「……はあ」
 いったい、今日は何度目の厄日なのか。
 宮崎の隣に越してしまってからというものの、毎日がとても憂鬱になった。
 ……今日の授業も、アイツはまた大きなあくびをしていたが、さすがにもう職員室へ呼び出すことはしなかった。
 これ以上、個人的に接する機会を増やすのは御免だ。
 数えるのも鬱陶しいほど気分が落ちた今日という日を終えての、帰宅路。
 本来ならば真っ先に家へ帰って憂さ晴らしと称した晩酌をしたいところだが、この日に限ってガソリンがないのに気づき、寄り道を余儀なくされた。
 必要経費なため、こんなところを惜しんでも仕方ないのだが、自分の思い通りにいかないという点で言えば腹も立つ。
 自宅への新たな帰り道を走っている途中にあるセルフスタンドに寄ると、平日にもかかわらず混雑を見せていた。
「いらっしゃいませー」
 エンジンを切ってから降りると、ラジオDJの声をバックに店員の愛想のいい声が響いた。
 色もそうならば、車種もまるで違う多様な車が行き交う場所、か。
 普段から『あの車はどうの』などと見かけては俺に必要のない知識を与えてくる友人の顔が頭に浮かび、小さく苦笑する。
 正直、そこまでどうのという思いもなく購入した、今の自分の車。
 そういえば、決めるときはヤツが俺以上になぜか盛り上がり、メーカーから車種までひととおり議論したときのことを、すでに1年以上経つにもかかわらず鮮明に思い出された。
「……ん?」
 場所こそ違えどいつもと同じように給油したところで、『ご自由に』と記されたガラス用のタオルカゴが目に入った。
 セルフスタンドでこの手のものを見かけたことはなかったのだが、マメなサービスをはかっている場所もあるんだな……と感心はした。
 のだが、肝心のタオルが入っていないのでは意味がない。
 ちょうど、フロントガラスの隅にワイパー跡が残っていたので使いたかったのだが、これではな。
 これは恐らく、補充されてないと判断していいだろう。
「すみません」
「っ……!」
 なんの躊躇もなく、すぐそこにいた制服の店員に声をかけたのだが、一瞬、なぜかその背中が震えたように見えた。
 ……なんだ、いったい。
 小さく『ひっ』と聞こえたような気がしないでもないからこそ、意味がわからず訝るしかない。
 が、声をかけてしまった以上はなかったことにもできず、不審極まりない人物ではあるが、仕方なく用件だけを伝えることにした。
「あの。窓拭き用のタオルがないんですが」
「そ……そんなハズありませんけど」
「は? いや、だから。ないから聞いてるんでしょう?」
「ですからっ! 窓拭き用のタオルでしたら、あちらに!」
 不審なのは最初だけではなかったらしい。
 俺は客だろう? 間違いなく。
 なのになぜ、こちらを振り返らないのか。
 目深に帽子をかぶり直しただけでなく、ひたすら背中を向けたまま、まるで顔を見られないかのごとく俯いて首を振り……怪しいな。
 まさに、挙動不審人物そのもの。
 客を客とも思わない素振りと煮え切らない口調に、たまりかねて少しだけ口調がキツくなった。
「……だから。ないって言ってるじゃないか、さっきから」
 舌打ちが出なかっただけ、マシじゃなかろうか。
