手遅れ、という言葉がある。
 だが、人生においてそんな言葉はまったく意味をなさない。
 何度でもやり直しがきき、何度でも方向修正ができる。可能である。
 それが、俺が抱いている『人生』というモノの定義だ。
 それはこれまでも、どんなときであろうとすべてに通用したし、今でもそう信じている。
 ……まぁもっとも、俺が修正しなければいけないような回り道をしたことはないが。
 ただ、もしかしたらそれがよくなかったのかもしれない。
 回れ道をしたことがなかった。
 いつでもまっすぐストレートで、余計な障害は何もなかった。
 そんな、平坦かつ安全な道筋。
 自分の手であらかじめ危険なモノを排除するように生きていた今になって、そのツケがまわってきたのかもしれない。
「…………」
 普段と同じ、授業中。
 なのになぜか、普段聞こえるような喋り声は一切なく、代わりに凛としたひとりの声だけが延々と続いていた。
 ふと視線を向ければ、誰もかれもが1点を見つめていて。
 中には、ひそひそとした声で『どうしたの?』とか『何があったの?』なんて不安そうな顔をしている者もいた。
 そっけない、と言えばまだいいほうだ。
 ……だが、これを手遅れだと言わずしてなんと言えばいい。
 家にもこず、授業も真面目に受け、一切の妨害をしない。
 イコール呼び出しも当然ないからこそ、個人的に触れる時間は皆無になった。
 それこそ、まるで人が変わったかのように。
 よく通るきれいな発音で長文を読み進めている宮崎は、まっすぐ俺の前に立っていた。
「以上ですけど」
「……あ、ああ。そうだな。……そこまででいい」
 見とれていたわけじゃない。
 ただ、焦っていただけ。
 不安になっていただけ。

 見えなかった、から。

 ここ数日はもちろん、これまでの2年間もずっと見えていたものがすべて、今はまったく見えなくなっていた。
「……では、訳を。葉山」
「はい」
 俺を見ずに席へ着いた宮崎。
 しばらく見つめたままでいたものの、視線が合うことはなかった。
 普段、広げていることも少なかった教科書が、今はきちんと正しいページで開いている。
 ……変わった、のか。
 はたまた、戻ったのか。
 どちらとも取れる彼女の態度を見ながらも、俺には何をどうすることもできなかった。

「ちょっとー。何それー」
 その日の放課後。
 すでに生徒らが下校し終えたのを見計らって、校内を見回っていたときのこと。
 ふと、図書室への近道である階段の踊り場付近で、久しぶりに聞くような錯覚を覚える声が聞こえた。
 明るい、突き抜けるような声。
 けらけらと笑いながら、じゃれているような。
 そんな、少し前まで自分に向けられてもいた……宮崎の声だ。
「…………」
 何も反応ができず、足が止まる。
 つい、聞き耳を立てるかのようなみっともないことをしそうになる。
 ……だが、姿を見せるわけにはいかない。
 そして、見られるわけにも。
 俺を見た途端、宮崎は態度を一変させるに決まってる。
 逃げられるのが、怖い。
 そんな、少し前までは絶対に考えなかったようなことを思っている今は、すっかり別人の気分だ。

「俺さ、宮崎のこと結構好きなんだよね」

「っ……」
 壁にもたれたままでいたら、とんでもないことが聞こえた。
 予想してなかった展開で、瞳が丸くなると同時に思わず息を潜める。
「ったくもー。何言ってんのよ。今度は私?」
「えー、いーじゃん別に。ほら、アイツとはさー、もう別れたんだし」
 相手の男の声は、聞き覚えがある。
 宮崎とは違うクラスながらも、いわゆる問題児呼ばわりされることのある生徒。
 そういえば以前、ある女生徒と騒ぎを起こしたこともあったような……。
「…………」
 今度は、宮崎が……?
 嫌な想像をしてしまい、心がざわつく。
 そう思った途端、一歩踏み出そうとした自分もいた。

