「きりーつ」
 4時限目というのは、どの世代の人間もダラダラと緊張感が緩むのは共通らしい。
 自身に覚えはないが、学生時代の友人らはそういえば同じような格好をしてもいたな。
 まぁ、気持ちはわからないでもない。
 どうしたって、12時を大きく過ぎるんだからな。
 人間、脳の栄養分である糖がかければかけるほど、集中からはかけ離れる。
 それは自然の摂理だから仕方ないとは思いながらも――……自分の授業は別。
 せめて、姿勢を正してきちんと座れないものかと、目の前に広がるやる気のない生徒たちを見ながらため息を通り越して呆れてくる。
 ……まぁ、それも一部だがな。
 このクラスは特進科。
 ほかのクラスとは違い、きちんと背を正している真面目な生徒ばかりだからこそ、はみ出したヤツらが目立って見えた。
「それでは、昨日の続きから」
 いつもと変わりないセリフで、授業を始める。
 安寧こそ常であり、正解。
 変化を求めるつもりなど、ハナからない。
 ……だが、それは俺だけでないのだろう。
 嫌でも目につくすぐそこの席の人物もまた、先日までの授業態度となんら変わりない格好そのものの、授業を受ける気ゼロな姿勢で視線を自分の指先へと向けていた。
 まったくほかのことに興味なさそうに、両手の爪を眺める様。
 いったい、コイツは成績のよいと言われるほかの授業中、どんな態度でいるんだ。
「宮崎」
「え?」
 思いきりこちらを見たまま欠伸したのを見て、さすがに教科書が歪む。
 必然的に宮崎を見下ろしながら名前を呼ぶと、なぜ呼ばれたかわからないかのような顔でまばたきをくり返してから、もう一度欠伸を見せた。
「なんですかー?」
「何じゃない。……お前、いつも俺の授業はつまらなさそうだな」
「んー……。そう見えます?」
 そう言いながら、宮崎は再度指先へ視線を落とした。
 すらりとした長い指を見せ付けるかのように伸ばし、満足げに爪を撫でる。
 やたら光を反射する爪は、日常生活に支障が間違いなく出るであろう長さ。
 いちいち箇所箇所が目につくという意味では、よくもまぁ俺の嫌いなポイントばかりを揃えているものだと感心する。
「別に私、そんなつもりないんですけど……。おっかしいなぁ」
 いつものように顎へ人差し指を当てながら、ぱったりと教科書を閉じた。
 授業が始まって、いまだ6分。
 ある意味で言えば、今日が新記録だな。
 最近ではもう、あからさまに授業に臨む気がゼロであろうとイチイチ面倒なので何かを言う気が起きなかったが、昨日の今日というのもあってか、スルーすることができなかった。
 まぁそうだろう。
 プライベートでもさることながら、輪をかけるようにコイツの怠惰ぶりが目についたのだから。
「そんなに嫌なら出て行っていいんだぞ」
 ヤジを飛ばしていたうるさい連中を静まらせるつもりなどなかったが、音を立てて教科書を置いた途端、ぴたりと音がやんだ。
 訪れる、静寂。
 ただただ目の前にいる宮崎だけを見つめ、静かに腕を組む。
 だが、宮崎は一切視線を逸らすこともなければ表情を変えることもなく、いつもと同じ顔でぱちぱちまばたきをすると両手を上げて伸びを見せた。
「えー。いいんですかー?」
「……何?」
「やったぁ、らっきー! これで今日のから揚げ弁当、1番乗りー!!」
「うわ、いいなー! 宮崎!」
「え、俺のもヨロシク!」
「あ! 私もー」
「ん、いーよいーよ。どーんとお任せアレ」
 両手を戻すや否や、ころっと表情を一変させたのを見て、情けなく口が開く。
 ガタガタと椅子を膝裏で押すとまったく躊躇なく立ち上がり、揚げ句の果てにはピースサインを作ってからクラスメイトへ向き直る始末。
 ……コイツは……!
 もしかしなくても、本当の馬鹿者なんじゃないのか。
 さっさと机の中から数学の教科書とノートを取り出すのを見て、思わず眉が寄った。
「じゃ、私図書館で自習してきまーす」
「なっ……!?」
「やったぁ。数学の宿題、まだやってなかったんだよねー」
 ぴ、と片手を上げて出て行こうとしたのを見て、さすがに身体が動く。
 だが、反射的にドアの前へ立ちふさがったものの、慌てたこちらとは違い、宮崎はなぜか逆にきょとんとした顔で俺を見上げた。
「ちょ……! 待て! 何を言い出すんだ、お前は!」
「えー。だって、センセがいいって言ったんじゃないですかー」
 眉を寄せ、唇を突き出す独特の表情を真正面から見てしまい、思わず小さなうめき声が漏れる。
 いかにも、というくらい“女”そのものの態度。
 ……だから嫌なんだ、コイツが。
 俺よりずっと年下のくせに、なぜこうも“女”めいた雰囲気を一瞬で作り出すんだ。
 きっと、もしかしなくてもコイツには俺が苦手な仕草がわかっているんだろう。
 だから、ほかの生徒と違って叱られてもなんとも思わないんだ。
 ……くそ。
 にんまり微笑んで首をかしげたのを見て、思わず口も曲がる。
 いかんな。
 きっと、こんなふうにあからさまに態度へ出してしまうから、コイツにもバレてしまうんだろうが……こればかりはもう、どうしようもない。
 苦手なものは苦手だし、今さら克服するつもりなど毛頭ないのも事実。
 コイツが卒業するまで、もう半年を切っている。
 今までの2年以上我慢してきたのだから、あと半年など容易なはず。
「それじゃセンセ、失礼しまーす」
「ッ……! 宮崎!!」
「どーぞどーぞ。授業妨害なんてしませんから、心置きなく授業なさってくださいね」
 にっこり笑った宮崎が、いつの間にか横を通り抜けてドアに手をかけていた。
 髪を耳にかけ直してから振り返られ、途端、甘い香りが漂う。
 ……う。
 お前……わざとやっているだろう。
 思わず文句を言いかけた口を閉じた瞬間、いかにも『してやったり』な顔を見せられ、たまらず口がへの字に曲がる。
 目の前でドアが閉まってすぐ、なぜか数名の生徒らが一瞬騒いだが、どうやらそれは宮崎が窓越しに改めてVサインを見せたからだというのに気づくには、その後だいぶかかった。

