「……あれ?」
 畑から戻ってきて、玄関を開けてすぐ。
 さっきまでみんなが集まっていた部屋から、姉の有里さんが出てきた。
 ……だけど、ちらりと私を見てすぐに背中を向ける。
 んー。
 もしかしなくても、やっぱり快くは思われてないらしい。
「有里さんっ」
「…………」
 にっこり笑ったまま彼女を呼ぶと、足を止めて振り返ってはくれた。
 けれど、彼女の視線が向かうのは私の両手。
 ああ、そうだよね。まぁ、気持ちはわかる。
 だって、両手いっぱいに泥だらけの里芋を持ったままなんだから。
「先に、手を洗ってきたらいいんじゃない?」
 里逸にそっくりな顔だけど、全然違う声。
 ていうか、今までの食事会っぽいものの中でも、彼女は一切喋らなかったから、今が初の会話。
 里逸と同じ、あまり感情のこもっていない声は、どことなく人を寄せ付けにくい感じがあって。
 表情をほとんど変えることがなかったのもあってか、冷たい印象を受けた。
「でも、この里芋を洗うようにって、おばあさまに言われたんですが……どこに置いたらいいのか、よくわからなくて」
「……キッチンはこっちよ」
 いらっしゃい。
 再び背を向けられながらそう言われ、思わずにやけた。
 やっばい。
 この人、里逸より優しい。
 見た目は冷たそうで、ほうっておきそうな人なのに、多分中身は全然違うんだ。
 ……長女って、そういうところあるのかな。
 なんか、やたら面倒見がいい感じがぷんぷんしてるんだもん。
 だって、こんな泥んこまみれの手をしてるのを見たら、ふつーはあからさまに嫌そうな顔をして放っておくじゃない?
 ましてや、私は明らかに部外者。
 お母さまにはまったく歓迎されてないってわかるからこそ、娘なら私を敵視してもおかしくないのに、ちゃんとキッチンまで教えてくれるんだもん。
 ……里逸のお姉さんだからこそ彼より手ごわいかもしれないけど、きっと彼よりも中身は熱い人だ。
 素直にあとをついていくと、広々とした昔ながらの台所に案内してくれただけでなく、『直接ここで洗っていいわよ』と水まで出してもらえたから、予想的中を実感。
 だからこそ、ただただ嬉しかった。
「ありがとうございますー!」
 ごろごろと音を立てて里芋をシンクに置き、ひとつひとつ丁寧に泥を落とす。
 だけど、その様子をまるで見守るかのように、有里さんは隣から動かなかった。
「……里逸も物好きね」
「あ、私ですか?」
「ええ。まさか、女子高生を連れてくるとは思わなかったわ。……よく、うちの敷居をまたげたものだと感心する」
「お母さまも、同じこと仰ってましたね」
「……あの人は昔からああよ。子どもが勝手に決めるのが面白くないだけ。自分の思い通りに動かせないと、それだけで怒鳴りつける……迷惑ね」
 淡々とした喋り方は、少し前の里逸そのもの。
 だけど、声は彼よりも高くてゆっくりとしているからか、妙な威圧感はまるでない。
「だからと言って、別に私もあなたを認めたわけじゃないけど」
 さらりと本音をぶつけられ、最後の里芋を洗いながら口角が上がった。
 さすがは、里逸のお姉さま。
 ……いいえ。
 さすがは、高鷲家の長女。有里さま。
 そうでなければ、おもしろくない。
「別に、あなたの職業がどうのというわけじゃないし、今後どうなるかでもないのよ。そうじゃなくて、まだ何もわからない以上、いいも悪いも判断できない、というだけ」
「それはそうですよね。だって、今日が初対面なんですもん」
「そうね。……まぁ、なかなか次の機会はないだろうけど」
「そうですか? 私個人の意見を申しあげれば、またぜひ遊びにこさせていただきたいですけれど」
 シンクの端に残った泥を手で拭い、しっかり水で流してから、両手を洗う。
 里逸の家にあるのと、同じタイプのハンドソープ。
 まったく同じ甘い桃の匂いが漂って、なんだか嬉しくなる。
「宮崎さん、だったわね」
「有里さんって呼ばせてもらってるんですもん、穂澄って呼んでください」
「…………穂澄ちゃん、でいいかしら」
「はい」
 素直に言い直してくれるあたり、里逸ともお母さまとも全然違う。
 抑揚のあまりない声だけど、表情はさっきまでと変わらないから、特に嫌がられてはいないようだ。
 タオルを借りずにポケットから出したハンドタオルで両手を拭うと、腕を組んだ彼女がシンクにもたれて私を見つめた。
「あなた、何が目的なの?」
 眼鏡越しの、芯の強い瞳は里逸と同じ。
 でも、まつげは彼女のほうがずっと長くていかにも女性らしいから、雰囲気は違った。
 あまり化粧っけのない感じだけど、だからこそすぅっとしたキレイさがある。
 もしかすると、短い髪だから、顔だけ派手にしてしまうと浮いてしまう、というのを理解しているのかもしれない。
