「………………」
しとしとというよりは、もっと強く降り続いている雨。
そんな中、自分の部屋にもかかわらず、なんだか妙に居心地が悪い。
灯りはついている。
もちろん、テレビもつけた。
……が。
こんなときに落ち着いてニュースを見ながら分析なんてできるはずもなく、ただただ座椅子にもたれて時間が過ぎるのを待つばかり。
情けない話だが、ものすごく緊張している。
……なぜだ。
この部屋の主は、俺なのに。
なのにどうして、こうも気を遣う必要がある?
「……はー」
頭にもう一度手をやるも、軽い混乱を起こした頭はそう簡単に戻りそうにない。
わかってるんだ。
少なくとも理屈じゃない。
今この状況は、いくら考えたところで好転などありえないんだから。
……だからこそ、困ってるんじゃないか。
どうにもこうにも、自分の身の置き方がわからなくて。
「あー……さっぱりしたぁ」
「ッ……」
突然、ガラっという音とともに大きな明るい声がした。
見ずともわかる、声の主。
普段のこの時間ならば、俺以外にここにいる人間などありえなかったのに。
なのにどうして、こうも立て続けに起きてしまうんだ。
「はー。ありがとー、センセ」
「あのな、おま…………」
「ん?」
ため息をついてから、説教のひとつでもと思った。
一喝して、教師たるものの威厳を見せつけてやらなければ、と。
……だが、しかし。
顔をそちらへ向けた途端、身体が強張る。
ついでに、思考も何もかも。
「っ……宮崎!! なんだその格好は!!」
「えー? だって、着替えないんだもん。だから借りちゃった」
「借りちゃった、で済まないだろうが!! なっ……何を勝手に人の……!!」
「だよねー。ちょっと、おっきくて」
「そういう問題じゃない!!」
びしっと差した指も、心なしか動揺のせいで震えていた。
先ほどまでの宮崎の格好も、当然動揺はした。
濡れて肌に張りつくシャツのせいで、身体のラインが直接目に入ったせい。
……それだけじゃない。
下着の色も形も、すべてがばっちりと透けていて、普段なんかの比ではなくまさに見えてしまっていたから。
だがしかし!!
それはそれで問題だとはいえ、さらに問題だと思うのは今この状況だ。
宮崎が着ているのは、間違いなく今朝自分が脱いだTシャツそのもの。
それこそ洗濯せずにカゴへ放ったままの、まさに洗濯物で。
……しかも!
その下は…………だな。
…………。
ひとことで言ってしまうと、もう、正視することなど不可能な格好だった。
「おまっ……ちょ、ちょっと待て!! 動くな!!」
「えー。なんで?」
「なんでじゃないだろうが!!」
普段ですら、短いスカートを穿いているからまぁ……足くらい見慣れてはいる。
だが!
そうは言っても、穿いているからそれなりに耐えられるというだけ。
それがもはや今のように……こんなにもあからさまで露わな格好のまま男の前に立つなど、問題外だ。
というか、普通ならありえないだろう!
こんなふうに、Tシャツ1枚で平気で立ち歩くなどということは。
「ほら!!」
「あ。貸してくれるの? やった、ありがとー」
「いいから穿いてこい!!」
慌てて立ち上がり、引き出しからショートパンツを放る。
すると、それはそれは嬉しそうに笑いながら、くるりとこちらに背を向けて洗面所へと向かって行った。
……そのとき。
ひらりとTシャツの裾がめくれそうになったのを見てしまい、慌てて視線を逸らしていた。
「……うー。コレもおっきーんだけど」
「文句を言うんじゃない」
「……むー……」
再びリビングに現れたときの宮崎は、まぁ、見るに耐えられるような格好はしていた。
とはいえ、先ほどに比べればというだけの話で、平時ならばありえないような格好であることに変わりはない。
そもそも、だな。
人の服を平気で着られるというのが俺には理解できないんだが。
……しかも、未洗濯のうえ男物だぞ?