「高鷲先生、大変申し訳ありません!!」
「……いえ。別に笹山先生のせいじゃないんですから」
「いいえ! そうはいきませんとも!!」
 昼休みに入って、すぐ。
 職員室に戻った途端、9組の担任である笹山先生が謝罪に来た。
 深々と何度も頭を下げ、額の汗をハンカチで拭く。
 ……なんでも、来たらしいのだ。ここに。
 あの、宮崎穂澄本人が。
 4時限目の真っ只中。
 笹山先生が本日のお茶請けである温泉饅頭を食べていたところに、ひょっこりと。
 『いいなぁ、おいしそうー』とかなんとか言いながら、慌てふためく彼ににっこりこう告げたらしい。

 『高鷲センセが出てっていいって言うから、来ちゃった』

 それはもう、語尾にハートマークでも付いてるんじゃないかというような勢いで。
 まったく悪びれもせずに彼女は、空いていたほかの教師の椅子を引っ掴んで、そのまま話に応じたという。
 だが、戻れという言葉には首を横に振り、進級に関わるぞと言っても別に構わないとまで言ってのけたらしい。
 ……頭痛。
 いや、もはや眩暈がしてきた。
 自分自身、これまでも問題を抱える生徒を見てきはしたが……あそこまでなのは、初めて。
 次元が違いすぎる。あまりにも。
 常識とか良識とかって言葉がまったく通用せず、下手したら欠落してすらいるんじゃないかと疑ってしまうのも、無理はないはず。
 それを裏付けるかのように、幾人もの先生方から何度も同情の言葉をかけられた。
 ……だが、それが屈辱にならなかったのがせめてもの幸い。
 どうやら、俺以上にもっと手痛い仕打ちを受けた教師が何人も居たらしいから。
「宮崎には、私のほうからもよく言って聞かせますので」
「……お願いします」
「もちろんですとも!!」
 それなりに年を召している彼にとっても、宮崎はやっぱり異端児なんだろう。
 心痛を、若干察する。
 だが、俺以上に悩んでる教師はそういないだろうが。

