「……うまい」
「よかった」
 こくり、と淹れ直したお茶を含んだ里逸が、吐息とともに小さく呟いた。
 多分、あえて言ったわけじゃなくて無意識のほうが大きいはず。
 だけど、どうやら聞こえたらしい対面に座るふたりは、あからさまに嫌そうな顔をした。
 花豆の煮物、筑前煮、生ハムのマリネ、それにお漬物とお寿司に天ぷら。
 大きなテーブルに並んでいるそれらのお料理は、並んでいたときから少し減ったかな? 程度で、ざっくりと姿を消しているものはなかった。
 どれもこれも、なんとなく『ん?』ってなるっていうのかな。
 なんかこう……ちょっと惜しい感じ?
 ただ、唯一お寿司だけは市販されているもののようで、『どこで食べても変わり映えしない味』だったせいか、里逸も箸をつけていた。
 人間の味覚って、本当に素直なんだなーと思う。
 だってほら、普通は『よその家のごはんはおいしく感じる』のに、逆なんだもん。
 ある意味、びっくりした。
 ……っていうのは、里逸のことね。
 私はぶっちゃけ、ジャンクフードだって食べなれてるし、全然普通に食べることはできる。
 でも、里逸はダメらしい。
 よっぽど私の味を好んで食べてくれているのか、ひと口ずつ食べはしたものの、そのあとはもう好んで箸をつけようとしなかった。
「あらそうなの。じゃあ、今はお忙しいのね」
「ええ。どうしても年末年始に重なってきますので。決算関係もありますし……」
「あらあら。そんなお忙しいときに、申し訳ないわ。東京から、わざわざ来てもらってしまって」
 こんなことで、と付け足したお母さまは、なぜかちらりと私を見た。
 んー。よくわからないけど、そうやってちょこちょこ喧嘩売るのやめたほうがいいのになぁ。
 まぁ、しいて言うならお父さまと有里さんが静かだから、助かるっちゃ助かるけど。
「……ああ、そうそう。宮崎さん……だったかしら」
「はい?」
 ものすごくわざとらしい言い方で噴きだそうになったけど、寸でで押さえた私は偉いんじゃないかな。
 ぶふ、とかお茶を噴かなかったんだから、褒めてくれてもいいと思う。
「あなたのこと、調べさせてもらったわ」
「……はい?」
「っ……な……!」
 どこから取り出したのか、お母さまはB5サイズの封筒をテーブルに置いた。
 やたら厚みがあるそれには、“静岡東サーチング・センター”とある。
 ……あれ。もしかしてこれって、興信所とかってやつじゃないの?
 うっそ、まじで! ちょ! すごくない!?
 と、いつものテンションだったら、間違いなく里逸の腕を叩いて笑うところだけど、それも我慢我慢。
 だけど、代わりに里逸は音を立ててテーブルを叩いた。
「……どういうつもりだ」
「どうもこうもないでしょう。高鷲家にふさわしい子かどうかくらい、調べるのは当然よ?」
「そういう問題じゃないだろう! これはプライバシーの侵害だぞ!?」
「あら。こういう会社が成り立っている以上、プライバシーも何もあったものじゃないわ。対価さえ払えば、手に入らないものなんて何もないんだもの」
「何を言っているのか、わかってるのか……!」
「ええ、もちろん。……さすがはプロね。見た目からじゃわからない情報が、全部入ってるわ」
 冊子を取り出した彼女は、冷たい表情のまま薄く笑う。
 ……あー。わかった。
 ずーっと誰かに似てるなと思ったんだけど、あれだ。
 アニメで見た、白雪姫の継母。
 あの人に似てるんだ。
 なんて、彼女の話からまったく逸れたことを考えていることは誰にもバレていないようなので、小さく笑ってからお茶を含む。
「ご両親、離婚されているのね」
「ええ。それが何か?」
「何か、じゃないでしょう? そんな環境で育ったあなたが、まともなはずはないと言っているの」
「お言葉ですが、私の何を見てそうおっしゃっているのか、意味がよくわかりません。そちらの報告書には、私が前科持ちだとでも記されているんですか?」
「……そういうことを言っているのではなくて――」
「そもそも、そんな会社名は存じておりません。どうせ私を調べるのであれば、県外の業者を使うなんてもってのほかですね。私なら、同じ神奈川の……いえ、もっとも冬瀬に近い場所に事務所を構えているところへ依頼しますが」
「な……っ」
「それ。拝見してもよろしいですか?」
 じぃ、とお母さまを見つめたままさらりと告げ、“お願い”のところでにっこり笑うと、たちまち嫌そうな顔をした。
 でも別に、どうってことはないし、なんとも思わない。
 だいたい、離婚がどうのなんてことを言われたのは、これが初めて。
 友達にだって何人もいるし、別に珍しいものでもなんでもない。
 ていうか、離婚なんて親が勝手にしたものであって、いわば私たちだって被害者みたいなものなのに。
 そんな言い方するとか、ほんと、笑っちゃう。
 悪いけど、この人の価値観とは絶対的に相容れない。
「……ふぅん。なんか、当たり障りのないことしか書いてませんね」
「それは……っ……仕方ないでしょう。業務上の問題もあるだろうし……」
「そうじゃなくて。私に問題がないから書きようがないってことは、お母さまも理解されてますよね?」
「…………」
