「……ったく」
 宮崎という人間は、心底からのん気というか……調子だけはいいんだな、と改めて思う。
 ある意味、感心。
 だがもちろん、呆れもする。
 国道を通って、ようやく見慣れた景色が並び始めた通り。
 だが、ここに辿り着くまでには、それなりの時間を要した。
 ……やはり、御殿場から高速1本で帰るルートを選択していれば、こんなことにはならなかったんじゃないのか……?
 今さら考えても仕方ないことながらも、未だ引きずってさえいる。
「………………」
 いつもと同じ場所へ車を停め、サイドを引いてエンジンを切る。
 音がない、ある意味田舎的な要素を備えてもいる、自宅アパート。
 ……そういえば、どうしてここを選んだのか。
 学校に近い場所ならばもう少し向こうでもよかったのに、少し遠回りをしなければいけないようなこの場所を、何かの拍子にふと見かけて。
 それが理由、だったか……?
 まぁ、駐車場も広いし家の間取りも悪くない。
 だが、それはあとになって気づいたこと。
 そもそもの第一印象は違うところにあったような気もするが……よく覚えていない。
 なんとなく、気づいたら引越し作業をしていて。
 そう多くない家具を業者の人間が運んでいるのを見て、『ああ、ここに住むんだよな』と改めて思いもした。
 別に、これまで住んでいた場所に何か不満があったワケでもない。
 近隣とのトラブルはもちろん皆無だったし、住みやすさで言えばここと同程度。
 ……なのに。
「………………」
 シートにもたれて窓から外を見ると、すぐそこに部屋のベランダが見えた。
 明るい色の外壁に、1階部分の目隠しになっている常緑樹。
 その、1番上でかつもっとも角に位置しているのが、我が家。
 当然ながら、未だ灯りは付いていない。
 ……そして。
「…………」
 顔を左へ向けると、そこにはシートへ思いきり身体を預けたまま眠っている宮崎がいた。
 自分でも、考えられないことだ。
 なぜ、一介の生徒である彼女が、俺の隣に座っているのか。
 ……いや、そもそもだな。
 どうして俺がコイツの隣にわざわざ越さねばならなかったのか。
 今思うと、巡り会わせなどというきれいな表現よりも、まるで何かの因縁めいて感じるから恐ろしい。
 ……そう。
 怖い、のだ。
 相手がこの、宮崎だということからすべてが始まっているから。
「…………」
 隣の住人。
 そしてかつ、自分の教え子。
 ひどくできが悪くて、ひどく反抗的で、いつも挑発的で。
 なのに――……なぜ今、一緒にいるのか。
 断固拒否すると誓った車に乗せ、ありえないと思っていたふたりきりの時間をすごし。
 こんなこと、あるはずなかった。
 だからこそ、怖いのだ。
 宮崎が、じゃない。
 ……責任は自分にある。
 怖いのは、よくわからない自分自身。
「………………」
 あたりはすでに日も落ち、街灯やアパートの灯りが目に入る。
 影の部分が色濃くなり、光を受けた面もまた昼とはまったく違う雰囲気。
 ……そう。
 それはもちろん、俺たちにも言えて。
 すぐ隣で規則正しい寝息を立てている宮崎自身も、やけに普段より大人びて見えた。
「………………」
 ごく。
 つい、喉が鳴りそうになって慌てて首を振る。
 何をしているとたずねられれば……何をしているんだろうな、俺は。
 口を手で押さえながら、まるで何かに怯えるかのような情けない態度を取っている今、本来ならば即座に宮崎を起こして部屋に帰らせるのが正解なのに。
 ……それが、なぜだ。
 どうして声をかけない。
 なぜ起こそうとしない。
 どころか――……まるで、この時間をどこか楽しんでいるかのように思っているなど、まさにありえないづくし。
 天敵だと思ってやまなかった彼女を、こんなふうにしげしげと見つめるなど『ありえない』ことでしかないのに。
「………………」
 短いスカートに、黒のオーバーニー。
 そして、胸元の開いた服。
 きれいにカールした毛先を辿るように、視線がその胸元へと動いて慌てて引き剥がす。
 だが、身体の力が抜いて眠っている様は、普段の強気な彼女とは違い、“女の子”そのものにも見えた。
「…………」
 身体のラインと、息づかいと。
 音のない空間のせいで、やけにはっきり感じ取れてしまう今、素直に勘弁してもらいたいと思う。
 ごくり、と喉が鳴りそうになって、そんな自分がどうかしてるとも思った。
 だが、一方では『仕方ない』と感じている自分もいて。
 とうとうおかしくなったか。
 はたまた、これも宮崎の影響か。
 よくはわからないが、なんにせよこのままふたりきりでここにいるのは、何よりもまずいだろう。
「……ぅ、ん……」
「ッ……!」
 だが、次の瞬間まるでこちらをすべて見透かしてでもいるかのように、宮崎が寝返りを打った。
 両手を重ねたまま頬とシートの間に置き、しっかりとその顔を正面から俺に見せつけるかのように。
 途端、これまでとはまったく違う雰囲気に、小さく喉が鳴る。
 と同時に、ついつい視線があちらこちらへと向かう。
 閉じられているまぶたであり、薄く開いている――艶のある唇であり。
 あまりにも無防備で、あまりにもあどけなくて。
 普段の彼女を知っているからこそ、なんとも言えない気分になる。
 まるで…………気を許しているかのような。
 俺に見せることのない、まさに“素”の部分を惜しげもなくさらけ出しているように見えて、少しだけ……喜んでいる自分もいる。
 ああ、こういう部分もあったのか、と観察すると同時に――……どこかで、そんな今だからこそと思っている自分も。
「………………」
 まつげ長いんだな、とか。
 ああ、それは化粧のせいか、とか。
 やっぱり寝顔は幼いんだな、とか。
 ……なんでこうも甘い匂いがするんだ、とか。
 俺とはまったく違う、すべて。
 顔も小さく、手も小さく、何もかもの造りが違う。
 どこもかしこも柔らかそうで、丸みを帯びた優しいライン。
 やっぱりコイツは……俺とは違う、女なんだよな、と。
 そう思いながら、まじまじ顔に見入ってしまう。
「…………」
「…………」
「…………」
「っ……!」
 あまりにも近づきすぎていたことに、今ごろになって気づいた。
 ……あ……危ない、だろう。いろいろな意味で。
 慌ててのけぞり、ばくばくと速まった鼓動を押さえるように胸へ手を当てると、自然に首が横へ振れた。
 ちょっと待て。
 もしも今、魅入ったことに気づかなければ……それこそ、とんでもないことをしでかしてなかったか?
 いやいやいや、待て。
 そんなはずはない。
 ありえない。
 ……そうだろう?
 なぜなら俺にとって宮崎その人は、天敵以外の何者でもないんだから。
 近づこうとか、理解しようとか、そんな思いはさらさらない。
 いや、『なかった』はずだ。
 なのに、最近の俺はやはりおかしくて。
 だが……それはすべて、宮崎本人にあまりにも近づきすぎたせいに違いない。
 間違いなく、余計な悪い部分までも伝染してしまっただけのこと。
「…………」
 違うんだ。
 俺はそんなつもりなかった。
 今までも。
 そして――……これからも。
「……宮崎」
 しばらくしてから声を絞り出すと、予想以上に掠れていた。
 当然だ。
 ここに帰りつくまでの間、ずっと喋ったりしなかったんだから。
「おい、宮崎。着いたぞ。起きろ」
 一瞬、肩に触れようかどうしようか躊躇した。
 ……だが、たかが肩。
 肌が剥き出しになっているワケでもなし、服の上からならなんら問題はないはず。
 まぁもっとも、コイツの場合はそれをも十分セクハラ呼ばわりするだろうが。
「………………」
「……ったく」
 待ってみても、返事がない。
 どころか、微動だにせず。
 ……コイツは、本気で手のかかる問題児だな。
 思わずため息をついてから眉を寄せると、そちらへ向いていた身体がシートへ戻った。

