「ん?」
 里逸が飲み始めて、30分くらい経ったかもしれない。
 もたれたまま雑誌を読んでいたらふいに背中を押され、首だけで振り返る。
「何? 寝るの?」
「……トイレまで断らなきゃ駄目なのか?」
「え、ごめん」
 小さくため息をついた里逸に、すかさず謝る。
 なんかわからないけど、なんとなく謝っちゃったんだよね。
 だけど、里逸もそれはわかったのか、小さく笑うとドアに向かった。
「…………」
 目の前に置かれているグラスには、2センチくらいお酒が残っている。
 無色透明の液体。
 ついついドアを確認してから手を伸ばし、ほんの少しだけ匂いをかいでみると、日本酒特有の匂いがした。
 ……って、それは当然だろうけど。
 私は普段、料理でも普通の日本酒を使うから、匂いだけなら知ってる。
 でも、舐めたこともないんだよね。
 …………。
 ……ちょっとだけ。
「っ……ぅ! まずっ!」
 恐る恐るほんのひと口だけ含むと、途端に強い香りと独特の味が口いっぱいに広がって、慌てて両手を口に当てていた。
 だ、だって!
 ちょ、何これ!
 全然おいしくない!!
 里逸は、飲みながらずっと『甘い』とかどうのこうのって言ってたのに、全っ然甘くないじゃん!
 びっくりするような味と香りに、舌がぴりぴりするどころかなんか……うぅ、気持ち悪い。
 慌てて立ち上がり、水を飲むべくキッチンへ――……行こうとしたら、里逸とドアでばったり。
 驚いたような顔を見て『やばい』とは思ったけど、今はそんなことよりも何よりも、この口の中をどうにかするのが先!
 うぅ、ほんのちょっと舐める程度だったのに、こんな破壊力なんて。
 正直、日本酒をかなりナメてたらしい。
「っはー……」
 グラスになみなみと水を注いで飲み干し、シンクに両手をつく。
 …………怒られるかな、もしかしたら。
 や、もしかしたらっていうか、絶対怒られるに決まってるよね。
 だって、バイトだってすっごく言われたんだもん。
 てことは、お酒を飲んだなんてバレたりしたら、法律がどうの……ってお説教がこんこんと始まるに違いない。
「…………」
 こほん、と咳払いをひとつしてからドアに近づき、そうっと様子を伺う。
 だけど、里逸はニュースに変えたテレビを眺めていて、私を見ることはなかった。
 ちなみに、グラスの中身はすでに飲み干されたらしく、空っぽになっている。
 ……あれ。怒らない……のかな。
 リビングに戻ってから後ろ手でドアを閉めるものの、里逸の反応はなし。
 だからそのまま、定位置へ戻ってみる。
「…………」
 無反応継続中。
 ……って、それはちょっと違うか。
 よいしょー、とばかりにもたれると、少しだけ身体をずらしてテレビに向き直った。
 でも、里逸って本当に私がくっついてても『邪魔だ』とか『鬱陶しい』とか言わないよね。
 それが嬉しいから、ついついこうしていたくなるんだけど。
「……そんなに、うまいものでもないだろう」
「え?」
「何も、今から覚える必要はない」
 テレビがCMに切り替わると、里逸が髪を梳いた。
 その行為そのものにも驚いたけれど、少しだけいつもと違う口調っていうか……優しい声に、改めてびっくりする。
「…………」
「……どうした?」
「え……や、ううん。別に……」
 本当はこれっぽっちも『別に』じゃないけど、まっすぐ見つめちゃったせいか、慌てて視線を逸らすしかできなかった。
 だって、なんていうのかな。
 なんかこう……今の里逸が、やけに里逸っぽくなくて。
 そもそも、怒らないっていうのがびっくりだよね。
 いつもだったら、すごい剣幕で叱られるのに、まさか……まさかの事態じゃない? これって。
 それに、やっぱ……違うんだよね。里逸が、いつもとは全然。
 普段の晩酌のときと表情も違えば、雰囲気も違うんだもん。
 ちょっとだけ、どきどきしたじゃない。
 ……やばい。
 顔赤いかも。
「これでも、かなり甘いほうなんだぞ」
「え、そうなの!? すっごい苦かったよ? 舌とか、ぴりぴりしたし」
「そう感じるのは当然だ。……飲めない年齢なんだから」
「……う」
 首だけを曲げて里逸を見たら、そこで初めて眉を寄せた。
 でも、眼差しがいつもと違って、やっぱり『う』と言葉に詰まる。
 ……何よもぉ。
 なんか、いつもと違ってすごい余裕めいてるっていうか、なんかこう……大人っぽくて。
 いや、あの、自分でもなんかヘンなこと言ってるっていうのはわかるよ?
 そもそも、『大人っぽい』って、大人に遣えない言葉だし。
 でも、いつもと全然違うんだもん。
 眉を寄せてはいるものの、いつもみたいに『だから言っただろう!』なんて叱るときとは全然違って、なんかこう、呆れられてるっていうか。
 ……あれ、もしかしてそゆこと?
 馬鹿なのかコイツはとか、ついに悟っちゃったってこと?
「…………」
「なんだ?」
「もしかして、馬鹿にしてる?」
「……どこを取ったらそうなるんだ」
「違うの?」
「褒められてないことだけは、確かだがな」
「…………まぁ、それはわかるけど」
 はぁ、とつかれたため息が、お酒の匂いで一瞬息が詰まる。
 ……もしかして、酔っ払ってるのかな。
 ああ、なるほど。
 だから、いつもと雰囲気が違うんだ。
 ちょっとだけ目元が優しいのも、口調に棘がないのも、雰囲気がまろやかなのも、全部ぜーんぶお酒のせい。
 だとすると、やっぱりお酒って魔力とイコールなんじゃないの?
 頬へ躊躇なく触れた里逸を見て不覚にもどきりとしつつ、そんなことを今さら思った。


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