 と思った次の瞬間、ひくりと大きく肩を震わせた店員は、大きな声とともに弾かれたようにして俺を振り返った。
「だーかーらーねぇーー!! あっちにあるって言ってんでしょ、何回言わせんのよ!!」
「うわ!? みっ……宮崎!? どうしてお前がこんなところにいるんだ!!」
「どうしてじゃないわよ、どうしてじゃ!! バイトに決まってるじゃない! わかんない!? フツー!」
「そ――……何? お前、ここでバイトしてたのか」
「……ひっ……!!」
 噛みつかんばかりの勢いで振り返った店員は、見まごうことなき宮崎穂澄に違いなかった。
 睨みつけてきた顔を見た瞬間は確かに驚きもしたが、しかし、コイツのバイト先という事実を把握した途端、瞳が細まる。
 我ながら低い声が出たのが、何よりの証拠。
 まるで口を滑らせたとばかりに両手を口へ当てた宮崎を見ながら、腕を組む。
「……なるほどな。そうか、お前のバイト先はここか」
「なっ……何よ。だから何? それがどうしたって言うの?」
 普段の宮崎とは違い、いたって普通の格好……と言うのは正解ではないが、ほかの店員同様に制服を着込んでいる彼女は、雰囲気がかなり異なっていた。
 くるくると緩やかなウェーブがかかった髪は相変わらずだが、目深にかぶっているキャップもそうならば、上着ももちろんいつもとは違った色味と柄で。
 系列店のカラー一色を纏った宮崎は、バイトという雰囲気がそうさせるのか、学校のときとは違って少しだけ砕けた印象を受けた。
 ……というかお前が持っているそれこそが、俺の求めていたガラス用のタオルじゃないのか。
 両手を腰に当ててから下に置いたカゴの中のウエスが目に入り、小さくため息が漏れる。
「で? なんの用?」
 キッと睨み返され、口を結ぶ。
 まったく、そういう態度が子どもだとどうしてわからないんだろうな。
 いつも声高に『生徒だって』うんぬんと言っている気がするだけに、食ってかかって見せているハッタリめいた態度に肩が下がる。
「……あのな。スタンドに来て、ほかの用事があるとでも思うのか?」
「う」
「まったく。バイトしてるなら、それくらいわかるだろうが」
 スタンドへきて、車関係以外の用事などあるわけないだろうに。
 宮崎に断ってからウエスを1枚取り、車へ戻る。
 給油を済ませて、とっとと帰るか。
 これ以上、関わらなくてもいい人間と関わる必要はないのだからな。
 給油口を開けてから、いつものようにハイオク満タンを選ぶ。
 すると、ちょうどノズルを給油口へ差し込んだとき、背後へ不機嫌そうな声がかかった。
「ちょっと!」
「……ん?」
 少し離れていたところにいた宮崎が、思いきり振りかぶってから何かを放った。

 べしょ

「ッ……な……!!」
「どーぞ。欲しがってたタオルよ」
「おまっ……宮崎!!」
「何よ。文句ないでしょ? ちゃんと新しいヤツなんだから」
「ッ……そういう問題じゃないだろうが……!」
 なぜ、こうも水分たっぷりのタオルを放ったんだ貴様は……!
 フロントガラスに張り付いたタオルと、放射状に広がっただけでなく筋になって落ちる液体を見ながら口が開く。
 きれいにしようと思ったんだぞ、俺は。
 なのに……貴様……!
 いったいどういうつもりなんだ!