 ひと粒ダイヤのネックレスと、このまま仕事にでも行けそうな飾り気のないカットソーとパンツ姿は、いかにも仕事ができる女性そのものだった。
「私の目的は、里逸さんを振り向かせることです」
「……じゃあ、それはもう叶ったってことかしら」
「そうですね。なので、次の目標は…………よそ見をさせないこと、です」
 にっこり笑って首をかしげるものの、言い切ると同時に笑みが変わった。
 誰にも負けない。
 誰にも譲らない。
 だって、これが私の決めた道。
 たとえ相手が里逸のお姉さんだとしても、遠慮する必要なんてないんだから。
 彼を好きでいることには大きな理由があるし、だからこそ毎日努力してる。
 その自負があるから、横から急に現れた誰かに彼をかっさらわれるなんて想像もできない。
 どんな女が現れても、少しずつ少しずつ私色に染めた彼が、簡単になびくとは思えないからだ。
「……里逸のどこがいいの?」
「んー。たしかに、有里さんにとってはただの弟にすぎないかもしれませんけれど……カッコよかったんです。なんか……鋭くて」
 小さくため息をついた彼女に、苦笑が漏れた。
 思い出すのは、初めて会ったあの授業のとき。
 高校1年でこれからいろいろ楽しんで絶対後悔しない! って決めた矢先に出会った彼は、背筋が伸びていて、何ひとつ怖いものがないみたいな顔をしていて、だからこそゾクりとした。
 ああ、こういう人を大人って言うんだろうな、って。
 そう気づいてしまったからこそ、背伸びしていただけの自分や周りの同級生が、急に子どもっぽく思えて恥ずかしかった。
 ……だから、好きになった。
 どうしても欲しくなった。
 私だけのカレシになったとき、この人がどういう顔を見せるのか考えるだけで、ぞくぞくした。
 …………とか言ったら、ヘンタイに聞こえるかもしれないけど、だって本気だったんだもん。
 でも、人間って本当によくできてるんだよね。
 想像できることは実現できることだって言うけれど、まさにそのとおり。
 私だけのカレシになってくれた里逸は、自分が考えていた以上にどきどきするような顔を見せてくれる。
 たまらない、としか言えないような顔を。
「私、別にお金に困ってるわけでもないですし、財産がどうのなんて馬鹿なことも言いません。ただ、里逸さんのそばにいたいだけです」
「じゃあ、万が一のために相続放棄の念書を書いてって言ったら、書いてくれるのかしら」
「構いませんよ。拇印でよければ、今すぐにでも書きますけれど」
 まっすぐ見つめてくる彼女を見たままうなずき、今洗ったばかりの右手の親指を見つめる。
 ……ていうか、こーゆーのって私が勝手に決めていいのかな。
 そもそも、相続うんぬんの場合、権利があるのは里逸であって私じゃないだろうに。
 でもま、なんでもいいんだけど。
 自分ひとりどころか、ふたりくらいなら必死に働けばなんとかなることを知っているから、特に怖いものはない。
 高校を卒業すれば大手を振って仕事だってできるんだし、無理に大学へ行く必要はない。
 “職業に貴賎はない”
 さっき言ってくれた里逸の言葉が、すごくすごく嬉しかった。
 だからこそ、やれる。
 どんな仕事だって、仕事は仕事。
 そこに自分なりのプロ意識とプライドを持てば、人は強い。
「…………とんだお嬢さんね」
「え? ……何がですか?」
「うちに財産なんてあるわけないでしょう? 父親だって、普通の会社員なんだし。だいたい、この家を見ればわかるじゃないの。古びていて、リフォームも一切入ってないんだから」
 何もわかってないのは、あそこにいる人たちだけね。
 肩をすくめて小さく笑った有里さんは、すぐそこの柱に触れた。
 濃い茶色の柱は、近づくと小さく亀裂が走っている。
 長い長い年月を感じさせるような、“いかにも”っていう感じのする柱。
 コンロのそばにあるからか、少しだけ油が染みているようにも見える。
「あなたに怖いものなんてないんじゃないの?」
 静かにそれだけ口にした彼女は、音もなく背中を向けると奥の廊下へ向かっていった。
 細みの身体つきは、里逸とは全然違う。
 たしかに、身長こそ私と同じくらいだけど、丸みを帯びていてどこからどう見ても“女性”そのもの。
「あのっ、有里さん!」
 振り返ってくれるんじゃないかと期待してたものの、彼女はそんな気配をまったく見せなかった。
 だからこそ、小走りで近づいてから、改めてにっこり笑う。
「ID、教えてください」
 有無を言わせないように、スマフォを取り出して早速“開始”モード。
 だけど、彼女はスマフォと私とを見比べながらも、まったく表情を変えることなく『いいわよ』と小さくうなずいただけだった。


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