色のない長い日々が始まって……早くも1週間が経とうとしていた。 授業中、これまでも合うことなどほとんどなかった視線だが、今ではまさに皆無。 冷たくて、鋭い目つきをしているときしか見ないようになった。 ……それでも、目が合えばいいほう。 大抵は、明らかに避けるように視線は逸らされているから。 「えー。やだもー、なんですかそれー」 そんなときだった。 職員室でほかの教師に対し、彼女が笑顔を向けているのを見かけたのは。 少し前までは、自分にもされていた行為。 それこそ、“宮崎穂澄”ならば当たり前の姿だろう。 ……なのに、今ではそんな姿のほうがよっぽど偽りめいて見えた。 「それじゃ、失礼しまーす」 にっこり笑って短いスカートを翻した彼女が、出入り口へと向かった。 「っ……宮崎!」 引き止めるつもりなんてなかったし、むしろ……できないはずだったのに。 なぜか、その背中を見たら、つい追っていて。 ちょうどドアをくぐってすぐのところで、追いつくことができた。 ……ただし。 それは実際の距離であって、精神的なモノでは決してないが。 「なんですか?」 「っ……」 こちらを振り返った彼女は、それこそ別人のようで。 まるで、ひどく嫌っている人間に対する、憎悪。 そんなモノが感じられて、だからこそ言葉が思うように出てこない。 「用がないなら、戻ってもいいですか?」 「……え……」 「私、暇じゃないんですよね」 これまでほとんど遣われることのなかった、当たり前のはずの敬語。 だが、聞けば聞くほど違和感があって、身体でも拒否反応を示しそうになる。 ……違うだろう? それは。 お前の持ってるものじゃないだろう? そんな思いを込めて見つめ返すものの、そこにあるのは失墜した相互関係の末を映している瞳だけだった。 「失礼します」 「っ……宮崎!」 くるりと背を向けて歩き出した彼女に、慌てて声をかける。 だが、何を言えばその足が止まるのかは……わからず。 それでもなぜか、自分のどうしても告げたかったことだけは、頭に浮かんだ。 「佐々原さんとはもう、なんの関係もないんだ……!」 自分があまりにも必死すぎて、おかしすぎる。 何を今さら繕っているんだ、と。 どんな答えを求めているんだ、と。 鼻で笑われて終わるだけに違いないのに。 ……ましてやあの日、俺は自分から彼女を突き放したくせに。 「…………」 だが、口にした途端彼女の足が止まった。 背を向けたままではある。 だが、これまでとは違う明らかな反応を見せた。 「……もう随分前から、会っていない」 せめてもの、ささやかな希望を抱いて。 もしかしたら、もう少し手ごたえのある反応が得られるんじゃないか。 心のどこかでは、そんな期待をしていたに違いなかった。 「……それが?」 「え……?」 「別に私、そんな報告してくれなんて頼んでないけど」 ――……だが。 振り返ったと同時に突きつけられた言葉は、現実そのものを強く表していた。 嘲笑ではない。 そうではないながらも、決して好意的な表情でもない。 侮蔑そのものに違いないであろうに――……どこか、悲しみが満ちているような。 「っ……宮崎!!」 何も言わずにまた背中を向けた彼女を見たままで、一歩そちらへ踏み込んでいた。 離れていく。 だが、それが納得できなくもある。 「…………」 ぎり、と奥歯を噛み締めるものの、今さらどうにもならないという手遅れ感が虚しく漂っているのを感じた。 To me, she's an unattainable dream. 俺にとっての、高嶺の花。 ……もしかしたら、そんなことはずっと最初からわかっていたのかもしれない。 俺はあの子にだけは、絶対に敵わないんだ、と。 最後の最後。 それこそ、取り返しのつかない今になってふと、そんなことを思った。 