『久しぶりね。元気だったの?』
 自分と交代で穂澄が風呂に入ってから、母へと電話をかけていた。
 久しぶりに聞く声は、留守電より少し元気そうで明るい。
 だが、もともとプラスの感情をこめて喋るような快活な人でないことはわかっているからこそ、自分はいつまでも淡々とした喋りだった。
「ああ。……みんなは? 元気なのか?」
『ええ。この間、悠衣(ゆーい)が来てね。孫も見せにきてくれたわ』
「そうか」
 妹の悠衣は、実家から車で10分もかからない同じ市内に住んでいる。
 今年、幼稚園の年長と年少になるふたりの子どもがおり、どちらも非常に賢い子だとは聞いている。
 ……実際、幼い子どもの何を見て“賢い”と言えるのか俺にはわからないが、母はいつも自慢げに俺に話す。
『それで? 佐々原さんとの交際、どうして断ったの?』
 まったく脈絡もないことを持ち出され、“またか”と内心はげんなりした。
 佐々原さんに謝罪して“なかったこと”にしてもらったにもかかわらず、母は『なぜ』と執拗に責める。
 確かに、俺にとって彼女はきっと申し分ない相手だったんだろう。
 だが、“だった”とはっきり思える以上、俺にはもう関係のない相手。
 今は穂澄がそばにいるからこそ、彼女以外の女性の名を口にするのも、なんとなくはばかれるというか正直気分が悪い。
「どうしても何も……俺には付き合っている相手がいる。それだけだ」
『まぁ……そうだったの? だったらどうしてもっと早く言わないの』
「どうして、と言われてもだな……そこまで逐一報告する必要はないだろう?」
 俺を幾つだと思ってるんだ。
 中学生や高校生じゃない。
 もう、自分のことは自分で責任を持ち、何事も決めうることのできる成年者。
 なのに、どうして親に請わねばならない。
「っ……」
 ガラ、と音がして穂澄が姿を見せた。
 いつものように頭へタオルを巻いており、目が合うと『ごめん』と唇だけで囁いてから両手を合わせてリビングに向かう。
 そのとき、ソロソロと足を忍ばせて向かった後ろ姿に、思わず小さな笑いが漏れた。
『それじゃあ、一度連れていらっしゃい』
「……いや。それは……」
『当然のことでしょう? あなたの妻になるべき人なのよ? 一度くらい、きちんとあいさつをしにこないでどうするの』
 静かな口調であり、たしかにもっともな言い分かもしれない。
 だが、俺にはまるで違って聞こえる。

