「はー……」
 いったいどうして、こんなことになっているのか。
 風呂場から鼻歌が聞こえてくるなど、ゆゆしき事態そのもの。
 こんなときに来客がありでもしたら、たちまち俺の立場が危うくなるに違いない……にもかかわらず、結局は折れ、宮崎に風呂場を譲った自分は、何を考えていたんだろうか。
 これまで一度もなかった、自分以外の人間が立てる物音を聞きながら、再度ため息を漏らす。
 よりによって、最初が何もあの宮崎じゃなくてもいいだろうに。
 神とやらは、ずいぶんと無粋で危険な判断を迫ってくるものだ。
「ふあー……あったまった、あったまったぁ」
「っ……」
 のんきな声が聞こえ、湿った空気がこちらまで漂ってくるような気がした。
「……うーん……。でもやっぱ、なんか髪がごわごわする……」
 人の家で風呂を借りただけでなく、恐らくはシャンプーやら何やらも使ったのだろう。
 にもかかわらず、その言いぐさか貴様は。
 あえて俺に聞こえるように言ってるんじゃないかとしか思えない大きな独り言を聞きながら、眉間の皺が濃くなるのを感じた。
「お借りしましたー」
 タオルを頭に巻いたままドアを開けた宮崎が、リビングへと許可もなく侵入してきた。
 コイツはいったい何を考えているのか。
 ばっちり目があったものの、その場へ躊躇なく座ったのを見てこちらが驚く。
「ん?」
「……ん、じゃないだろう。用が済んだなら、とっとと帰れ」
「えー。何ソレ。つまんなーい」
 Tシャツにハーフパンツという、普段の宮崎からは想像もできないような格好。
 いや、そもそもおそらく体育などはこういう格好をしているのだろうが、いつだってやたらと花を背負っているようなやつだけに、なんだか違和感のようなものさえ感じる。
「あ、お茶とかもらってもいい?」
「何?」
「えー、だって私、お風呂あがりは何か飲まないとダメなんだもん」
 困ったなぁとばかりに頬へ手を当てたかと思いきや、わずかばかり首を傾げた。
 この、態度。
 ああやっぱりコイツは宮崎に違いないんだなと改めて思いつつも、目が合うのがなんとなく恐くて、無言でキッチンへと足が向かった。
「……頼むから、もう帰ってくれ」
「わーい、ありがとうございまーす」
 お茶を注いだグラスを両手で受け取った宮崎が、嬉々として今俺が立ちあがったばかりの座椅子へと座りなおした。
 いや、だから待て。貴様どういうつもりだ。
 そう言ってやろうとは思ったものの、ちらりと太ももが見え、小さな呻きとなって消える。
 お前、いくら俺が教師だからとはいえ、無防備にほいほいさらけすぎじゃないか?
 頭に巻いていたタオルを外しながら髪をふいているのを見て、反射的に距離を取るべく壁際へ腰を下ろす。
 ある意味、自己防衛だな。
 コイツのそばに近寄りでもして、妙な噂でも立てられたりしては敵わない。
「……てゆーか、何? コレ」
 グラスをテーブルへ置くと、宮崎がテレビを見つめた。
 なんてことはない、単なる株の番組。
 この時間特有の落ち着いた雰囲気で、だからこそ安心する。
 ぎゃあぎゃあと騒がしいだけの番組に興味はなく、かといって旅番組や料理番組などもってのほか。
 無難にニュースといきたいところだが、株価や今現在の注目企業などの情報を得ているほうがよっぽど実りもある。
 と思っての選択だったのだが、宮崎は眉を寄せてしばらく見ていたものの、『つまんない』と小さくつぶやいた。
「あ!?」
「こっちにしよーっと」
「ちょっと待て宮崎! 誰が変えていいといった!!」
「えー、だってつまんないんだもん。それに今日は、洋画やってるじゃん」
「あのな……!」
 いきなりチャンネルが変わり、銃撃戦と思しきシーンが画面に映った。
 金曜日のこの時間ともなれば、毎度おなじみあの番組に違いないだろう。
 ……そういえば、昔は結構頻繁に見ていたんだがな。
 かつて、英語に興味を持ち始めたころは副音声でほぼ毎週欠かさず見ていた枠だけに、嬉々として眺めている宮崎が当時の自分とダブって見えた。
「あぇっ……!?」
 が、だったらもう少し風情というものを感じればいい。
 郷に入れば郷に従え。
 洋画なのだから、あちらの俳優の英語をそのまま聞けばいいだろうに。
 悠長に冷茶を飲んでいた宮崎の手元からリモコンを取ると、慌てたように俺を見つめた。
「ちょっと!!」
「洋画はこうでなくてはな。吹き替えでは、本当の意味が伝わらないだろう?」
「ばっ……! 何よそれ!」
