「…………」
 今日は、いつもより早くバイトを上がらせてもらったのに、家に着くまでいつもの倍近くかかった。
 身体が思うように動かなくて、重たくて、つらくて。
 ……そう。
 つらい、んだ。
 頭が痛かったり、喉が痛かったり、お腹がまったく空かなかったりするけど……そうじゃなくて。
 身体的なものよりもずっと、精神的につらかった。
 …………あーあ。
 なんか、こういうときひとり暮らしってやだな。
 どうしても思い出してしまうのは、パパやママ、お姉ちゃんたちみんなと一緒に暮らしていたころのこと。
 具合が悪いってベッドにいると、ママはいっつも『何食べたい?』って聞いてくれて。
 パパは仕事から帰ってくると心配そうに声かけてくれるし、お姉ちゃんたちにいたっては、こっそりデザートや雑誌なんかを差し入れしてくれる。
 ……ああ、そっか。
 私、ずっと昔から周りの人に大事にしてもらえてたんだ。
 ひとりで具合が悪くなったせいか思い出してしまうと、ちょっとだけ泣きそうになる。
 帰っちゃおうかな、って思いもする。
 だけど――……。
「…………」
「…………」
「おかえり」
「っ……」
 本当は、『何してるの?』って聞きたかった。
 だってそうでしょ?
 自分の部屋の前にしゃがみこんでる人がいたら、そう聞いて当然だ。
 なのに里逸は表情を変えることなく立ち上がると、私の手を引いた。
「ちょ……何?」
「何じゃないだろう。……やっぱり熱があるな」
「……わかんないもん」
「じゃあ、なおさらだ。ウチにこい」
「…………」
 里逸の手は冷たくて、本当は『冷たいじゃない!』って怒ってもよかった。
 『もっと違う言い方があるでしょ!』でもよかった。
 でも…………でも、咄嗟にしたのは違う反応。
 視線を落としたまま、こくんと小さくうなずいてから彼のあとを追うように歩いていた。
「何も食べてないんだろう?」
「…………」
「薬は? 飲んだのか?」
「…………」
 数日入ってなかっただけなのに、なんだかすごく久しぶりのような気がする部屋。
 自分の家とは違ってやけに暖かくて、電気がちゃんとついていて……まるで、実家に帰ったときみたいな気がした。
「穂澄? 何し――……っ」
「…………」
 なんでか、なんて自分でもわからないけど、勝手に涙がこぼれて。
 びっくりして指で触ったら、濡れた感触にもっと涙が出てきた。
「ふぇ……」
 驚いた様子で里逸が足早に近づいてから、両肩に触れた。
 さっきとは違って温かい手のひらに驚いたけれど、だからこそ……手が伸びる。
「……里逸……っ」
 ブーツを履いたまま彼に両腕を伸ばし、ぎゅうと抱きつく。
 あったかくて、大きくて、しっかりしてて。
 自分とまったく違う感触に、たまらず胸が苦しくなった。
「……穂澄……?」
「ふ……っく……ひっく」
 情けなくもしゃくりがあがり、彼に回した腕へ力を込める。
 わずかに伝わってくる規則正しい鼓動が、なんだかすごく心地よくて、泣いたせいか急に眠たくなってきた。
「……やなの」
「何……?」
「ひとりじゃ……やなの」
 鼻声で情けないなぁって思うけど、どうにもならないからしょうがない。
 ず、と小さく鼻をすすって彼のシャツを握ると、大好きな人の匂いがして嬉しくなる。
 ……実家に帰らないのは、この人がいるから。
 会えないと寂しいって思うのはきっと私だけだろうけど、それでいい。
 私はもともと、自分の欲を満たすためにひとり暮らしを始めたんだから。
「ずっと、今まではひとりでも平気だったのに……里逸のそばにいられるようになってから、寂しくてだめなの」
「っ……穂澄……」
「……そばにいたいの。里逸のそばに、いたい」
 簡単に涙をぬぐって顔を上げると、困ったような顔で里逸が手を伸ばした。
 ひたり、と頬に手のひらが触れ、親指が残っていたらしい涙を拭う。
 ……優しいから、なんだからね。
 思った以上に里逸が優しいから、離れられなくなったんだから。
「朝起きたらひとりなのが、やなんだもん。一緒に……ごはん食べたいんだもん」
 ぽつりぽつりと漏れる言葉はどれも子どもみたいで……ううん。
 子どもよりずっとタチが悪い。
 わがまま以上のセリフ。
 だけど、どれもこれも本音に違いない。
「……ダメ?」
 いつもみたいな言い方じゃない。
 これは、あくまでも自分の言葉。声。
 だけど、唇が尖ったのは、どうしてもクセが抜けきれないからかもしれない。
「……駄目なわけないだろう」
「ホント……?」
「お前が元気じゃないと、俺だって寂しいんだ」
「っ……」
 よしよし、とまるで小さい子をあやすかのように頭を撫でてから、抱きしめられた。
 安心する場所。
 たしかな、誰のものでもない場所にすっぽりと収まった感じがして、少しだけ腕から力が抜ける。
「……何なら食べれそうだ?」
「ん……」
 耳元で聞こえた声で少しだけ身体を離し、顔を覗く。
 すごく心配してるみたいな、顔。
 こんな顔、今まで見たことない。
「…………なんでも食べる」
「食べれるのか?」
「ん。食べるから……だから、どこにも行かないで」
 少しだけ目を丸くした彼にうなずき、ふたたび抱きつくように腕を回し直す。
 すると、『わかった』とうなずいた里逸が、頭を撫でてから背中をぽんと軽く叩いた。


ひとつ戻る 目次へ 次へ