 間違いなくどころか、こんなものは嫌がらせ以外の何ものでもない。
 ちょうど満タンになったらしくストップがかかったノズルを元に戻し、ほかのレーンへとタオルを補充しに行った宮崎の後ろ姿を見ながら、鈍く奥歯が鳴る。
「おい、そこの」
「……む」
 我ながら大人気ないとは思った。若干はな。
 低い声が出たことが何よりの証拠だが、それでも文句を言わなかっただけマシじゃないだろうか。
 ほかの人間に頼んでもよかったが、適任がもっとも近い宮崎しかいなかったんだから仕方がない。
 ガッと引き出したソレを突き出しながら瞳を細めると、それと俺とを見比べながら意外そうに目を丸くした。
「何これ」
「見ればわかるだろう。捨ててくれ」
「いやいやいや、ちょっと待って。え、何? もしかして、ドクターって煙草吸うの!?」
「……それがどうした。何か悪いのか?」
「悪いわよ! あのねぇ、煙草っていうのは吸っていい人間と悪い人間といるのよ!?」
 何を言ってるんだ、お前は。
 いきなり繰り広げられた持論に、言いかけた言葉を飲み込む。
 だが、宮崎はそれを受け取りこそはしたものの、『信じらんなーい!』やら『やだマジで!?』などとぎゃあぎゃあひとりで盛り上がっていた。
 ……いや、盛り上がってはいないだろうな。
 間違いなく、話のネタにされている感じが漂っているのだから。
「信じらんなーい。やだー。ぜんっずぇん似合わない」
「なっ……! 関係ないだろうそんなことは!」
「えー。だって、ホントのことだし」
 じろじろと頭からつま先まで見られ、居心地の悪さで宮崎から視線が逸れる。
 まぁ確かに、自分でもどうして煙草にハマったのかは……まぁいろいろあったからだ、としか言えないからいたしかたないのだが。
 父親も吸わなかったし、母親に至っては煙草イコール不良と決め付けてもいるので、よもや自分が手を出すとは到底考えられなかったシロモノ。
 だが、だからこそ興味もどこかであったのかもしれない。
 思い起こせば、初めて煙草に手を出したあのときも、間違いなくほんのわずかな興味本位が先走っての結果だったのだから。
「てゆーか、なんで煙草なの?」
「……何?」
「だって、いっちばんドクターには似合わないシロモノじゃない?」
 なんだかんだとは言いながらも、宮崎は灰皿の中に詰めた消臭剤を指先で弄りながら戻ってきた。
 はい、と当然のように差し出され、一瞬“当たり前”のことが平然と行われたことに若干の違和感を感じて手を出すのが遅れたが、それを見た宮崎に小さく笑われ、居心地の悪さからか小さく咳払いが出る。
「…………別に、お前には関係ないだろう」
「ふぅーん……?」
 また、だ。
 宮崎のクセのようなものなのかもしれない。
 指先でつつっと顎を撫でるように触り、わずかに首を傾げて斜め下から俺を見上げる。
 この表情が、苦手だ。
 艶やかな唇が光を反射して見え、自然と視線が逸れる。
「ストレス」
「っ……な!」
「あ、やっぱ図星なんだ?」
「うるさい!」
 ぽつりと口にされた瞬間、自分でも驚くほど反応してしまったことに後悔する。
 これまでの人生において、こうも図星をつかれることなどそう多くなかった。
 だからこそ……宮崎が苦手なのだろうな。
 歯に衣を着せることもなく、そして空気を察することもせず、ずけずけと自分の思ったことをストレートに表現されるから。
 こんな生徒、これまで受け持ったことなど誰ひとりとしてなかった。
 だからこそ、異端であり異質なんだ。
 宮崎という人間の“先”があまりにも読めなさすぎて、どこかで怖さを感じているのかもしれない。
「ま、何にしろあんま吸わないほうがいいんじゃない?」
「なぜ、貴様にそんなことをに言われなければならん」
「だってさー、似合わない男が煙草クサイと……フツー、減点よね。減点」
「っ……うるさい!!」
 くすくすと笑われ、先ほどまでとは一変してまさに“女”そのものの態度をとられ、一喝するしかできなかった。
 俺にはほかに方法がない。
 笑ってたしなめることも、さらりとかわすこともできず、ただただ――……こうして威嚇するしか。
 ねじ伏せることしか、俺にはできないのだから。
「ありがとーございましたーぁ」
「くッ……!」
 奪うように灰皿を手に運転席へ回り、にっこり笑った宮崎を睨んでから乗り込む。
 わざとらしい大きな声だが、よく通るせいかやたらと耳について離れない。
 それが、悔しくもあり情けなくもあり。
 エンジンをかけて即座にギアを入れると、愛想笑いそのものの顔ながらも宮崎の態度に一分の迷いも感じられず、今このときに関しては負けを認めるしかないように思えた。


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