「英語独特の言い回しもあるからな。聞ける耳になったらいいんじゃないか?」
 普段とは違い、心底慌てでもしてか、頬がわずかばかり赤くなっていた。
 余裕がないお前を見れるというのは、なかなかオツなものだな。
 まるで、揚げ足を取られでもしたかのように唇を尖らせてぶつぶつと文句を言っているのを見ながら、小さく笑みが漏れた。
 ――のは、一瞬。
 悔しそうに画面を見たものの、なぜか次の瞬間にはやたらと余裕めいたいつもの“宮崎”らしく斜め上から視線を向けてきた。
「じゃ、訳して」
「……何?」
「だって、センセ英語得意でしょ? だもん、聞きながら訳すのくらい、朝飯前よね?」
「当然だろう。俺を誰だと思っている」
「だよねー。それじゃ、やってよ。ほら、早く!」
 何を言うかと思いきや、そんなことか。
 何年英語に携わってきたと思っているんだ、お前は。
 見ずとも耳に入ってくるセリフを聞きながら、小さく鼻で笑う。
「じゃ、どーぞ?」
 にんまりと微笑みながら瞳を細めた宮崎を真正面から見てしまい、一瞬口が曲がりはしたものの、テレビへと視線を向けることで一応の回避はできたからよしとしよう。
「『要するに、彼にはちゃんとしたアリバイがあるってことだろう』」
「……ウソばっかり。どーせコイツが犯人に違いないのよ」
「『何を言う。そもそも、スティフが昨日バーにいた根拠はないはずだ』」
「どーだか。アンタのほうがうさんくさいっつーの」
 テレビを見ながらさらりと訳していたものの、見ると、宮崎はどこから取り出したのかカルパスをつまんでいた。
 そのさまが、あたかもつまみを食べながら1杯飲んでいるかのようで、一瞬訳が止まる。
 どうやらそこで気づいたらしく、『あーん』と口を開けたままの状態で目が合ったが、だからどうのということはなかった。
「宮崎。お前、イチイチつっこみを入れないと見れないのか?」
「え? いつもこうだけど」
「……寂しいヤツだな」
「センセに言われたくない」
「くっ……!」
 ふたり組みの男が、タクシーに乗り込んでマンハッタンを移動するシーンになると同時に呟かれ、バタンとドアが閉まった音とハモってなんとも切なくなる。
 ここは、俺の部屋なのに。
 なんで宮崎は、こうも態度がデカいんだ。
「ほら。始まったってば」
 指差されてそちらを見ると、シーンが変わって早朝とおぼしきベッドルームが映った。
 恐らくはホテルだろう。
 まだ霞がかった青い風景が見える大きな窓の部屋は、広くて大きなベッドがひとつ。
 名前が浮かばなかったが、出演作のタイトルはしっかりと記憶している女優が、ベッドへと腰かける。
「『起きて』」
「ソレくらいわかるもん」
「…………」
「……何よその目は」
「別に」
 すべて訳せというから訳したに過ぎないのだが、ポリポリと今度はマカダミアナッツをかじり始めたらしい宮崎に、つい閉口。
 というか、いったいいつまでこんなことをすればいいんだ。
 どうせならこういうところで、CMが入ればいいんじゃないのか。
「『今日は朝から会議があるんでしょう?』」
「ふーん。定番ね」
「『俺は、暇な爺さん連中と遊ぶのは好きじゃないんだ』」
「ま、そりゃそーよね。だったら、よっぽどこのおねーさんと遊ぶっての」
「『シェイン。それよ――……」
「……よ?」
 ぴたり、というよりもっと鋭かっただろう。
 流れ続けている映像を見ながらも、言葉が詰まる。
 意味ありげな、いかにもという甘い雰囲気漂う曲。
 そして――……アップへと切り替わった映像。
 それこそ、息遣いまでもがしっかりわかるほどの映像に、口を結ぶしかなかった。
 ひたりと頬に触れた手が、唇をなぞる。
 うわ。
 まさか、こんなタイミングで始まらなくてもいいと思うぞ。
 いかにも生々しさが漂い、これ以上ないほどの気まずさが訪れる。
 こんなところでチャンネルを変えでもしたら、間違いなく宮崎がはやしたてるだろうな。
 キスシーンから始まってしまい、否応なしに洋画特有のシーンへと切り替わっていくのがわかるものの、どうにもすることができず目を閉じる。
 どちらかというと、頭を抱えてしまいたいものだがな。
「…………」
「…………」
「ちょっと」
「っ……なんだ」
「何じゃないわよ。ちょっとー。さっきの続きは? どーなったワケ?」
「いや、だからアレは、その……なんだ」
 画面を見つめていた宮崎が、座椅子へべったりともたれたまま俺を見た。