「失礼しまーす」

 そんなときだった。
 ザワつく職員室内に、なんとも場違いすぎる明るい声が響いたのは。
「ッ……宮崎……!!」
 ギリ、と奥歯が軋む。
 現われたのだ。ヤツが。
 あっけらかんとした、本当に何も考えてなさそうな顔で。
 ……しかも、その右手。
 そこには授業中に宣言した通り、購買の袋が下がっている。
「くぉらぁ! 宮崎! ったく、お前というやつは……!!」
「あ、せんせー。探したんですよ? ほら、私今日、日直だから」
「そうじゃないだろう!」
 声を変えて……いや、アレは変わってしまったんだろう。
 首筋に青々とした血管が浮いて見えて、内心焦る。
 ……そのまま倒れたりしてくれるなよ。
 俺のせいで救急車騒ぎなんてことになるのだけは、御免だ。
「まったく! 授業をボイコットするなんて、どういうつもりなんだ!」
「えー? やだなぁ。私別に、ボってませんよ?」
「……な……」
 とんでもないことを、けろりんとした顔で言いのけたな? お前。
 ぴく、とこめかみが引きつるのがわかって、一層奥歯に力がこもる。
「だって、高鷲センセが出てっていいって言ったんですもん」
「だからそれは――」
「ねー? センセ?」
「ッ……!」
 にっこりと笑みを浮かべたまま、笹山先生の言葉を遮った宮崎。
 その笑顔が、顔前10センチのところにあった。
「な……っ……な!?」
 慌ててのけぞり、背もたれに思いきり寄りかかる。
 ギシギシと鈍い音を立てながらも確かに支えてくれた椅子に、内心感謝の念が生まれた。
「確かにー、ちゃんと授業聞かなかったのはよくなかったかもしれませんけどー。でも、別に自分から出てったワケじゃないですよね?」
「い……いや、だからそれは……」
「えへへー。でもまぁ一応反省はしてるんですよ?」
「嘘をつくんじゃない!!」
 こつん、と自分の頭を叩いたのを見て、思いきり反論が出た。
 だがしかし、コイツはそんなことお構いなしに、持っていた袋をガサガサと漁り始める。
 ……ホントに人の話を聞かないヤツだな。
 よくもまぁこんなんで、副会長を務めたモンだ。

「これ、お詫びにどうぞ?」

「…………なんだこれは」
「えー! やだ、知らないんですか? すっごくおいしいんですよ? 出張購買の、クリームコロッケ!」
 それは見ればわかる。
 いかにもというほど、ころんとした俵型の、クリームコロッケ。
 確かに、これはうまい。
 それは俺も知ってる。
 ……だが、問題なのは中身じゃなくて。
 これを俺に突き出している、経緯とやらが知りたいんだが。
「どーせ、お昼はカノジョの手作り弁当とかじゃないんでしょ?」
「……どういう意味だその発言は」
「だって、どこからどう見ても店屋物だし」
 だから、これもあげます。
 そんなふうにのたまいながら、透明のプラスチックに入ったソレを、机に置いた――……が、しかし。
「あーっ! この温泉饅頭、おいしいんですよねー!! ね、ね、食べないならもらっていい?」
「何!?」
「えー、いいじゃないですかー! だって、すんごいおいしいんだもん! ばっちり! 牛乳との相性最高!」
「な……っ! 貴様……!!」
 心の底から声が出ると同時に、開いた口が塞がらなくなる。
 ……ば……馬鹿なのか、やっぱりコイツは。
 謝りに来たであろうのに、謝罪の言葉は何ひとつなく。
 挙句の果てには、人の饅頭を奪って帰るというとんでもない凶行。
「……こ……ンの、宮崎貴様ッ!!」
「きゃーん、ドクターが怒ったーぁ」
「ふざけるんじゃない!!」
 ガッタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がると同時に、細い血管が何本かブチ切れたような気がした。


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