度を上げてしまったのかもしれないと気づいたのは、半分を終えたあたり。
 普段ならばそれなりに高得点を取ってくるはずの生徒が、今回に限っては軒並み70点台から80点台をマークしていたのだ。
 おかしいな、ともっと早く思えばよかったんだろう。
 ……が、しかし。
 『なんとなくそんな気がする』程度で留めてしまった俺は、宮崎の答案についに行き着き。
 そして――……驚愕。
 まさに、その言葉しか出ないような体験を、ばっちりと身をもって知った。
「…………」
 ちらりと視線だけを隣へ向け、改めて宮崎という人間を観察にかかる。
 普段は、何かと面倒くさそうでかつ意欲をまったく発揮してはいない。
 なのに、今回。
 あのテストのあの点数はお前、いったいなんだ。どういうことなんだ。
普段の授業態度からは、まったく予想もできなかった結末。
 驚き、などというレベルではない。
 ありえなかったのだ。本当に。
 ……むしろ正直、今でも信じられない。

『宮崎穂澄 98』

 名簿にそんな数字を書く日が来るとは、思わなかった。
 これまで2年間の数字を眺めてみても、それこそ散々たるモノとしかいえないような劣悪な状態だったのに。
 ……コイツはいったい、何を考えながら日々を生きているのか。
 いつしか『謎』や『不可解』などより、どこか恐怖にも似た感情を抱き始めていたのに気づいた。
 唯一、宮崎が間違えたのはアクセントの問題。
 だが、正直コレも判断に迷った。
 出題ミスと言われれば、違うと声高には言えないもの。
 だからこそ、強くは言えなかったのだ。
 今現在も、宮崎に対しては特に何も。
「さーて。今日は何してもらおっかなー」
「……十分しているだろう」
「ちょ、何言ってんの? これからでしょ? こーれーかーらー」
 るんたるんたと、こちらとはまったく正反対の態度。
 にまにまとやたら性格の悪そうな笑顔を浮かべ、とにかく上から目線に近い物言い。
 非難めいて聞こえるのは、俺の内情を把握でもしているからなのか。
 そんな不安もあってか、ついついため息の数ばかりが増えていく。
「……そういえば、そんな服も買ったな」
「ん? あぁ、コレね」
 今ごろになってようやく気づいたが、宮崎が着込んでいるのは先日自分が買ってやった服だった。
 買ってやった、などと言うと妙に問題発言的に聞こえなくもないが、実際はそんなものではなく。
 半ば強引に買わされたものなのだから、特に何かを思うわけでもないが……しかし。
「……まさか、本当に着るとはな」
「なんで?」
「いや。お前のことだから、買うだけ買わせて実際は着ないなどという嫌がらせなのかと思ったが」
 素直に思ったことを口にした。
 そう。コレが本音だ。
 てっきり、宮崎はそういうことを平気でするのだと思っていた。
 だから、あのとき買ってやった服を当たり前の顔で着こなしているのが、なんとなく不思議というか……妙な感じで。
「そんなことするワケないでしょ? もったないじゃない、そんなの」
 肩をすくめてから見せたその表情にも、特別目立った感情が表れているでもなく。
 ……ヘンなヤツ。
 やはり俺には、宮崎という人間がどうにもこうにも、量れないと感じた。


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