 どうやら、不自然すぎるタイミングで新聞を手にしたのがマズかったらしい。
 にやにやとそれはもう性格の悪そうな顔をされ、たまらずため息が漏れる。
 お前、絶対にわかってて言ってるんだろう。
 そうとわかったところでどうすることもできないが、茶化されているのがわかるからこそ、心底気分は悪い。
「センセー。『again before get up』の前がよく聞き取れなかったんですけどー」
「ッ……な……!!」
 はーい、とばかりに左手を真上に挙げた宮崎が、くすくす笑いながらもう片手で髪を弄った。
 お前……そんな手本通りの挙手、俺の授業で一度でもしたことがあったか? いや、ないだろう。
 それどころか、今のやたら滑舌のいい流暢な発音はなんだ。
 セリフうんぬんよりも、宮崎自身に驚き動揺する。
「宮崎、お前……!」
「えー? なんて言ったのか、わかんなーい。私ぃ、英語苦手なんですよねー。なんて言ったのかなぁ」
 くりくりと首を動かし、両手で髪に触れる。
 その、いかにもというあからさまな態度に思わず口を開けてしまったものの、くすくす意味ありげに笑っているのを見て、ようやく自身が落ち着き始めたのがわかった。
「……もういいだろう」
「え?」
「いい加減、帰れ」
 立ち上がり、宮崎を見下ろす。
 逃げかもしれない。確かにな。
 であっても、これ以上コイツに付き合う必要は皆無だと判断したのだから、当然の態度だ。
「えー? せっかくいいトコなのになー」
「どこがだ!!」
「だって、せーっかくこれからあのふたりのイイコトが見れるじゃないですかぁ」
 はーぁ、と大きくため息をついてから立ち上がった宮崎が、玄関へ向かいながらとんでもないセリフを口にした。
 貴様……やはり、すべてを計算づくでやっているんだな……!
 今までの態度などでもなんとなくわかってはいたが、このときになってようやく把握できた。
 宮崎は間違いなく、日々のすべてを計算して生きているんだ。
 きっと、自分が他人にどう見えているかもわかっているのだろうな。
 だからこそ、あんな態度や振る舞いをするんだ。
 それを頭がいいと簡単に言えないし言いたくもないが、この瞬間わかってしまったからこそ、これ以上宮崎に近づくのは何よりも危険だと思った。
 本当のお前なんて、きっとないんだろう。
 予想外のことが起きても、きっと瞬時に判断できるんだろうな。
 すべて何もかも、自分にとって有利に働くように、と。
 恐ろしい子だ。本当に。
 きっと、宮崎をそう形容する同僚らの中には、俺と同じくコイツの本性とやらを見つけた人間が数人はいるんだろう。
「センセも1回、カノジョと一緒に見たらいいんじゃないですかぁ?」
「なっ……!」
 サンダルを履いてから、ニヤニヤと性格の悪そうな顔で振り返った宮崎に、思わず口を開けたまま固まる。
 お前……それもすべて、わかった上での行動なんだな。
 だとしたら、間違いなく喧嘩を売られていると理解していいだろう。
「っ……馬鹿なことを言うんじゃない!!」
「えー、なんでですかー? 絶対、イイカンジになること間違いないですよー?」
「うるさい!!」
「はいはーい。帰りますよぉーだ」
 プライベートではそうそう出すこともない大きな声が出た途端、ひらひらと手を振りながら、宮崎がドアに手をかけた。
 だが、さらにまだ何か言いたいことでもあるのか、くすくすと笑ったまま――ゆっくりと俺を振り返った。
「あはは、やだもー。センセってカワイー」
「なっ……!?」
「それじゃ、おやすみなさーい」
 一瞬だけ。
 ほんの一瞬だが、そう言った宮崎の顔が心底から笑うのを我慢しているかのように見え、何も言えなかった。
 まるでセリフを口にするかのように、宮崎はしゃべることが多い。
 だが、今のはまるで……言うなれば独りごちたかのようで。
 目があった瞬間、スイッチが入りでもしたかのようにいつものような笑みを浮かべたが、それが逆にわざとらしくてたまらなかった。
 作られた、とでもいえばいいか。
 確かに、普段の宮崎を俺は知らない。
 ……いや。
 もしかしたら、“素”の宮崎を知っている人間は、限られているのかもしれないのだから。
 パタン、と静かに閉められたドアを見つめたままでいたものの、恐らくは宮崎の部屋とおぼしきドアの音が響くまでの間、何をするでもなくただただその場から足が動かなかった。


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