「悪いけど私、ほかの女に使い古された男はいらないの」

「えー、なんだよそれー」
「でも、私がそーゆー考えだってこと、知ってるでしょ?」
 まるで、表情が目に浮かぶかのような声だった。
 にっこりときれいな笑みを浮かべ、わずかに首をかしげる。
 それはまるで、『知らないはずないよね?』とでも言わんばかりのあの顔だ。
 ……そう。
 俺が宮崎を女だと意識したのは、そういう顔を見たからだったと思う。
「何人女を抱こうとそれは勝手だけど、それは自慢じゃないのよ。恥さらしてどうするの? だいたい、その内何人の女が満足したワケ?」
「……いやー、それは……」
「満足させられないから、何十人もの女にフラれたんでしょ?」
 呆れた、と小さく付け足しながらも、その口調はあっけらかんとしすぎていて嫌味じゃなかった。
 元々、あの生徒とも顔見知りなんだろう。
 宮崎はいつでも、男女問わず友人に対してはざっくばらんな言葉遣い。
 態度もそう。
 言葉選びもそう。
 何もかも、宮崎は決して男女だからとか異年齢だからなどという理由では、人を区別しなかった。
「私は、私色だけに染めたいの。ほら、元々男っぽいトコあるしね」
「……あー。それはあるかもねー」
「でしょ? 私がいなきゃダメだって言わせたいのよね。私だけしかいらない、って……私のことしか見えなくなっちゃうような、そんなカレシが欲しいの」
 とんでもないことを聞いた……というよりは突きつけられたような。
 盗み聞きという立場だからこそ、余計にそう感じる。
 ……宮崎の、抱いている像。
 それは果たして、俺にとって――どう左右するのか。
「………………」
 ごくりと自然に鳴った喉音が聞こえてしまわないように、口元へ手の甲を当てながら、ふとそんなことを考えている自分もいた。

「………………」
 遅々とした時間が過ぎてくれたお陰で、待ち望んだ終業時間になった。
 どうにもこうにも仕事に身が入らず、放課後の時間がやけに苦痛だった。
 すでに日は落ち、挙句の果てに雨が降り始めている。
 ……とはいえ。
 傘は常に置いてあるし、帰宅も車。
 だからこそ、雨が降ろうと雷が鳴ろうとそう困る身分ではない。
「…………」
 車に乗り込み、エンジンをかける。
 だが、ライトとワイパーを作動させると、自分が感じていた以上に雨が強くなっていたことがわかった。
 家までの道は、そこまで混雑しない。
 ただ、雨のときとなると……話が別だ。
 なぜかしらないが、駅通りでないにもかかわらず、雨のときだけは車の量が多かった。
 そしてまた、今も例外ではなく。
 いくつも前に続くテールランプを見ながら、思わず窓枠へ頬杖をついていた。
 ……あのとき。
 結局、宮崎とは顔を合わせることなく、あちらが先に離れていった。
 あとに残ったのは、なんとも言えない感情。
 だからこそ、タチが悪い。
 別に、心配だとか不安だとか、そんな軽薄な感情を抱いたつもりはないのだが、だからと言ってそれじゃあなんともないのかと言われると、正直断言はできない。
 ……もしも。
 もしもあのとき、宮崎とあの場所で鉢合せしてしまったら。
 そして……もしも宮崎がアイツの気持ちをすんなり受け入れてしまっていたら。
 そのとき俺は、いったいどんな行動を取ったのか。
 想像すらできども、リアルさは皆無。
 ……当然だ。
 そんなこと考えられるような時間じゃなかった。
 ただただ、ほかに何も考えられなくて。
 不安で、落ち着かなくて。
 結局、行動ひとつ取ることはできなかった。
「…………」
 ゆっくりと流れ始める車列。
 先ほどよりも一層強く雨がフロントガラスに当たり、大きな粒が水の塊となって砕ける。
 ……夜の雨は久しぶりだな。
 ぼんやりとそんなことを考えながらふと視線を歩道へ向けると、そこにあるはずのない光景が目に入り、思わず喉が鳴った。


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