「お天気よくて、よかったですね」
「ええ」
 佐々原さんと、かねてから約束をしていたのは、宮崎とアウトレットへ行った翌日だった。
 天候にも恵まれ、雰囲気も悪くない。
 普段とても混む道も渋滞知らずで、信号にもほとんど捕まらずに走ることができた。
 だからこそ本来ならば、対比ともいうべきか、かなり楽しいひとときになるはずだったのに、正直、自分のメンタル的な問題からか体調があまり優れない。
「……あの……」
「はい?」
「今日は、その……穂澄ちゃんは……」
 恐る恐るといった感じに、佐々原さんが顔を覗き込んで来た。
 ……だが、なぜかそんな彼女を見て少しだけ違和感を覚える。
「あの……高鷲さん……?」
「あ……いえ。アイツは今日、バイトなので」
「あ、そうなんですか?」
「ええ」
 すぐに、ほっとしたような声が聞こえた。
 当然だ。
 前回、2日続けてあんな手痛い仕打ちを受けたんだから。
 ……これで、アイツが本当の妹じゃないと知ったら、どうなるだろうな。
 まぁ、今さら問題になったところで、何がどう変わるでもないが。
「…………」
 あれから、まだ1日しか経っていないのに、宮崎の姿を見ていないことが少しだけ不思議に感じた。
 昨日の別れ際、宮崎のあの言葉を聞いたときはまだ半信半疑だった。
 そんなことを言いながらも朝になったらしっかり待ち伏せしているんじゃないか、とか。
 突然チャイムを押すんじゃないのか、とか。
 いろんなことを想像し、事実、様々な場所を確認した。
 車であり、家の前であり、そして……ベランダであり。
 あらゆる場所に足を運び、『なんちゃって』と舌を見せながら出てくる彼女をどこかで期待してもいた。
 ……あの宮崎が、あんなにも寂しそうな顔をするなんて、信じられなかった。
 それこそ、最後の宮崎の姿は夢だったのではと思うほどに。
「今日は、どこへ行きましょうか?」
「そうですね……せっかく天気もいいので――」
 ぴたり。
 運転しながら、ふと、目に飛び込んできたものを見て、言葉に詰まる。
 ……だめだな。
 いや、ある意味の反射とでも言えばいいのか。
「高鷲さん?」
「……少し……」
「え?」
「スタンドへ寄ってもいいですか?」
 そう言いながら俺は、彼女の返事も待たずにウィンカーを出していた。

「いらっしゃいませー」
 セルフのスタンドなのに、毎度毎度どうしてそうも愛想がいいんだ。
 1番端のレーンへ車を停め、佐々原さんに何も告げずそちらへと向かう。
「……ん?」
 歩みを止めた先には、窓拭き用のタオルを取り替えていたらしき、彼女の姿。
 相変わらず、華やかな私服とは違ってあまりにも不似合いな制服をまとっているが……無論、見間違うはずがない。
「宮崎。少し話が――」
「…………はー」
 だが、声をかけようとした途端、あからさまに肩を落としてから、それはそれは深いため息をついた。
「……あのねー」
「なんだ」
「もしかして馬鹿なの?」
「…………」
「…………」
「……何?」
「って、怒らないし」
 明らかに、げんなりとした顔をされるも、理由がわからない。
 だが、昨日とはまったく違う雰囲気だけに、内心どこかでほっとしてもいた。
「……あのね。なんで、もう邪魔しないって言ったのに、そっちから絡んでくるの?」
「いや、だから――」
「あーもー、ホントつまんなーい。びっくりしちゃう」
 ちらりと車を見た彼女が、そちらへ背を向けてから改めてため息をつく。
 ……そう。
 車での違和感は、とっくにわかっていた。
 宮崎と佐々原さんとの、座り方の違い。
 ……座り方、と言っていいのか。
 恐らくは、身長差というべきところだろうが。
「あのな、宮崎。どうしてもお前に聞き―」

「Stop goofing off」

「……な……」
 囁くように。
 そして――諭すかのように。
 小さく、だがきれいな発音で何も言えなくなる。
「私忙しいの」
「……宮崎……」
「悪いけど、あともつかえてるし。出てくれる?」
 平静を保ったままの顔だった。
 これまでとは、明らかに違う。
 ……まるで線を引いたような、そんなハッキリとした意思表示。
「穂澄ちゃーん」
「あ。はーいっ」
 何も言えず見下ろしていたら、呼ばれてすぐ宮崎は笑顔を見せた。
 俺にはまったく見せなかった、受容の顔。
 それが、やけに不条理に映る。
「…………」
「どうしたんですか?」
「いえ、すみません」
 心配そうな佐々原さんに何も告げないのは、ずるいだろうな。きっと。
 それでも、考えるのはどうしたって宮崎のことばかりだった。
 背を向けられてしまった以上、何を聞くこともできない。
 エンジンをかけて通りに戻る、そのとき。
 もう一度、宮崎を探すように視線を向けていたのに気づいた瞬間、自分がなんとも哀れだと思った。

 『ふざけないでよ』

 嘲笑とも、哀れみとも違う表情。
 アレはもしかしたら、怒りだったのかもしれない。
「…………」
 情けない、などという次元ではないのもわかっている。
 それでも、彼女のあのセリフで自分がみっともないことをした、と自覚してしまった。

