「……よし」
 いるものと、いらないもの。
 単純にそれらを仕分けるだけの作業だったのだが、トン、とテーブルで必要なプリント類をまとめ上げると、達成感に包まれるから不思議なものだ。
 もしかしたら、ドアの向こうで掃除をしていた穂澄も、済んだのかもしれない。
 小さく聞こえていた鼻歌が今は聞こえず、耳を澄ますもシンとして物音ひとつしなかった。
 まぁ、単純に今いるのが違う部屋なのかもしれないが。
「…………」
 いつものクセで腕時計を見ると、すでに時間は12時を指そうとしていた。
 単純なもので、時間からつい昼を連想してしまい、多少腹が減ったような気になるから不思議だ。
 ……いや、不思議ではなく俺という人間そのものが、きっと単純なせいだろう。
 そういえば、ソウも昔は4時間目の途中になると腹が減る、とよく言っていたな。
 アイツとて、仕事納めは同じ日のはず。
 今ごろは果たして――……どこで何をしているのやら。
「っ……な……!」
「あ」
 リビングのドアを開けたところで、ちょうど寝室から出てきた穂澄と目が合った。
 いや、正確には『目が合った』レベルではない。
 そのいでたち、雰囲気、容貌。
 すべてが一瞬で目に入り、思わず目を見張ることになった。
「っ……その格好は……!!」
「へへー。どお? ねえ、どおかな? かわいくない?」
「だから……!」
 いつも行うやりとりながらも、今日はそんなところを指摘している余裕はない。
 ふわふわとやたら丈の短いスカートに、太もも半ばまでを覆い隠しているやけに光沢のある靴下。
 そして、何よりも目立つのが、頭についているカチューシャだった。
「……何をしているんだ」
「え、変? ……あ、そっか」
 まったくもって、場違いそのもののいでたちに、どうやら自分でも気づいたのか。
 ……いや、そんなはずはない。
 ぽん、と両手を合わせた穂澄が、これだけで引っ込むはずはないんだ。
「猫耳つけるの忘れてた」
「ッ……そうじゃないだろう!」
 カチューシャを指先で触った途端に聞こえたセリフで、思わず大きな声が出る。
 やはりか。
 この子はいったい、今何を企んでいる。
「おかしーなー。もっと喜んでくれる計算だったんだけど」
「なぜだ」
「えー。里逸ってば、すっごい期待はずれ」
「……何?」
「てっきり、もっとほっぺた赤らめて喜んでくれると思ったのに」
「っ……なぜ俺がそんな反応をしなければならないんだ!」
「あ、それそれ」
 眉を寄せて言い返したところで、けらけらと穂澄は笑いながら人を指差した。
 相変わらず、子どものような反応にため息が漏れる。
 そもそも、なぜ自宅にメイド服なんてものが存在しているんだ。
 原点は、何よりもまずそこだ。
「その服はどうしたんだ。いったい」
「ほら、覚えてない? うちのクラス、文化祭でメイド喫茶やったじゃん」
「……何?」
 下着が見えそうで見えない、ギリギリの丈とおぼしきスカートの裾をつまみながら、穂澄が目の前に座った。
 ただでさえふわふわしているスカートが、勢いでさらにふわりとなびき、思わず視線が逸れる。
 が、どうやらそれを穂澄は察知したようで、両手を床につくとにじり寄るようにして下から顔を覗いた。

