「でも、気をつけてね?」
「何がだ?」
「だからー、私のもの。別に見られて困るようなものはないけど、せめてひとことは言ってほしいよね」
「……すまない。気をつける」
「なら、よし。ていうかさー、人の持ち物に手を出すときは、ひとこと詫びを入れなきゃダメだって教わらなかった?」
「…………何?」
 ぱたん、と音を立ててファイルを閉じた穂澄が、あった場所へ戻してから俺に向き直った。
 今しがた耳にした言葉は、聞き間違いではなかったはず。
 となると……いったいそのセリフは、どこの誰からのものなんだ。
「ちょっと待て。そんなこと、いったい誰に言われたんだ」
「え? 小学校のときの担任の先生だけど」
「何!? ……ろくでもない教師だな」
「えー!? とんでもない! ちょーかっこよくて、ちょー優しい先生だったんだからね!」
「っ……」
 とんでもない教師がいたものだなと思いきや、これまでとはまるで違う態度を見せられ、内心動揺する。
 ……ちょっと待て。
 たかが小学校の担任だろう?
 何もそんな勢いで否定することはないだろうに。
 いや、そもそもとして――……まさか、そこまで力いっぱい言い返されるなど思わなかったためか、かなり切ないものがあるのだが。
「あ。そういえばセンセって、リーチと同い年くらいかも。やっばい、だとしたら今って相当カッコよくなってるんじゃ――……ってか、なってたし! ちょー男っぽくて、ちょーかっこいいんだからね!!」
「なっ……んだと……?」
「だってだって!! こないだ会ったの! ってか、つい最近!! ……あ。あれは会ったって言わないのか。見かけた? みたいな」
「……どういうことだ」
「だからー、こないだ学校の帰りに見たの。ほら、早く帰れた日あったじゃん。あのとき、見たんだよねー」
 思いも寄らなかったセリフが聞こえ、眉が寄った。
 ……どころの話ではない。
 気が気でないとまでは言わないが、よもやそのようなことを言い出すなど誰が想像するものか。
 お前にとってその担任とやらは、いったいどんな存在なんだ。
 たかが担任じゃないのか?
 口ぶりを聞いていると、正直それ以上の感情でもあるのかと問いただしたくなる。
「あ。……もしかして、妬いちゃう?」
「っ……」
 くふふと笑ったのが目に入り、反応しそうになったのをごまかすように顔をそむける。
 だが、穂澄は抱きつくように腕を回すと、すぐに俺を見上げた。
「大丈夫だってば。私が好きなのは、里逸だけなんだから」
「それは……そうでないと困る」
「ん。だいじょぶ」
 視線を逸らしたまま小さく咳払いし、呼吸を整えたところで見下ろしながら手を伸ばす。
 柔らかい髪を梳くように指を通してから、改めて頭を撫でると穂澄がくすりと笑った。
 いつの間にか、穂澄がいつもよりずっと温かく感じられるほど、手が冷たくなっていたらしい。
 それに気づいたらしく、俺の手を取った穂澄が『冷たいなぁもう』と小さく笑った。

「んー……やばい、寝ちゃいそう」
 『年越しそば』と呼べるシロモノを家で食べるのは、いったいいつぶりだろうか。
 しかも、自家製の海老天とかきあげの添えられた、と付け加えるとしたら実家以来で違いない。
 『大晦日はそばを食べなきゃ来年がこないんだからね』などと言いながらともに夕食をとったときまではメイド服だった穂澄も、今は風呂上がりなこともあっていつものルームウェアに着替えている。
 ……まぁ、風呂に入る前なぜか『冬制服と夏制服どっちがいい?』などと理由が見つからない質問をされて焦りはしたのだが、何事もなかったのでよしとする。
「眠ければ寝ればいいだろう」
「えー、何その言い方。冷たーい」
「別にそんなつもりじゃないんだが……」
 テーブルに頭をもたげて俺を軽く睨んだ穂澄の目元には、うっすらと涙が浮かんでいる。
 先ほどから欠伸を繰り返していたからだとはわかるのだが、やはり涙を見ると焦りはするものなんだな。
 読んでいた本を閉じ、テーブルに置いてからテレビを見ると、他愛ないというか正直くだらないに類する番組が流れていた。
 が、先ほどから紅白歌合戦とこの番組とを交互に見ているあたり、どうしても見たい番組というわけではなさそうだ。
「……ねぇ。なんかこう、目が覚めるような話して」
「唐突だな……相変わらず」
「だって眠いんだもん」
 ぺたり、と俺にもたれながらあくびをし、目を閉じる。
 整った顔立ち。
 普段は大人びた印象を受けるものの、このように目を閉じているとまだまだ幼いようにも見える。
 まぁ……かわいいことに変わりはないんだが。
「……ちょっとぉ」
「ん?」
 改めて本に手を伸ばそうとしたところで、穂澄が俺を見上げているのに気づいた。
 唇を尖らせてはいるものの、まるでからかうときに見せるような表情で、眉が寄る。
 これはもう、自然な防衛反応といっても過言ではないかもしれない。
「っ……!」
「……んー、あったかい……」
「ほ、ずみ……」
 すり、と腰を通って姿勢を変えて抱きつかれ、思わず声がうわずる。
 もしかしたら、気づいた、のかもしれない。
 ……まあそうだろう。
 先ほどまでべったりと密着されていたんだ、何よりそこまで鈍い子じゃない。
「……したい?」
「っ……違う」
「うそつき。違わないでしょ? もー。……素直じゃないなぁ」
「ッ……よせ!」
 いたずらっぽい顔つきでぺろりと唇を舐めた表情は、先ほど『あどけなくてかわいい』などと思った相手と同一人物にはとてもじゃないが思えなかった。
 目の前――……いや、正確にいえば自分の足の間に潜っている彼女は、間違いなく“女”で。
 しかも、躊躇なく下腹部から手のひらを滑らそうとしているあたり、あからさまな意図を感じる。
「……ねぇ、里逸」
「…………なんだ」
 くるくると指先で髪を巻いた穂澄が、わずかに首をかしげた。
 その仕草だけでも喉が鳴りそうに――……いや。
 人というのは、やはり期待する生き物なんだな。
 どくん、と脈打ったのが穂澄にもわかったらしく、なぜか一層楽しげな顔を見せた。

「姫納めって言葉、あると思う?」

 きれいな形いい唇で笑った穂澄と少し前の彼女の像とがだぶって見え、妙に不思議な気持ちになった。


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