「……疲れたな」
自宅へ帰りつき、ドアを閉めた瞬間。
まだ、そこまで“我が家”になってはいないが、それでも安堵した自分が少しだけおかしかった。
まさにプライベートそのものの場所。
ドアさえ閉めてしまえば、なんびとも立ち入ることのできないところ。
音もなく、光さえかけらも見られない室内を眺めると、寂しさよりも安堵を覚えた。
電気をつけるとすぐ、今朝家を出たときから寸分も違っていない物の配置が目に入り、当たり前のことながらも、自分がきちんと把握できていることだけに『よかった』とさえ思う。
……よかった、本当に。
これでようやく、今日という日も終えた。
重たい身体を引きずるようにリビングへ向かう――途中で右に折れ、先に着替えを済ませる。
寝室として使っているこの部屋は、もしかしたら唯一雑多な空間かもしれない。
今朝起きたときと同じ布団の乱れ具合に、ただただ苦笑するしかなかった。
まさか、あのスタンドで宮崎がバイトしていたとは思いもしなかった。
というか、そもそもあの宮崎がガソリンスタンドという職種を選ぶこと自体に正直驚いてもいた。
もともとミーハーなタイプだからこそ、もっと派手な……というか、華やかさを前面に出しているような職種でバイトでもしているのだろうと勝手に思っていたとはいえ、まさかあんな地味というか……汚れることもいとわない仕事に就いているとは。
今はまだいいが、真冬や真夏ともなればそれだけでかなりの重労働だろう。
まさに汗水たらして働くなど、普段の彼女からはまったく想像もできなかったせいか、正直意外でしかなかった。
それでもまぁ、口は相変わらずだったがな。
なぜ、ああも俺につっかかってくるんだ。
ほかの教諭をからかっているのこそ見たことはあったが、俺のようにあからさまに挑発するような態度を取ることはない。
だからこそ、首を傾げるしかできなかった。
授業態度も悪く、たびたび職員室へ呼び出しているにもかかわらず、一向に態度を改めようとしない。
やはり未知数というか、先が見えない人間だな。本当に。
「…………はっ」
ネクタイを外しながら、ついつい宮崎のことを考えてしまっていたのに気づき、かぶりを振ってため息ひとつ。
どうして俺が、プライベートでまでアイツのことを考えていなければならないんだ。
もっとも『なかった』ことだけに、ぞっとする。
ようやく解放されたんだ。
今はもう、すべて終えたのだから何を気にする必要もないはず。
とりあえず、今は……食事よりも先に風呂を選ぼう。
何もかも洗い流してさっぱりしてからゆっくり味わいたいと素直に思い、簡単に着替えると自然に浴室へと足が向いていた。
「……ふう」
眼鏡がないこともあり、視界がぼやける。
これが湯気のせいだけでないことは常だからこそよくわかってはいるが、それでも少しだけ心地よくもあった。
ガラスが曇り、光のみを反射させる。
室内灯とは異なる、オレンジがかった灯り。
柔らかみのある色を見ていると、少しだけぼんやりとしている自分もおり、そのせいか風呂の時間だけは時間を無駄にしている気持ちが若干薄れてか嫌いではなかった。
ぴんぽーん
「っ……」
目を閉じて湯船につかっていたら、いきなりチャイムが響いた。
こんな時間に来客など、これまでなかった。
……大家だと面倒だな。
とは一瞬思ったものの、どうしてもという用事ならば再度来るであろうから、まぁいいかと判断する。
何より、今は入浴中。
慌てて出ていくことほど、面倒なことはない。
こんなふうに考えてしまうのも、ここが風呂場だからだろう。
違う場所だったら、間違いなく来客を優先していただろうに。
「……ッな……」
1度響いただけで静かになったので、大した用件ではなかったのだろうと思った……次の瞬間。
2度、3度。
続けざまに押されたかと思いきや、今度はいたずらかと思うほどにチャイムが連打され、けたたましい音が室内に響いた。
な……にごとだ……!!
いつまで経ってもやみそうにない音に、慌てて湯船から飛び出す。
本来ならば、ダイニングにある受話器で相手を確認してから出たいところだが、今はそちらではなく、ダイレクトに玄関へと意識が向かう。
こんなことをしでかすなど、非常識な人間以外考えられない。
髪を拭くこともできず、ざっと身体を拭いて服を纏うと、張り付いた感じが非常に不快だった。
「っえぇぇええい!! うるさい!!」
「きゃあ!?」
ガッとノブをつかんでドアを開けると、小さな悲鳴が聞こえた
が、しかし。
両手を挙げて『降参』のようなポーズをしている相手を見て、ぶちんと何かが切れたような音もした。
「またお前か宮崎……ッ……!」
「や、あの、こ……こんばんは?」
あはは、と乾いた笑いを見せ、ひらひらと指先を振る。
その仕草すべてが腹立たしく、奥歯が軋んだ。
「あっ!? ちょ、まっ……待ってよ!!」
「なんだ!!」
「だから、あのっ! ねぇ、助けて!!」
「……何?」
目が合ってすぐドアを閉めようとしたところで、慌てて宮崎が手を出した。
が、これ以上プライベートで絡んでもらいたくない気持ちと、せっかくの風呂の時間を潰されたというのとで、予想以上にイライラしていたらしい。
普段とは違い、どこか申し訳なさそうな顔をしている宮崎に気づいたのは、だいぶあとになってからだった。
「あ、ねぇ。センセってもしかして今……お風呂入ってた?」
ぱちぱちと相変わらず大きな目でまばたいたかと思いきや、首をかしげた。
まさに、そのとおり。
だからこそ、イラっとしたと言っても過言ではない。
普段は上げている前髪からしずくが落ち、それを払うのも面倒だからか気持ちは鎮まりそうになかった。
「……あのな、宮崎。お前がいったいどういうつもりなのかは知らないが、とりあえずもう今後一切関わらないでくれ!」
「えー! そんな!! だって私、今、めっちゃ困ってるんだもん!」
「そんなワケないだろうが!! ものすごく暇そうにしか見えないぞ!」
「えぇえー! そんなことないんだってば!! ちょー必死! もんのすごく困ってる!!」
ぐいっとノブを引いてさらにドアを閉めると、慌てたように宮崎が首を振りながらドアの隙間に手を入れた。
――……瞬間。
「いたっ!!」
「ッな……!」
慌てて手を引っ込め、ぎゅうっともう片手で押さえたではないか。
ま……さか。
いや、今の時点でドアを引きはしなかった。
だからおそらく挟んではいないだろうが……何か、あったのか?