「……ありがと、センセ」

「っ……宮崎……!?」
 もう1度ため息をついたところで、静かな声が聞こえた。
 慌てて身体を起こし、そちらを向いて瞳が丸くなる。
 ……だが。
 今の今まで寝息を立てていたはずの宮崎自身は、欠伸ひとつすることなく身体を起こすとこちらを見た。
「てゆーか、期待してたのと違う」
「……何?」
「だって、全然怖くないんだもん。センセって」
 あーあ、と言いながら伸びをし、すとんとその腕を下ろす。
 今まではまっすぐ俺を見ていたのに、彼女の視線は今、フロントガラス越しの景色へ。

「優しくて、がっかり」

「……な……」
 ぽつり、とした囁きだった。
 呟くよりももっと息を含んだ、静かなもの。
 これまでの彼女からは聞いたこともないような喋り方で、思わず眉が寄る。
 だが、改めて声をかけようと口を開いた途端、そんな雰囲気は微塵も感じさせないような顔をしてから、ぱっと明るいテンションに戻った。
「安心してね。明日からもう、邪魔したりしないから」
「何? どういうこ……」

「ごめんね」

「な……!」
 やはり、宮崎は宮崎なのか。
 そう思った瞬間見せた、顔。
 俺に向けた眼差しは、やけに寂しげで。
 はかないような笑顔なのに今にも泣きそうで、だからこそ瞳が丸くなった。
「ッ……宮崎!」
 一瞬だった。
 こちらを見ずに車を降り、小走りでアパートへと向かった彼女。
 慌てて車から降りるが、呼べども返事はなく。
 響いてくるのは、階段を駆け上がる音だけ。
「…………どういう意味だ……」
 ごめんね。
 アイツらしくもない口調に、アイツらしからぬ言葉。
 その謝罪がいったい何に対するものなのか、まったく予想などできない。
「…………」
 階段を上がりきるときに見えた宮崎の、胸元がきらりと一瞬光った。
 街灯の光を受けて、だったのだろう。
 ……だが、錯覚でないことはわかっている。
 俺が贈ったことになるんだろうな。
 それがたとえ、あんな形であっても。
 俺とアイツを結びつける、たったひとつの証である……唯一の鎖。
「…………」
 なぜか、宮崎の最後の言葉が俺には違って聞こえた。

 『さよなら』

 まったく違う意味なのに、なぜか似ているように思えて仕方がない。
 そう感じたのを最後に、本当に宮崎とはその後ぷっつりと途絶えてしまうことになったが、このときの俺にはなぜあんなセリフだったのかなど、わかるはずもなかった。


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