「トイレに入ったとき、トイレットペーパーの替えがセットされてなかったでしょ? だから、新しいロールを出してセットしとこーって思ったら……落ちてきたの」
「っ……」
なんだと。
そう口に出そうになったものの、寸でで呑みこんで口を結ぶ。
だが、穂澄は俺から視線を外すことなく、さらに続けた。
「……だから……」
じぃ、としばらく俺を見てはいたが、ほどなくして視線を落とした。
顔が赤く見えるのは、ろうそくのせいで間違いないだろう。
だが、話の内容が内容なだけに、どうしても赤面しているようにしか見えず、喉が鳴る。
「あ……れは、違うんだ」
「……え?」
「その……友人が勝手に……」
別に俺が買ったわけじゃない。
それは嘘でもなんでもない、本当の話。
だが、掠れた声だったせいか我ながら信憑性に欠けるなとは感じて、背中を汗が伝ったような気もした。
「……なんだ」
「ん?」
「てっきり、やっと里逸もソノ気になってくれたんだと思ったのに」
「っ……な……」
ぽつり、と呟いてすぐ見上げられ、目を見張ったところを真正面から見られた。
この眼差しは、少し苦手だ。
目が大きいというのもあるのだが、妙な力がある。
まるで、本音を見透かすような――……そんな、強さがある瞳。
逸らされることなく見つめられ、何をどう言っていいかわからずに眉が寄った。
「……私、里逸ならいいって思ってるんだよ?」
「っ……」
「だから、一緒に住もうって言ったの」
これまで、自分が言うに言い出せなかったことを先に言われ、情けなくも動揺した。
いい、というのは……どういう意味かなんて考えるまでもないが、だからこそ少し驚く。
まさか、穂澄までもそんなことを前提に考えていたとはな。
これじゃ、よっぽど俺のほうが潔くない。
「……愛があればいいんでしょ?」
「何?」
「淫行罪、だっけ。10代の子とヤったら、罪になっちゃうの」
「………………」
「でも私、もう18歳だし……平気」
「……穂澄」
「里逸、言ってくれたよね? 私のこと……好きだ、って」
「それは……ああ。もちろんだ」
「だから、平気。……里逸なら、いいって思ってる」
「っ……」
声色がいつもと違うのは、この雰囲気がそうさせているのだろうか。
それとも――……穂澄自身の気持ちが揺らいでいるせいか。
きゅ、と俺のパジャマを握りしめている手が見え、気づくと重ねるように手で触れていた。
「だって、里逸だけなんだよ? 私のこと……好きにしていいの」
「ッ……」
視線を外して言われ、ごくりと喉が鳴った。
何よりも直接的な表現、というわけじゃない。
それでも、これまで聞いたことないようなセリフに、身体が反応しそうになる。
「……里逸しか知らないんだから」
「…………」
「キスだって……抱きしめられるのだってそう。キスされて嬉しいっていうのも、キスだけでどきどきするっていうのも、身体が……なんか、ヘンになるっていうのも……全部、里逸に教わったんだから」
ひとつひとつの言葉をまるで噛みしめるかのように言われ、ぞくりと背中が粟立つ。
だが、密着している状況は変わらず、もしかしなくても……穂澄にはわかっているんだろう。
いや、これまでの口ぶりからして、恐らく今までもずっとわかっていたんだろうな。
その上で、期待してくれた――……か。
穂澄は、どれほど俺を許してくれるつもりでいたのか。
……もしかして、風呂上りからずっと機嫌が良かったのは、これが影響していたのか。
だとしたら、最後の最後で大きく期待を欠いたことになる。
「だから……もっと教えて。痛いことも、気持ちいいことも……全部」
「っ……穂澄」
里逸なら平気。
ぽつり、と限定の言葉を言われ、情けなくも声が震えた。
……いや、実際きっとかなり情けないのだろう。
彼女にここまで言わせてもなお、身体が動かないというのは。
それでも――……持論がある以上、仕方ない。
とはいえ、どれもこれも今、穂澄に言われた通りでしかないが。
「しかし……お前はまだ高校生だろう。……そういう対象にするのは早すぎる」
「何言ってんのよ。今どきどころか、里逸が高校生だったときだって、周りの人間ヤることヤってたでしょ?」
「おまっ……!」
「だってそーじゃん」
直接的な言葉が飛び出しすぎて、頭痛がしそうだ。
周りがどうの、という話をしているわけじゃない。
あくまで、俺と穂澄の話なんだが……今の彼女は、明らかに聞く耳を持っていない。
「はー……」
とうに成人しているならまだしも、相手はまだ高校生。
休み明けにはいつものように制服を着て学校へ行き、授業を受ける存在。
なのに、手を出してしまったら……それこそニュースに羅列される人間と同等になるじゃないか。
保身のために言うわけじゃないが、やはりそういう対象として見てしまうことには抵抗がある。