『高鷲家の嫁にふさわしいかどうか見定めるから、連れてきなさい』

 まるでそう命令されているような感じがして、受話器を握ったまま閉口せざるをえなかった。


「……あ。さっきはごめんねー」
 こたつに入りながらタオルで髪を拭いている穂澄が、リビングに入った俺を見て眉を寄せた。
 だが、そんな顔をしてもらうほどのことじゃない。
 俺にとってはむしろ、穂澄が出てきてくれたことで『また』と電話を切る口実ができたんだから。
「……紹介しろ、と言われた」
「ん? ……え、私?」
「ああ」
 髪をかきあげた穂澄を真正面から見ると、まばたきをしてすぐ、なぜか困ったように視線を逸らした。
 たしかに、困るのも無理はないだろう。
 ……今朝の俺だってそうだ。
 急に“親が会いたいと言っている”と言われたところで、すんなりうなずけるはずがない。
 ましてや、彼女はこれが初体験。
 高校生にとって、自分の親よりもずっと年上の人間に対することが、たやすいはずもない。
「んー……じゃあ、女子大生ってことにしとく?」
「……何?」
「や、ほら。さすがにさー、いきなり自分の息子が『実は女子高生と付き合ってる』なんて言ったりしたら、倒れちゃうんじゃないかと思って」
 しばらく考え込んでいたかと思いきや、また突拍子もないアイディアをぶつけられた。
 ……どこがどうなったら、そうなるんだ。
 会う会わないという問題をはるかに飛び越えた内容になっており、肝の据わり方というか、根性のありように薄っすらと唇が開く。
「あ、でもでもー。これでもきっちり髪を上げて今日みたいなおとなしめーなアネ系の格好したら、意外と同僚にも見えるかもよ? ほら、新卒みたいな」
「……お前な」
「だってさー、やっぱりびっくりする以前の問題でしょ? 彼女が女子高生とか、どんだけよどんだけ! ふつーの親だってびっくりするのに、里逸のお父さんとお母さんでしょ? やー、むりむり。絶対むり。絶対、わかってもらえない」
 いったいどんな親を想像しているのかはわからないが、まぁ、半分以上はそれで正解だろうから黙っておく。
 たしかに、高校教師の俺が実は教え子に手を出したなどと知った日には、狂ったような勢いでそれこそ家に押しかけてくるかもしれない。
 取り乱しようが目に浮ぶが、かえって父は何も言わないかもしれないな。
 母だけが半狂乱になって『そんな息子に育てた覚えはない!』などとわめきそうだが、父は『そうか。仕方ないだろう』とうなずいてくれそうだ。
「ね。行くなら、設定考えてから行こう」
「……何を言い出すんだ、いったい」
「や、だって! やっぱ、まずいでしょ? 女子高生とか! 親御さん倒れちゃうかもよ?」
 ないない、と手を横に振りながら唇を尖らせたのを見つつも、ため息が漏れた。
 まさか、そういう方向に話が進むとは思わなかったが、ここでひとつ訂正が必要だな。
 そして、俺の考え方もひとつわかってもらいたいところだ。
「嘘をつくのは好きじゃない」
「……っ」
「嘘は、つくのもつかれるのもどっちも嫌いだ……というのは、穂澄も知っているだろう?」
 ひとつ嘘をつけば、さらにまた嘘を重ねなければならなくなる。
 そうしてどんどん膨らんだ嘘は、結局ちょっとした弾みで崩れおち、すべてが露呈する結果になる。
 だが、嘘が剥がれたからといってゼロに戻るわけじゃない。
 嘘はマイナスを生む。
 嘘をついた人間は、信用されない。
「だから俺は、正直に穂澄のことを伝えた」
「っな……!!」
「自分の勤める学校の生徒で、18歳ではあるが身分は学生。ましてや今は共通テストを控えている大切な受験生だから、実家に連れて行く予定はない、と。はっきり答えておいたが……何か問題があるか?」
 ぱくぱくと俺を見たまま口を動かす穂澄に淡々と説明すると、ほどなくしてから、ぎゅうっと一文字に結んだ。
 視線は合ったまま。
 だからこそ、なんともいえない。
「……いいの?」
「何がだ?」
「だって……ホントのこと言って……」
「当然だろう? 俺が好きになった相手が、女子高生だった。これは“今”の現実なんだから、ありのままを伝えて、どこに問題がある」
「……それは……」
「だいたい、3月になればもう女子高生じゃなくなるだろう? そうすれば、単にかなり年下というだけだ。人に誤解を与えかねない冠は外れる」
 今の状況を人に説明すれば、それはかなりの語弊を与えかねない。
 だが、もう12月。
 あと3ヶ月もすれば、穂澄は卒業する。
 そうなれば、単に“元”専科教師と“元”教え子。
 それに、今でさえ穂澄が言うように後ろ指差されるようなことなどしていないのだから、正々堂々といて何が悪い……とさえ、思えるようになった。
 それはやはり、“今”の俺だから。
 穂澄と一緒にいるようになって変わってからこそ、の考え方だ。
「…………ありがと」
「いや。むしろそれは――……俺のほうが先だ」
「……え?」
「俺を、きちんと親御さんに紹介してくれて、ありがとう」
「っ……」
「穂澄が、まったく偽りなく俺を紹介してくれたと知ったとき、心底嬉しかった」
 もしかしたら、穂澄は俺を紹介できないんじゃないかと思っていたし、したとしても何かを伝えずに……ではないかと思っていた。
 だが、そんなことはまるでなく、すべてをきちんと伝えてくれていたことが素直に嬉しかった。
 嘘も、偽りも、そこには何もない。
 等身大の自分。
 穂澄の中にきちんと根付いている証拠を見せられたからこそ、俺も誠意には応えなければならない。
 これは義務だ。
 穂澄が先に行動してくれたのに、俺が誠実でなくてどうする。
「……もぉ……当たり前でしょ」
 頬に触れると、くすりと笑ってうなずいた。
 だが、世の中その“当たり前”ができない人間のほうが多い。
「…………ん」
 引き寄せるように口づけ、髪を撫で――……たところで、顔が離れた。
「……え?」
「髪を乾かしてこい。風邪を引く」
「…………あ。忘れてた」
 すぐに離れた瞬間、穂澄はまるで名残惜しそうに俺を見つめた。
 その顔は嫌いじゃないし、色っぽくてぞくりとする。
 だが、すっかり冷たくなってしまった髪をそのままにしておいていいはずはない。
 …………別に、今じゃなければならない理由はないんだ。
 慌てたように洗面所へ行った背中を見送りながらそんなことを考えると、人知れず苦笑していた。


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