「――……それでね、この前行ったお店なんですけれど。友達と改めて行ってみたんです」
「へぇ。どうでした? それで」
「それが、なかなかかわいいのがなくて……。すごく残念」
 かわいらしく笑う、いかにも育ちのよい女性の雰囲気が漂う佐々原さんを見つめ、薄っすらと笑みが浮かぶ。
 相槌を打ち、差し障りない言葉を返す。
 ……これまでの自分とは、少し違う。
 それがわかるから、余計になんとなく……ただ過ぎていくこの時間が空虚にも思えた。
「…………」
 ファミレスとは違う、落ち着いた雰囲気の店内。
 すでに時間は17時を迎えており、夕闇が忍び寄り始めていた。
 ……ここに辿り着くまでの間実は、彼女と何をどうして過ごしてきたのか、詳しく覚えていなかった。
 あそこに行った。ここに行った。
 場所はきちんと把握できているのだが――……会話。
 これまでずっと望んでいたはずの、佐々原さんとのふたりきりの会話のほとんどが、頭に残っていない。
 不甲斐ないというレベルよりも、ずっと醜悪。
 ただただオカシイとしか、表せないような今の自分。
 極めて劣悪で、恐ろしく無力で、それこそ自身を否定してしまいたくなる。
「あの……そろそろ、出ませんか?」
「え? ああ……そうですね」
 言われて気づいた。
 自分の前にあったカップには、もう何も残っていなかったことに。
 今自分は、何を食べた?
 何を飲んだ?
 ……どんな話をした?
 不安そうに俺を見つめてくる彼女に、少しだけ申し訳ないと思うが…………申し訳ない、か。
 俺にもそんな感情があったんだな。
 人を人と思い感じるような部分が、まだ生きていたとは。
 これもまた、意外だ。
「あ、あのっ……! いいんですか? ご馳走になってしまって……」
「もちろんですよ」
 重厚な造りのドアから外へ出ると、少し生暖かい風が頬に触れた。
 不愉快この上ない、ハッキリしないもの。
 どんなものに対しても、きっちり白黒ついていない曖昧なものは好きじゃない。
「すみません……お気を遣わせてしまって」
「いえ。お気になさらず」
 申し訳なさそうに頭を下げながら隣へ並んだ彼女を見て、やはりまた違和感があった。
 ……違和感、じゃないのはわかってる。
 単に、自分が勝手に彼女を比べているだけ。

 『え、ご馳走してくれるの? やったぁ、ありがとー! すんごいおいしかったねー。ご馳走さまー!』

 オーバーだからいい、というわけではない。
 そうじゃないんだが……ただ、わかりやすくて。
 表情と気持ちがきちんと合致して見えるから、気持ちよく感じた。
 曖昧じゃないストレートな表現が、やけに心地よかった。
「…………」
 佐々原さんにしてみれば、失礼極まりない話だろうな。
 それでも、つい無意識の内に比較してしまう。
 今のみならず、今までずっとその繰り返し。
 服屋に入ればまず感じ、隣を歩いてそれを思い、そして……会話をすれば、そこでもまた。
「…………」
 先日までは、あんなに嫌悪しか抱いていなかったのに、なぜか今ではきれいに逆転している。
 今隣にいるのは、求めていたはずの人なのに。
 申し分ないと、最初からわかっていた人なのに。
 学歴も、性格も、家柄も。
 何もかも、自分で最初に確認して把握していたからこそ、安心があったのに。
 それなのに……なぜだ?
 こうも、頑丈で落ちることは愚か欠けるはずもない石橋を渡ることに、拒否を示しているのは。
 違う、と思っているのは。
 ……否定しているのは。
「…………」
 見えてこない、からだろうか。
 繕われ、計算づくめられた表面にまみれて、その内がまったく明らかにならないから……だろうか。
 喋り方も、気の遣い方も。
 何もかもが、申し分のないパーフェクトだと言える人。
 ……なのに、なぜか。
 そんな人だからこそ、何を考え何を望んでいるかがまったく見えてこない。
 予想することもできない。
 …………わからない、のだ。
 つい昨日までは、見れば明らかに何を考え何を思っているかが手に取るまでもなくよくわかった人間が、そばにいたから。
 隠しごとのできない、いつでも真正面からぶつかってくる馬鹿正直な人間を、知っているから。
「……あの……高鷲さん」
「え?」
 車のロックを開けてから運転席に乗り込み、キーを差し込む。
 すると、その途端――左手に、熱を感じた。
「佐々原さん?」
 見れば、俯きながら彼女が両手を俺の左手へ重ねていた。
 眼差しに、今まではまったく感じなかった“女”の部分が見え隠れしているようにも感じる。
「私……今日は、平気なんですよ……?」
「……平気……とは?」

「このまま、連れて帰ってください」

 強引、というのはこういうときに遣うのが正解なのかもしれない。
 人の考えを無視し、自分を押し付けること。
 そしてそれを……正しいと信じてしまっているのだから。
「……お願い……」
 きゅ、と手を握られ、何も言えなかった。
 潤んだ瞳。
 そして、しどけなく開いた唇。
 ……本来は、これを望んでいたんじゃないのか?
 きれいごとを言って誠実ぶってみたところで、誰にでもある欲求を満たしたいと思っていたんじゃないのか?
 ずっと。
 それこそもう、ずっと――……この何十年という年月の間。
「………………」
 彼女の手へそっと右手を伸ばし、指先で触れる。
 途端、嬉しそうな顔を見せられ、余計に、今考えていたことが強く大きくなった。

 重なるものがひとつもない。

 ここにきて実感したこと。
 そのせいで、結果として衝動的に動くはめになった。


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