ありえない。
やはり宮崎は、変わっているな。
「っ……何か飲むか?」
「え。いいの? じゃあ、そうだなー。んー……あ、ホットミルクがいい」
「…………」
「え? 何?」
「いや……意外だな、と思っただけだ」
「……何よ」
「別に」
隣へなんの躊躇もなく座られ、慌ててこちらが立ちあがる。
普段なら、自分からわざわざ何か飲むかなど聞いたりしないが、今は別問題。
キッチンへ逃げられるというのは、十分すぎる口実だ。
「ねぇ、さすがに練乳はないよね?」
「……練乳って……苺とかにかける、あれか?」
「うん」
「ない」
「……だよね」
何を言い出すのかと思いきや、とんでもないリクエストが飛んで来た。
レンジへマグカップを入れながら即切り捨て、一緒に首も横に振る。
すると、小さく苦笑が聞こえた。
「私、好きなんだー」
「……何がだ」
「だから、練乳ミルク。おいしいんだよ? 甘くて」
お前、練乳も元々はミルクだとわかって言ってるんだろうな。
同じ単語がダブっているのが気になって、思わず眉が寄る。
「ほら」
「わーい。ありがとーございまーす」
ようやく温まったミルクを手にリビングへ戻ると、まるで子猫みたいに目をきらきらさせながら俺の手元を見つめた。
……子どもなのか、コイツは。
両手でそっとマグを包みながら嬉しそうに笑うのが見えて、内心おかしくなる。
「……ねぇ」
「ん?」
両手でマグを持ったままの彼女が、こちらを見つめた。
視線だけでも十分に、何かを問うているような。
……そんな、普段とは少しだけ違う眼差しで。
「今……何も下に着けてないって言ったらどうする?」
「……何?」
「ドキドキする?」
何を言い出すんだ、と頭ではそう思う。
……だがしかし。
うかがうように上目遣いで俺を見る宮崎を見たまま、小さく喉が動いた。
その、顔。
試すかのような……だが、どこか不安げで。
そして、素振りもそうだ。
Tシャツの裾を引っ張るようにしていた手を、ズボンのあわせに置く。
「…………」
「…………」
何も言わず、ただただ腹の探りあい。
そんな時間が、なんとも長くて妙にしんどい。
……確かに。
確かに、考えられなくはないことだ。
あれだけ濡れたんだ。
彼女は着替えもせずに家へ来たのだから、下着だって……持ち合わせているわけがないだろう。
「…………」
ごくり、と喉が鳴る。
耳に痛い静寂が苦しくて、やけに重たい。
黙ったまま俺を見つめている、宮崎。
その視線はいつもより熱っぽくて、きゅ、と結ばれている唇すらも、やけに色っぽく見える。
表情。
その、どこか儚げな眼差しが意味するものは……いったい、なんだ。
少しだけ赤くなっているような頬を見つめたままでいたせいか、相当自分が焦っているのに気付いた。
嘘、かもしれない。
だが、嘘じゃないかもしれない。
いや、むしろこの状況で考えれば、嘘じゃない確率のほうが高いだろう。
……しかし、だ。
なぜそんなことを敢えて宮崎が口にした?
黙っていればわからなかったことだし、敢えて口にすることで、何か得られることがあるでもないだろうに。
デメリットばかりが、目立つのに。
なのに――……どうして?
「…………ホント」
「え……」
「ウソじゃ……ないよ?」
マグカップを置いた彼女が、両手を交差させるように腕を抱いた。
それはまるで、胸元をちょうど隠しているようにも見えて。
……う……そだろ?
冗談だよな……?
何か……そう。
俺をからかってるだけだよな?
いつものように、楽しんでるだけだよな?
でなければ、こんなふうにする理由がわからない。
なぜ、俺にそんなことを告げたのか。
白状してしまえば自分が絶対的に不利になるなど、わかりきっているはずなのに。
「………………」
そう思ったら、ふと小さな笑いが漏れた。
視線を彼女から外し、軽く首も振る。
「……まさか」
「え……?」
「またどうせ、いつもの冗談なんだろう?」
行き着いた結論は、それだった。
……いや。
意地でも、そう思いたかった。
実際はどちらでもいいんだ。
それよりも俺はただ、今のこの状況をなんとか脱したかった。
彼女が何を求めてるのかも、わからない。
正解がどうなのかもまったく予測できない状態。
……それが、怖い。
先がまったく見えないから、不安ばかりが大きくて。
「………………」
「……? 宮崎?」
微かに、声が掠れたのがわかった。
だが、すっくと立ち上がった彼女は、これまでの態度を一変させて。
むっとしたような顔で身体ごとこちらへ向き直ると、両手をぎゅっと握り締めて下ろした。
「……確かめてみる?」
「何……?」
「ウソかどうか、教えてあげるわよ」
そのとき、ここからでもちゃんとわかるほど彼女の身体は震えていたのに。
……なのに、その意味に気付けなかったのは……間違いなく、俺の落ち度だ。
「っ……! 宮崎! 待て!!」
「うるさい!!」
躊躇なくこちらへ一歩踏み出したのを見て、慌てて両手を制止させるかのように突き出す。
……だが、遅かった。
勢いと決意のあった彼女にとって、そんなものは障害でもなんでもなかった。
「ッ……!」
「……これでもまだ、ウソだって思う?」
耳のすぐ近くで声が聞こえた。
