「あー、おいしかったー」
穂澄の母親に再度礼を述べてから駐車場へ向かうと、車に乗り込んですぐ穂澄は満足そうに腹を撫でた。
さすがに今は制服ではなく、私服。
だが、それもいつもとは違って、どこか彼女らしくない大人しめの格好をしていた。
「ね。おいしかったでしょ?」
「ああ、そうだな」
運転席に乗り込んだのを見てすぐに身を乗り出したのを見て、苦笑が浮かぶ。
……よっぽど嬉しかったんだろうな。
それはそれはおいしそうに食べているのを見て、穂澄の母親はえらく機嫌良さそうに追加注文を何度かしてもいた。
ちなみに、今まで俺たちが食事をしていた場所は、一般的な寿司屋とは少し違う。
もしかしたら回転寿司かとは思っていたのだが、指定された店はまるで正反対のような落ち着いたこじんまりとした店で。
中に入ると、長いカウンターにガラスケースという設備も見られたが、どちらかというと小料理屋のようで、目の前に並んだ食事も寿司会席のようだった。
先付けと前菜に刺身、煮物、茶碗蒸し、そして季節の天ぷらと小さめのちらし寿司に、刺身についてきた伊勢海老の汁物。
デザートは、だいだいの実をそのまま器に使ったゼリーで、穂澄はえらく気に入っていた。
俺の分も差し出すと、『いいの? ホントに?』などといつものような顔で聞いてきたが、同じように穂澄の母親からも差し出され、まるで小さな子どものように『ありがとー、ふたりとも!』と嬉しそうに笑っていた。
……しかし、本当によく食べるな。この子は。
あの量の会席だけでも十分多かったとは思うが、さらにゼリーを3つも平らげるとは……。
未だに『うー、苦しい』などと言っているが、それもそのはずだ。
「しかし……正直、拍子抜けだ」
「ん? 何が?」
「いや……てっきり、殴られでもするかと思ったからな」
「……あー、平気平気。お父さんじゃないもん」
「っ……そう、なのか」
「うん。まぁ……大丈夫でしょ。さすがに、お父さんが会いたいとかは言わないんじゃないかな」
「…………それもどうなんだ」
「大丈夫だってば」
くすくす笑いながら首を振られ、かなり複雑な気持ちになる。
……やはりネックは父親か。
まぁ、それもそうだろうな。
これだけかわいい娘なんだ。
俺はいったいどれほどの悪者になっていることか、想像しなくて済むのなら辞退させてもらいたい。
「……そういえば、穂澄には姉がいるんだったな?」
「うん。でも、ふたりとも結婚してるからねー。私も、たまにしか会わないよ」
「そうか」
話だけでしか聞いたことはないが、彼女にはふたりの姉と兄がいる。
すでに甥っ子もいるらしく、その子と遊ぶ機会があるから穂澄は“幼稚園教諭”になりたがったらしい。
ちなみに、もうひとりの姉も現在妊娠中で、1月には出産予定だという。
「そういえば……兄は何歳になるんだ?」
「お兄ちゃん? んーと6歳上だから……24歳だね」
穂澄の母からは出てこなかったからこそ、聞きそびれたというのもある。
だが、宙に視線を飛ばしたかと思うと、『でも』とさらに穂澄は付け足した。
「お兄ちゃん、お父さんと一緒に住んでるから。もっと会わないかなー」
「……何?」
「ん? ……あ、言わなかったっけ。うちね、両親離婚してるの」
「…………」
「…………」
「……そう、なのか?」
「うん。あ、昔ね? 昔。私が小学生のころだから……えっとー……んー……つまり、お父さんとパパがいるってこと」
突然聞かされたセリフに、目が丸くなった。
“お父さん”と“パパ”。
そういう使い分けをするのか――……と思ったが、そういえばたびたびそのどちらも耳にすることがあって、疑問ではあったんだ。
なぜ、母は“ママ”だけなのに、父だけ“パパ”と“お父さん”ふたつの呼称が出てくるのか、と。
『もー。里逸ってばお父さんみたい』と、口やかましいようなことを言ったとき必ず穂澄に言われる言葉なのだが、それは……なるほど。
自分の本当の父親、という意味なのか。
「私はママについてったんだけど、お兄ちゃんはお父さんについてったの。だから、お姉ちゃんふたりはパパの連れ子。でもねー、すっごい仲いいよ? 私のこと大事にしてくれるし……あ、ちなみに、お姉ちゃんとお兄ちゃんも面識はあるから、大丈夫」
「……そうか」
特に聞こうと思っていたわけではないが、先に穂澄が説明してくれたおかげで、何も言うことはなくなった。
別に、今の時代離婚がどうのでとやかく言うつもりもない。
友人の両親がそうなっている場合も割とあり、親世代のころとは違って、かなり身近になってもいるしな。
……だいたい、1週間で離婚したヤツが知り合いにいるんだ。
今さら、何を驚くこともない。
「…………よかった」
「ん? どうした?」
エンジンをかけて、一路自宅へと向かうべく国道を左折する。