というのは恐らく、彼女と俺との年齢差もあるんだろうな。
……三十路の人間が高校生に手を出したと聞けば、表現だけは十分にニュース沙汰。
「……もー。だから、そのせいですっごく悩んだんだってば!」
「っ……何?」
はー、とため息をついてうつむいたかと思いきや、がばっと顔を上げてさらに身体を寄せた。
途端、わずかに足元がふらつき、危うく倒れそうになる。
「だって、友達の話と全然違うんだもん! カレシが我慢できなくてーとか、ちょっとムリヤリやられたーとか。そーゆーのばっか聞いてたんだよ?」
「な……お前、それは犯罪だろう!」
「もー! だから、愛があれば違うって言ってるでしょ!」
「だが、高校生の恋愛は必ずしも“愛”じゃないことがあるだろう! この間言ったことは、嘘じゃないんだぞ? 10代の男にとってみれば、毎日そういうことしか考えてなくても、あまりおかしくはないんだ! 現に男子生徒の半分以上がそういう話をして盛りあがっていることも――」
「もう! だけど、すっごく悩んだの!! 私に魅力がないのかなとか、もしかして身体がなんかヘンなのかな、とかって!」
「な……っ……」
「だから! そうじゃないなら、手ぇ出してよ!」
「っ……なんてことを言うんだ!」
「だって! 不安だったんだから!! もしかして里逸は私のこと好きじゃないのかな、とか……なんか……もう! いっぱい不安だったの!」
「っ……」
眉を寄せて切々と説かれれば説かれるほど、情けない顔になる。
まさか、穂澄がそんなことを考えていたなど知らなかったからこその、今。
まっすぐに気持ちを伝えられて、だからこそどうしていいのかわからなくなる。
「これまでだって、ちゅーしたらそれで終わりで……胸にも触ってこないし、隣でも全然平気で寝ちゃうし……座ってるときもそうでしょ? べったりくっ付いてても、全然手を出してくれないんだもん」
「お前……その言い方じゃ、まるでそうしてほしいみたいじゃないか」
「……もー。だから、さっきからそう言ってるじゃない」
「っ……」
はあ、とため息をついたまま見られ、口が“へ”の字に曲がる。
意思が揺らぐ、などという問題じゃない。
直接的に『どうしてそういう対象にしないの?』と言われているためか、わけがわからなくなってきた。
……俺が間違ってるのか?
彼女を大切にしたいという思いが当然あるからこそ、これまで、反応しそうになる“男”の部分をなんとか押さえ込んできたというのに。
よもや、正反対のことを望まれていたとはな。
意外というよりはにわかに信じられない感じだが、まぁ……今どきの子たちは早熟なのもあるし――……というより、自分の高校時代を顧みれば想像もついたはずなんだが、そのあたりは男女差があるだろうと勝手に解釈していたのも確かに事実。
それもあって、穂澄がそこまで思っていたことなどまったく考えもしなかった。
……だから駄目なんだろうな。
間違いなく、ソウならこんな俺を鼻で笑う。
「触りたいって思ったこと、なかった?」
「…………それは……」
「あった? ホントに? そう思ってくれてた?」
口ごもった途端、なぜか穂澄は嬉しそうに笑った。
どうしてそこで嬉しがるのかはわからないが…………そういうものなのか。
確かに、そこまで許してくれていたというのは、喜ぶべきことなのかもしれない。
だが――……本当にいいのか。
いや、いいはずがない。
俺みたいな明らかに“大人”が彼女に手を出してしまうのは、よしとされないに決まっている。
たとえ、本気で彼女を好きだと思っていても、だ。
……だからこそ大切にしたいし、それこそ成人するまで待ってもいいと思ったのだが、それはもはや古い考えになるのか。
「里逸も不安なだけなんでしょ?」
「っ……」
「でもっ……私だって、里逸しか知らないもん。比べる対象がないんだから、平気」
私だって初めてなんだから。
ふいに声色が変わり、また、特有の色を見せた。
穂澄は、もしかしたら俺よりもずっと精神年齢が高いのかもしれない。
いや……同等か。
物怖じしないのはいつ何時も変わりないことだが、まさかこんなときでもそうだとはな。
「確かに、間違った知識はいっぱい持ってるかもしれないけど……でも、実体験はないし」
――……だから。
ここまで懇願されるのが果たしていいことなのかはわからないが、少なくとも彼女にこれだけ言われた以上、俺は応えるべきだろう。
だが、おいそれと手を出せるわけがない。
今まで、ずっと悩んできたんだ。
だからこそ……今度は自分の番。
これまでずっと抱いていた、俺なりの考えを彼女に伝える番だ。
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