自分でも気づかないうちに“何か”をしてしまったのではないかと、うつむいたまま顔を上げない宮崎を見て、慌ててドアを開く。
「宮崎、大丈夫か? すまない、そんなつもりじゃ――」
「なぁーんちゃって」
「…………は……?」
「わーい。お邪魔しまーす」
「……なっ!? いや、ちょっ……待て! 宮崎!?」
肩へ触れるわけにもいかず、どうしたものかと困ったのは一瞬。
顔を上げた瞬間にっこりと微笑まれ、何が起きたのか咄嗟にはわからなかった。
「へぇー、意外とキレイにしてるんだ?」
「おまっ……!! こら、宮崎! お前いったい、どういうつもりなんだ!!」
するりと横をすり抜けてすぐ、宮崎はまったく躊躇せずに靴を脱いで部屋へと上がった。
恐らく、宮崎の部屋自体もここと大差はないのだろう。
すぐここにあるダイニングキッチンを抜け、奥にあるリビングに使っている二間続きの部屋へスタスタ歩いて行ったことからして、間違いないはず。
「うわ! ちょ、いいなぁー! え、何? センセってパソコン持ってるの?」
「だから! お前はいったいどういうつもりなんだと聞いているだろう!!」
「……もー。何よぉ、いいじゃん別にー」
リビングに入ってすぐのところで、ようやく宮崎を確保することができた。
予想よりもずっと細い、腕。
普段、見ることはあっても決して触ったりしなかった対象だからこそ、自分とは違う華奢な感じに掴んだ瞬間離していた。
「あのね、お風呂貸してほしいの」
「……何?」
「そしたら私、すぐ帰るから」
けろりとした顔ながらも、言われたのはとんでもない内容。
ぽかんと口を開けたまま、にこにこ笑っている宮崎をしばし見て、ようやく頭が動き始める。
普段から突拍子もなく、ほかの人間とはまるで違うとは思っていたが、まさかここまでとは。
頭痛、眩暈、そして動悸。
いろいろなものを経験してはきたものの、あっけらかんと言われて頭が真っ白になった。
「実はねー、ウチのガスちょっと止められちゃって」
「な……っ……! 貴様、ガス代を滞納していたのか!?」
「えー、だって払い込み忘れてたんだもん」
「そういう問題じゃないだろう!!」
だいたいお前、ついこの間『ちゃんと生活してる』と大口をたたいたばかりじゃなかったのか。
あれもすべて嘘だったのか? 貴様。
ああもう、本当になんというヤツなんだろうか。
これまで、こんなにも口から出まかせどころかひょうひょうと生きているヤツなんて、そういないだろうと思っていたのに。
ふと、幼馴染の顔が頭に浮かび、どっと疲れが出た。
「まったく。だからお前というヤツは――」
「お願い……ッ……!」
「……な……」
呆れからため息をついて髪を上げると、ちゃっかり洗面セットと思しきモノを持ったままの宮崎が、両手を胸の前で合わせた。
それに加えて、下げた頭はかなり低い。
これまで見たこともない姿すぎて、今目の前で起きている事態が夢なんじゃないかと一瞬思ったほどだ。
「センセにしか頼めないの! お願い……っ……明日、必ず朝イチで払いに行くから! だから……! だから、今だけお風呂貸して!!」
再度『お願い』を口にし、強く強く手を合わせる。
この、普段とは違う姿と態度に、もしかしたら面食らったのかもしれない。
「ねぇ、お願い!!」
顔を上げてまっすぐ見つめられ、眉を寄せるものの拒絶というよりは困惑からの表情であることは、自身が何よりわかっていた。
お前も、必死な顔をすることがあるんだな。
授業中のふてぶてしさや、ふとした瞬間に見せるいたずらっぽいものではなく、心底から困っていて……助けてほしいと願っているような顔に、握りしめていた手から力が抜けた。
普段は、やけに大人びて見えるのに、やはりまだまだ子どもなんだな。
わずかに唇を噛んだ姿が、幼さを強調させた。
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