ずっと、雨が降っていた。
これは少なくとも、俺が学校を出る前から降っていたのだから、急に降り始めたものではない。
……なのに、だ。
どうして今そこに、傘も差さずに走る宮崎がいるのか。
「っ……な……」
びしょ濡れであることなど、ひと目見ればわかる。
すっかり日も落ち、街灯と車のヘッドライトだけが唯一の光源。
だが、だからこそわかる。
見える。
頭の上にかざした手が、少なくとも今の状況ではなんの役にも立っていないと。
「何して……!」
すぐに車が彼女を追い越し、バックミラーでしか姿を捉えることができなくなった。
だが、見つけてしまった以上見過ごすことはできない。
少なくとも、こんな状況下。
間違いなく、好んで濡れているわけではないだろうからこそ慌てる。
どうすればいい?
何ができる?
そもそも――……なぜ今、こんな場所にいる?
あれこれと疑問ばかりが頭に溢れ、どくどくと鼓動が早くなる。
……だが。
今、できることと、やるべきこと。
それを考えるまでもなく、行動に出ようとしていた。
俺らしくないのは、承知の上。
……というか、これまでの自分ならば絶対にやるはずなかっただろう。
面倒なことには関わりたくないというのが絶対だったし、だからこそ問題など起こす人間は愚かだとどこかで思っていた。
なぜ排除できないんだ、と。
厄介ごとを持ち込まれそうになれば寸前でそれを斬り捨て、それでも尚降りかかりそうになれば、到達の前に薙げばいいものを、と。
手を出さなければ、首を突っ込まなければ、関心を向けなければ……それですべて済むのに。
それなのに、なぜ? と。
「……っ……」
だが今になって、わかった気がする。
問題を見て見ぬふりができず、自分のことのように背負ってしまう人間のことを。
……結局、頭で考えてないだけなんだ。
考える前に動いてしまう。
簡単なことだ。
どいつもこいつもが、今の自分と同じように馬鹿な人間なんだ。
いわゆる、手が先に出るタイプ。
……はたしてその末路は、正解か不正解か。
それは俺にもわからない。
何もかもが未経験なせいで、果てしなく未知数だから。
「っ……」
ハザードを焚いて道の端に寄り、窓を開ける。
途端に雨が入り、シートまで飛沫が飛んだ。
「宮崎!!」
「っ……え……」
ベルトを外して助手席のシートに腕を置き、精一杯身を乗り出す。
頼むから、気付け。
そんな思いからか、普段より大きく彼女を呼んでいた。
「えっ……せ……んせ……?」
「何してるんだ! こんなところで!」
「や、あの……バス降りたら、すごい雨降ってて……」
足を止めた途端、当然のように彼女へ雨が強く降り注いだ。
冷たくて不快。
なのに彼女は、そんな中でも『びっくりしたー』なんてのんきなことを言いながら、かすかに苦笑を浮かべた。
「乗れ!!」
「……っ……え……」
「どうせ同じ場所に帰るんだろう? 送ってやる。だから、乗るんだ!」
驚いたのは、彼女だけじゃない。
だが、自身の驚きはどちらかと言えば“納得”でもあって。
……そう言うのが正解なんだろう。
世間の価値観ではなく、俺自身の中での価値観としては間違いなく。
「で、でもっ! あの、ほら……だって私、こんなびしょびしょで……!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう!!」
鞄を頭の上にかざしたところで、雨をしのげるはずがない。
反射的に、してしまっただけ。
それがわかるからこそ、苛立ちがつのる。
「それに! シートだって濡れちゃうし……!」
「宮崎!!」
「ッ……」
「早く乗れ!! そんなことはどうでもいい!!」
普段の彼女とは、正反対。
自分じゃ判断しかねるといった困惑の表情と、素振り。
それが、彼女らしくないからこそ腹が立った。
普段ならまず、迷惑だのなんだのということは考えもしないのに。
なのにどうして、いざというときに相手を優先する?