そのとき、流れているクラシックにまじってぽつりと聞こえた気がして訊ねると、穂澄が小さく笑った。
「里逸が、認めてもらえて」
「っ……」
MT車ではないのだが、ついクセでギアに置いてあるだけの左手に、穂澄が両手で触れた。
細い指が絡まり、必然的に手を繋ぐ。
「学校の先生だって言ったら何か言われるかなーって思ったんだけど、逆に『じゃあ安心だわー』だったもんね。ママのああいうところ、好きかも」
「……そうだな」
正直、俺ももっと厳しいことを言われると覚悟していたからこそ、最後に『穂澄をよろしくお願いします』と頭を下げられたときは、恐縮して言葉もなかった。
「あ。CD変えた?」
「ああ。悪くないだろう?」
「うん。なんかこう……眠くならない曲ばっかりじゃない?」
「あえてそういう曲を選んだ」
「……へぇ」
車に積んであるCDは、どれもクラシックばかり。
基本的に交響曲であることが多いが、穂澄は初めてこの車に乗ったとき『えー! センセってクラシック好きなの!?』とあからさまに奇異の眼差しを向けてきた。
それでも、人は慣れるものなんだな。
先日、キッチンに立ちながら穂澄が“ラデツキー行進曲”を口ずさんでいたときは、素直に驚いた。
「……昔、ピアノを習っていたことがあるのは、話したか?」
「うっそ! ホントに!?」
「ああ。中学までだが……少しは今でも弾ける」
「えー、すごーい! 何それ、里逸ってなんでもできるね」
「……なんでもはできないだろう。ただ、かろうじて弾ける程度だ」
「え、それでもすごいよ! だって私、『猫ふんじゃった』しか弾けないもん」
「……懐かしいな」
「あはは。だよね」
昔は、ピアノを弾くのが好きだった気もする。
……いや、詳しくはもう覚えていない。
ただ、いつのころからか弾くのが嫌になり、結局やめた。
その理由ははっきりしており、単に妹が自分よりもうまく弾けるようになったことで、母の関心がそちらへ移った、というだけのこと。
たしか、姉もピアノを習っていたはずだが、部活が忙しくなったこともあって練習がおろそかになり、誰よりも最初にやめた。
そのときも母といざこざがあったが、よくは覚えていない。
「うちの母は、自分ができなかったことを子どもに託す……いや、押し付けるタイプなんだ」
ピアノだけじゃない。
幼いころから、さまざまな習い事をさせられた。
スイミング、空手、書道、茶道、そして当然英語と各教科の塾もそうだ。
毎日毎日遊びに走っているソウを見ては、内心ひどく羨ましかったのも覚えている。
たまに、どうしても遊びに行きたくてこっそり休んだこともあったが、そんなものはすぐに気づかれ、都度こっぴどく叱られた。
幼いころは気づかなかったが、今になって思い返すと『ああそうか』とわかる。
自分がかなえられなかった夢を、子どもに叶えてほしい。
そんなきれいごとではなく、子どもを使って自分の夢を代わりに果たさせる。
それは単なる同一化にすぎず、幼いころは『期待されている』と思っていたが、そうではなくて『単なる母の代わり』だと成長するにつれて気づいてしまい、途端に幻滅もした。
だから、今もなるべく母とは距離を置くようにしている。
母が欲しがったのは、俺の“学歴”と“英語力”。
姉と妹にもそれぞれ望んだものがあり、だからこそ同じ市内に住んでいる3人なのに、あまりうまくいっていないように見えるのも仕方ないことなのだろう。
幼いころから厳しく、叱るというよりは檄を飛ばされて育ってきた。
だからこそ、うまく笑えないのはそのころから身についた防衛本能の一種なんだろう。
へらへらと笑っていれば、怒鳴られる。
褒めてもらいたくて近づけば、意にそぐわなくて切り捨てられる。
……だから、穂澄に惹かれたのかもしれないな。
ころころと表情を変え、にっこりと惜しむことなく俺に笑いかけてくれるから。
「……里逸?」
「ん? どうした?」
ふと、コンビニに入っていく親子連れを見てしまい、妙なことを思い出した。
穂澄心配そうに顔を覗きこみ、『青だよ?』と信号を指さしたのを見てアクセルを踏むと、珍しく後部車両がなかったこともあって、問題にはならなかった。
それでも、俺が妙な顔をしていたことは、わかっているんだろうな。
……もしかしたら、穂澄と彼女の母との関係を見て、少し羨ましかったのかもしれない。
母がああいう考え方をしていたら、きっと俺は今の俺じゃなかったんだろうな、と。
もう少し器用に生きられたのかもな、と。
考えてもどうにもならないことだが、この年になってもなお、どこかで引っかかっているらしい。
……情けない話だ。
心配そうな顔をして俺を気遣ってくれる穂澄に手を伸ばして頭を撫でると、擦り寄るように両手で包んでくれた。
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