「……っ」 そんな、ある日の昼休みだった。 いつものように授業を終えて職員室に向かおうとした、その道中。 後ろから来たいくつかの足音が、俺を抜いて渡り廊下を走って行った。 それがただの生徒だったら、別に気にも留めなかっただろう。 購買へ行くんだろうか、とか。 はたまた、何か友人同士で揉めごとでもしたのか、とか。 俺ならばまず深く受け止めなかっただろうし、あとを追おうとも考えなかった。 ――それがただの、生徒ならば。 「…………」 だが、今回は違った。 幾人もの中に、宮崎が確かに含まれていたから。 ……しかもその横顔には……厳しさと、冷たさとが浮かんでいて。 だからこそ、気になった。 心がざわついてどうしようもないほど、自分が急激に落ち着きをなくしたのもわかった。 だが、手を出さなければそれで、何もかもが丸く収まる。 たとえ揉めごとが起きても、自分が関わってなければそれで構わない。 そんなふうにずっと、面倒事を遠ざけてきた。 だか――……それだけじゃなんの意味もなことも、知ったから。 見て見ぬふりをすることは、逃げるのと同じだと突きつけられた、から。 「っ……」 だから、咄嗟にあとを追いかけていた。 ……もう、御免だ。 遠ざけるだけ遠ざけたせいで、手も何も届かない場所に行かれてしまうのだけは……なんとしても避けたかった。 『今さら何よ』 不機嫌そうな宮崎の顔が思い浮かんだが、まさにそのとおりだと自嘲が浮かびはしたが。 「どういうこと?」 凛とした大きな声が、余韻を伴いながら響いてくる先。 そこは、体育館へと続く廊下の少し手前だった。 「……1年生の女の子たちが、さっき私のところに来たわ。……どういう意味かわかるでしょ?」 普段とは違う、声質。 これじゃまるで、彼女のほうが年上のようだ。 しっかりしていて、まったく微動だにしない自信そのものが溢れている声。 それだけに、すぐそばの壁へもたれたままでいたら、喉が鳴った。 「……じ……自分は、そんなことしていない」 「ふぅん。まだそんなこと言っちゃうんだ。……最低」 いつもとは違う、静かな口調。 だが、それは明らかに砥がれて鋭さを増していて。 聞いているこちらにまで、ぞくりとしたものが伝わってくる。 ……本当に、これは18歳の子が出す威圧感なのか……? 自分よりずっと年下にもかかわらず、凛とした声から伝わる雰囲気に、改めて宮崎のすごさを感じる。 「……あ。逃げても無駄だから。今、みぃが高原先生のところに行ってるわ。……もちろん、被害に遭ったって子たちも一緒にね」 「くっ……!」 「さー、どーしましょーか。……ねぇ? 影山先生?」 まるで、こんな状況だからこそ楽しんでいるかのような、余裕めいた普段の宮崎の声が聞こえて喉が鳴った。 そっと角から様子を伺うように、少しだけ中を覗いてみる。 すると、どうやらそこにいるのは宮崎ともうふたり。 彼女と同じ、去年まで生徒会で一緒に活動をしていた執行部の面々であることがわかった。 ……執行部。 なぜ、今ごろになってこんな顔ぶれで揃う必要が……? とは思う。 だが――いったい何をそこまで責めているのか。 それがわからず、詳細を知りたくてもう一歩足を踏み出す。 「っ……」 「……何してるの?」 ほんのわずかな音だった。 なのに突然、宮崎が弾かれるようにこちらを向いて。 表情にあるのは、嫌悪というよりも驚愕。 そんなふうに瞳を丸くしながらも、やはりどこかで疑いのような表情も浮かべていた。 「……待て、宮崎」 こんなにもあからさまに見られたにもかかわらず、まだ自分を正当化しようとする自分に『何をしている』と思いもした。 本当は、なぜここにいるのか、どうしてこんなふうに教師を追い詰めているのかがわからず、むしろ教えてもらいたかったのに。 ……それなのに……結局は、理性ばかりが先に動いて。 不審この上ないくせに、正論を吐こうとすらしていた。 「なんでここにいるの」 「いや……だから、それは……」 「……何? 高鷲先生には関係ないよね?」 ほとんど口を動かさずにまくし立てられ、ごくりと喉が鳴る。 ……この子は、本当に普通の子なのか? その辺を笑いながら歩いていくような、ただの女子高生なのか……? いや、違うだろう。 少なくとも、ただの女子高生であるはずがない。 ……そうだろう……? そうでなければどうして、こんなにも物怖じせず“大人”を威圧できるんだ。 「そういうことは、生徒がするものじゃないだろう?」 こんなときになってもまだ、自分は教師だと主張する。 生徒と教師。 この関係は絶対で……それこそ、教師のほうが上にいるんだぞ、とまるでそう取られかねない発言を。 「……庇うの?」 「何?」 「先生まで、犯罪より同僚を取るの?」 一歩こちらへ歩いて来た彼女が、長い髪を肩から払った。 途端に向けられる、矛先。 ひるまず、躊躇せず、遠慮なく。 瞳を細めて作りあげた鋭い視線で、揺らいでいる自身の不安定な部分を貫くかのように。 「悪いことしたら謝るのが筋でしょ? でも、謝って済まない問題があるから警察がいるのよ?」 「……それは……」 「生徒は教師が罰する。……だから教師は絶対? そんな幻想、誰がまだ信じてるの?」 は、と短く笑われ、言葉に詰まった。 教師不信とか、そういうレベルじゃない。 明らかに、“教師”へ敵意を抱いている。 ……こんな姿、見たことがあっただろうか。 まるで茨のような感情を剥き出しで、俺に向かってくることなど。 「誰にも罰せられず、延々と生徒を被害に遭わせたままのさばってる教師は、誰が罰するの?」 不条理よ、そんなの。 吐き捨てるように呟いた彼女は、ちらりと影山先生を見てから再び俺を見据えた。 その眼差しに、一分(いちぶ)の手加減も見せることはなく。 「私は間違ったことはしてない。私のことを怒っても罰しても、謝らないから。……だってそうでしょ? どっちが謝るべきかなんて、明らかじゃない」 普段、ここまで彼女の大きさを実感することなどほとんどなかった。 身長であり、気持ちの面であり、様々な面でだ。 だが今になって、ひしひしと実感する。 俺が知った気でいた宮崎という人間が、どれほど彼女の一部程度にすぎなかったのか、と。 そしてそれが、どれほど自分よがりだったのかということを。 「…………っ」 全然違うじゃないか。 これが、副会長という座に君臨してから今もなお、ずっと働き続けていた“宮崎穂澄”という生徒の真の部分。 被害を聞いて、通告というかたちでの成敗。 ……なるほどな。 どうりで、定年でないにもかかわらず学校を去っている教師が多いはずだ。 「穂澄! 高原先生連れ……え? 高鷲先生……?」 去年まで生徒会長をやっていた葉山が、渡り廊下から駆け込んで来た。 宮崎が先ほど『みぃ』と呼んだのは、彼女のことだ。 「……穂澄?」 「行くわよ」 「え? でもっ……!」 「いーから!」 体育科主任の高原先生が到着したのを横目で確認すると、すぐに宮崎はこちらへ背を向けた。 代わりと言ってはなんだが、葉山が俺と宮崎とを不思議そうに見比べている。 「…………」 今はもう間違いなく、何か言ったところで宮崎が反応を返してくることはないだろう。 ……見限り、か。 確かにそうかもしれない。 もしもあのとき、俺に気付いてなかったら。 そのとき彼女は――……いったい何をしたのだろうか。 教師を誰が罰するの? 何よりも深い部分を迷うことなく指した言葉だけに、あと味の悪さだけが身体へ大きなしこりとなって残った。