「おかえりなさいませ、ご主人さま」

「ッ……な……」
 いつもとはまったく違い、吐息をめいっぱい含んだような囁きに、ぞくりと身体が反応しそうになった。
 恐らく、喉を鳴らしたのはわかったのだろう。
 いつもだったらクスクス笑う穂澄がにっこりと形いい唇で笑い、さらに身を寄せる。
「……ねぇ。あのときは、私がこんな格好してても何も思わなかったでしょ?」
「あのとき?」
「ほら。文化祭のときだってば」
「…………いや……」
 文化祭。
 というのは当然、秋に行われた高校の文化祭のことで違いない。
 だが、あのときも例に漏れずほとんど各教室を回ったりしなかったので、そこまで印象にないのが本音。
 今思えば、穂澄のクラスを見ておけばよかったか、と少し後悔してはいるのだから、まったく興味がなかった自分がまるで別人のように感じられる。
「文化祭は、ほとんど職員室にいたからな……」
「えー!? ……あ、そっか」
「ああ。まぁ、さらりと回りはしたんだが、そこまで覚えて――……」
 つい、いつものクセで腕を組み、視線を宙へ向けたとき。
 ふいに、あの日のある出来事が蘇り、『そういえば』と言葉が消える。
 あの日。
 職員室にいた俺は、コーヒーでも飲もうかと立ち上がった拍子に、中腰の姿勢で固まった。
 理由はひとつ。
 入り口から、素っ頓狂な格好をした生徒が平然と入ってきたから、だ。
 手に銀のトレイを持ち、その上にはなぜか今自分が飲みたいと思ったコーヒーを乗せて。
「…………」
「ん?」
「そういえば、穂澄のこの格好は目にしていたんだったな……」
「思い出した?」
「……思い出した」
 ぼそりとひとりごとのように呟いたら、穂澄はなぜか満足げに大きくうなずいた。
 そうだった。
 あのときは、『担任の笹山先生に持ってきたんだけど、いないからあげる』などと言い残して去っていったな。
 しかし、もしかしたら――……あれもすべて、計算のうちだったのかもしれない。
 今だからこそ、わかる。
 彼女の用意周到さというか、虎視眈々さというかが。
「な、んだ」
「あのときと今、この格好見ても同じ?」
「……何?」
「『誰を喜ばせるためにそんな格好をしているのか、理解しかねる』」
「っ……そんなことまで覚えてるのか」
「当たり前でしょ? 好きな人の言葉なんだから」
 ずい、と顔を近づけてから目の前で囁かれ、ごくりと喉が動く。
 ……好きな人、か。
 相変わらず、臆面なく自分の気持ちを口にできるあたりは、若さゆえではなく穂澄だからこそなんだろう。
 素直に、感心する。
「今なら答え、わかるでしょ?」
 床に触れていた手が、するりと胸元を伝う。
 指先でシャツのボタンを弄り、顔を近づけてすぐここで笑いながら。
 相変わらず、表情をよく変える子だ。
 雰囲気の作り方をよく知っているからこそ、できることでもあるんだろうが。
「私が、誰を喜ばせたがってるか」
「……俺は別に、喜ばないだろう」
「そお? そのわりに、結構嬉しそうだとは思うけど」
「っ……そんなことはない」
「もー。そこは素直にうなずくとこでしょ?」
 くすくすと笑い、長いまつげを伏せた穂澄が頬へ口づけた。
 濡れた音が小さく聞こえ、内心どきりとする。
 いつまで経っても、慣れない行為。
 とはいえ、嬉しいと素直に思えるようになったあたりは、俺も成長と言っていいのか。
「そういえばあのとき、里逸もコスプレしたよね?」
「何?」
「ほら。後夜祭のとき。里逸、執事だったじゃん」
 ぱっ、と表情を変えたかと思いきや、穂澄が目を見張った。
 大きな瞳で覗かれ、思わず言葉に詰まる。
 が、誤解は解かねばならないだろう。
 悪いが、俺は誰かを喜ばせたいがために着替えるような思考の持ち主ではない。
「違う。ただ、モーニングを着ただけだ」
「え、でもさー。十分コスプレじゃない? っていうか、すっごい意外だったんだよねー。里逸があんなことするなんて」
「……仕方ないだろう。大人の事情がある」
「仕事のため、か。大変だねー、大人って」
 毎年恒例となっているのが、後夜祭での教師の“だしもの”。
 附属高校に勤めるようになって早数年経つが、まだまだ若手に属するためかこの手のイベントではどうしても借り出される。
 さすがに、まだ今の立場で断ることも無碍にすることもできず、結局発起人であるイベント大好きな総括教諭発案の舞台に姿を現さなければならないのは、言うまでもなく自分にとって大きなストレスだ。
 長いものに巻かれる感は否めないが、いたしかたない。
 それが、社会に出るということ。
 そう思って毎年堪えてはいるが、私立高ということもあってかなかなか新人が入ってこないため、もはや脱することができるのは遠い未来のように思えてきたあたり、自分でも悟ったなとは少し思う。
「で? 写真とかないの?」
「なっ……! そんなもの、あるわ――」
 はた。
 眉を寄せて『馬鹿なことを』と払拭するつもりだったのに、頭の隅に浮かんでしまったものが言葉を遮る。
 当然だが、自分で自分の写真を撮って保存するような趣味は持ち合わせていない。
 だから、穂澄がやたら友人らと撮っているプリクラの類が正直不思議でならないほど。
 だが……記憶にはある、写真。
 そう。
 物好きなカメラ役の教師が『いい記念になりますよ』などと、意味のわからないセリフとともによこした証拠写真が。
「やっぱ、あるんだ。ねぇ、見せて! どれ!?」
「っちょ……ちょっと待て! 穂澄!」
 ちらり、と視線をラックに向けたのが間違いだったのかもしれない。
 当然のように視線を外し、俺よりも先にラックへと穂澄が手を伸ばした。
 そこに入っているのは、授業用の資料だったり過去のプリントだったり。
 だが、几帳面な性格というのは、こういうときに災いするのだなと改めて思った。
「あ! これでしょ!!」
「ッ……!」
 みーつけた、と俺を振り返った穂澄の両手には、しっかりと『Mixture』と書かれたファイルケースが握られていたのだから。


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