普段、ろくな口の利き方もせず、顔を合わせればいつだって挑発的な態度ばかりで。
折り合いをつけるなど、一度だって考えられなかったような関係なのに。
なのに、どうして――こんなときになって俺を気遣うんだ。
「……っ……」
きゅ、と唇を噛んだ彼女が、ようやくこちらに近づいた。
精一杯腕を伸ばして内側からドアを開けてやり、反対に窓を閉める。
お互い、何も言わず。
ただ彼女が乗り込んだのを見てから、車を車線に戻すしかできなかった。
「……ごめん、なさい」
「どうして謝る」
「だって……シートとか、びしょびしょになっちゃったし……」
鞄を抱きかかえ、俯いたままの宮崎とともに、部屋の前までようやく辿り着いた。
歩くたび濡れた靴の音が響き、なんとも痛ましい。
真正面から見れず、横目で捉えただけでも状況は十分把握できた。
シャツは肌に張り付き、普段自慢していた髪もその先から滴がとめどなく伝い落ち。
……弱々しい、としか言えないな。
そんな雰囲気を感じとったのは、これが初めて。
だからこそ、一層彼女が小さく見えた。
「別に、車はどうにでもなるだろう」
「けど……っ」
「濡れたままでいると、肺炎にまでなりかねないんだぞ」
「……それは……」
普段と違って、ずいぶんと口数は少ない。
覇気もなく、どこか沈んでいるようにも思える。
……まぁもっとも、沈むのは当然だ。
こんなふうに、全身びしょ濡れになることなどそうそうないだろうから。
「早く風呂にでも入れ」
「…………」
自宅の鍵を開け、ドアノブに手をかける。
――……が。
なぜか宮崎自身は、その場から動こうとしなかった。
「……どうした?」
「あの……さ。えっと……その……」
鞄を抱えたまま、こちらの反応を伺うように上目遣いで見上げ……言おうか言うまいかとばかりに唇を結ぶ。
「なんだ?」
「あの……ごめん、お風呂貸してくれない?」
「……何?」
意外にも……いや。
彼女から聞かされた言葉は、自分の予想と真逆のある意味とんでもない言葉だった。
「……えと、実はさ……ガス代、まだ払ってないんだよね」
「………………」
「………………」
「ッ何!?」
「えへへ」
えへ、じゃないだろう! えへ、じゃ!!
誰も褒めてなどいないし、むしろ驚愕以外の何ものでもないだろうが!
なのに宮崎は、そんなびしょ濡れの格好のまま、首をかしげてかわいらしく微笑んだ。
「なっ……おま……なんだと!? この前払いに行ったんじゃないのか!」
「やー、それがさー。いろいろあって、結局行ってないんだよね」
「ば……馬鹿かお前は!!」
「あ、ひどーい。馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだからね」
「そういう問題じゃないだろう!!」
ああもう、ああもう……本当にこいつは……!
くらりと眩暈と同時に頭痛がして、ため息が漏れる。
……馬鹿なのか、お前は。
というかそもそも、それじゃあ今日までの間いったい風呂はどうしていたんだ。
「…………」
「……あ。なんかすんごい馬鹿にしてない? 私のこと」
「呆れているんだ」
「あー……なんだ。そっちか」
そっちか、じゃないだろう。
そもそも、どうしてそんなにお前はテンションが高いんだ。
どうして平気でいられるんだ。
公共料金の滞納なんて……まずありえない話だろうに。
……やはりここは、肩代わりでもして払いに行かせたほうがいいんだろうか。
いやしかし、そんなことをしたら間違いなく次もねだられかねない。
人間、1度されたことに対しては次も、と期待するからな……。
それはそれでマズい。
しかし、生徒が滞納してると知った上でそれを見すごすのも、なんだか違反しているような……。
「……ん?」
などと、腕を組みながらあれこれ考え込んでいたら。
目の前にいたはずの宮崎の姿が、きれいさっぱりなくなっていた。
「…………どういうことだ?」
自然に寄る、眉。
……だが、待て。
彼女の痕跡というか……彼女自身とでもいうべきか。
追跡可能な濡れた靴跡が、点々と一方向へ続いているのに気付いた。
…………って、どういうことだ。
どうして、迷うことなくそれが俺の部屋に向かっている。
ゆっくりと辿るように行き着いた先。
……だがしかし。
それ以外に、彼女が消える場所など考えられなくて。
そういえばさっき――……俺は鍵を開けた、んじゃなかったか……?
「…………ッ……!!」
部屋の中から聞こえてきた明るい声で我に返り、ノブを引っ掴むようにして中へ飛び込む。
「宮崎!!」
同時に、大きく声をあげる。
――が、しかし。
「あ、ちょうどよかった」
「何!?」
「お風呂、貸してね」
「なっ……!」
「あー、冷たかったぁ」
目が合った途端、ぺろっと舌先を見せながら笑われて、思わず身体から力が抜けると同時に……どっと疲れがのしかかってきたのを感じた。
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