「前科があれば、それこそ楽しそうにいっぱい書けるでしょうけれど。内容、なんなら読み上げていただいても構いませんよ? まぁさすがにウチの学校の事務は、口も堅いですからね。生徒の情報を漏らしでもしたら、おおごとですもん。成績云々なんて詳しいことを書けなかったのはそういう理由でしょうけれど、なんならお教えしましょうか? 先日終わったばかりの2学期末考査の結果、週明けにはわかると思いますけれど」
 パソコンで打たれている文字は、すべて自分の身に覚えのあることばかり。
 どこでバイトしてるだの、どこに住んでるだの、まぁ、この程度ならば素人だっていくらでも調べられる。
 ご丁寧に、このあいだみぃと一緒に行ったカラオケに入るところの写真も添えられていた。
 ……んー。映りがよくなくて、個人的には剥ぎ取って撮り直したい気分だけどね。
「県外の人間を調べるなんて、容易なことじゃない。費用ばかりかさむだけです。……お金、ムダにしましたね」
「っ……く」
「どうせだったら、ドギッシュアシストとかに頼めばよかったのに。少なくとも、あそこには私を誰よりもよく知ってる人間がいます。同じお金払うなら、そっちにすべきでしたね」
 ご愁傷さま、と言ってしまいそうになったけれど、さすがにそれはまずい。
 代わりににっこり微笑み、冷めてしまったお茶を含む。
 すると、わなわな両手を震わせたお母さまが、テーブルへ叩きつけた。
「でもね! あなたはやっぱり家にはふさわしくない人間なのよ! たかが女子高生が、大きな顔をしないでちょうだい!」
「あら。お言葉ですが、お母さま。現在女子高生ということは、今後何にでもなれるということをご理解いただいたうえでのお言葉でしょうか?」
「なんですって!?」
「来月の共通テストを受ける予定ですので、出願はそれ以降になります。つまり、今ならばなんにでもなれるんですよ?」
「そういう問題じゃ――」
「佐々原さん、でしたっけ?」
「っ……」
「そちらの方のご職業を大変お気に召されているようですが、でしたら同等……いえ、それ以上の地位に就いてみせましょうか? 開業医がよければ開業医に。官僚がよければ官僚に。お母さまが望んでいる職業に就くのも可能です」
「な……」
 ちらり、というよりはもっと冷たい眼差しを向けると、佐々原さんは喉を動かした。
 ……そういう顔したら負けだって、何度言われたら気づくのかな。
 少なくとも、今の私に気おされているようじゃ、今後誰にだって勝てるはずもないのに。
「そうすれば里逸さんとのこと認めていただけるんですよね? だったら、いくらでも――」
「駄目だ」
「っ……」
「それは駄目だ。俺が許さない」
「……里逸……」
 これまで何も言わずに聞いていた里逸が、腕を組んだまま凛とした声を発した。
 静かに私を見下ろし、緩く首を振る。
 ……だって。
 いつもみたいについ唇を尖らせると、小さくため息をついてから、里逸がふたりへ向き直った。
「穂澄には穂澄の人生がある。これ以上、ややこしいことに関わらせるつもりはない」
「っ……あなたね」
「だいたい、非常識だと思わないのか? 職業に貴賎はないという言葉があるだろう。そういうものの見方でしか人をはかれないことのほうが、よっぽど浅ましいとは思わないのか」
「……口を慎みなさい。誰に向かって言っているの!?」
「その言葉、そっくり返させてもらう。……いったい誰に向かって口を利いているんだ。俺が選んだ相手をこれ以上侮辱するのであれば、今後一切関わらない」
「ッ……なんですって!?」
「黙って聞いていれば、好き勝手なことを。……呆れてものも言えないとは、このことだ」
「親に向かってなんてことを言うんですか!!」
「親だからといって、なんでも言っていいことにはならないだろう!! いい加減、穂澄を僻目(ひがめ)で見るのはよせ! 誰が土産を用意したと思ってるんだ……! 突然自宅に押しかけてきただけでなく、無礼極まりない態度を見せつけたのは誰だ? そんな相手に土産も何もあるかと言ったにもかかわらず、穂澄は否定したんだぞ?」
「っ……」
「そもそも、勝手に人の個人情報を調べあげるよう依頼するなど、正気の沙汰とは思えない。失礼どころの話じゃないだろう! 秘事を知られた穂澄の気持ちも考えろ!!」
 ぴしゃりと里逸が払った途端、お母さまは悔しそうに歯を噛みしめた。
 だけど、今まで隣で自信満々の顔をしていた佐々原さんは、ひどく困った顔をしている。
 ……ほんと、正直な人だよね。あの人って。
 自分に分が悪いっていうのだけは、ちゃんとわかってるらしい。
「……ありがと」
「っ……」
 静けさを取り戻した室内を一瞥してため息をついた里逸の顔を覗きこみ、真正面から微笑む。
 これが、今の私の何よりも素直な気持ち。
 だって、正直ここまで里逸が私を庇ってくれるなんて思わなかったんだもん。
 まさにアウェイ真っ只中の現在。
 にも関わらず、里逸はちゃんと私を護ってくれた。
 ……嬉しかった、なんて言葉じゃ済ませない。
 誇らしくて、頼もしくて、何よりも幸せだと思った。
「…………」
 さて。
 改めてみんなの顔を見てみると、それぞれ思い思いの表情を浮かべていた。
 ただひとり。
 姉の有里さんだけが、静かにお茶を飲んでいるけれど。
 ……ん。それじゃ、まぁこのへんでひとつ“おひらき”にしようかしらね。
 残っていたお茶を最後まで飲みきってから顔を上げると、いつもの私らしい笑みが浮かんだ。


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