どくどくと早鐘のように鼓動が打ちつけ、ひどく息苦しさを覚える。
べったりと身体に回された、細い両腕。
薄い布越しに感じる彼女の体温が、やけにダイレクトに身体へ響く。
「……み……やざき……」
ぽつりと口にしたその言葉も、自分では何を言っているのかよくわからなかった。
明らかに感じる、それ以外であるはずがない、胸だと主張してくる柔らかくて弾力のある感触。
……それだけじゃない。
ちょうど、俺のふとももをまたぐように抱きついてきた彼女だからこそ、先ほどの彼女の言葉が鮮明に蘇り、意識してしまえば感じる熱っぽい湿り気。
それが何を示しているのか危うく想像してしまいそうになり、喉を鳴らしていた。
『何も着けてない』
本当かどうかなんて、こうされてしまえばあっさりと答えが出ている。
感覚ほど、確かなモノはない。
言葉で言うより、感じたほうがよっぽど正確で、てっとり早くもある。
「………………」
「………………」
聞こえるのはただ、互いの鼓動と吐息だけ。
テレビも灯りも煌々とついているはずなのに、意識の中には入ってこない。
先ほどまでの彼女とは違い、今はとても温かで。
鼻先で香る甘い香りが、余計鼻につく。
俺と同じはずのシャンプーなのに、なぜこうも違って感じるのか。
「……は……」
短く息を吸うのが精一杯。
常に彼女の吐息が首筋にかかり、一瞬、くらりと脳髄が痺れるような感覚に陥りかけた。
「ッ……!」
――だが。
「……な……んで……」
「…………」
俯いたまま彼女の両肩に手を置き、身体を離す。
……違う、だろう。
そんなんじゃない。
別に俺は、お前にそうしてほしかったわけじゃないんだ。
俯いたのは、まっすぐになんて顔を見れるハズなかったから。
……理由はそれ。
単に俺は、怖かったんだ。
明らかに挑発している宮崎と、揺れ動いている危うすぎる自分が。
自分は男なんだ。
そう自覚してしまったら、終わりだと思った。
これまでも。
……そして、間違いなくこれからも。
「大人をからかうんじゃない……!」
必死に考えるまでもなく、咄嗟に出た言葉がそれだった。
……情けない話だ。
都合のいいときだけ、“大人”を口にするなんて。
普段の態度を言われたら、何も反論なんてできないのに。
なのに俺は、そういうずるさだけを学んでいたらしい。
「……何よそれ……っ……都合いいときばっかり……!」
声が、違った。
まるで……そう。
裏切られたような、悲しみを背負っているかのような。
「だから大人は卑怯なのよ! ッ……汚いのよ!! うちらのやってること、何ひとつ否定なんかできないクセに……!」
「っ……宮崎……」
「体裁のイイ言葉遣って逃げてばっかりで、ズルいのはどっちよ!!」
ぎゅっと握り締めたせいで爪が食い込んだ彼女の手が目に入り、痛々しさから眉が寄った。
――だが、もう遅いんだ。
俺は間違いなく、彼女にとっての“あってはならない領域”に踏み込んだ。
「最低っ……!」
「っ……」
何もわかってないクセに。
最後に顔を見たとき。
ものすごく傷ついていて……半泣きだった彼女にやっと気付いた。
バタバタと玄関へ向かった音は、俺から遠ざかるためのモノ。
すぐに強く閉まったドアの音は、間違いなく……拒絶そのもの。
「………………」
愕然、とか。
呆然、とか。
こういうときこそ、人は本当に無力なんだな。
……何もできなかった。
したのはただ、彼女を思いきり傷つけただけ。
裏切った――……それだけだ。
「…………」
だが。
もしもあのとき、自分が考えられない自分になっていたら。
間違いなく宮崎を、もっと深く傷つけるハメになっていたであろうことは、十分によくわかっている。
だから、よかったんだ。
……これで。
こうして彼女と離れたことで、少なくともあの子にとっては正解だったんだ。
「は……」
…………そう思うしか、ないじゃないか。
壁に背をつけてから頭をもたげると、ぶつかって鈍い痛みが一瞬走る。
だが、これでちょうどいいだろう。
いろいろなものから目を覚まし、実感するためには必要だ。
今の宮崎はただ、裏切られたと言うだけだろう。
だが、しばらくすれば『よかった』と思えるようになるはずだ。
……少なくとも、あの子ならば。
一介の教師である俺なんかに汚されずに済んでよかったんだ……と。
頭のいい子だから。
すぐ近くにあるであろう正解のためには、精神的なものだけで済んで助かった、と。
そう……思ってくれればそれが1番なんだ。
俺がしたことは、間違ってない。
逆を選べば、もっとあの子を不幸にしていた。
「…………」
所詮は、きれいごとでしかない。
だが、それでもやはり浮かんでくる。
……いつだってそうだ。
俺は結局、なんだかんだ言っても自分のことしか考えてないんだから。
傷つくのは御免だ。
傷つけて、その恨みを買うのも御免だ。
……だから、いつでも平穏がいい。
つまらないと言われようがなんだろうが、それはすべて自分で決めたこと。
「……最低、か」
そうだな、まさにその通りだ。
瞳を閉じると同時に薄い自嘲が浮かんで、またすぐに消えた。
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