すーはーすーはー。
 ……よし。
「巧君」
「はい?」
 しっかりと呼吸を整えてからじゃないと、彼の名前を呼ぶことができない私は小心者でしょうか。
 彼から『彼氏お試し期間』の提案をされてから、早いものでもう1週間がすぎていた。
 なのに……です。
 まだまだ私は、どうしても彼の名前を呼ぶことに抵抗があった。
 おかしいな。おかしいよね。
 だって、お試し彼氏を宣言される前はふつーに呼べていたのに、急に意識しちゃうんだもん。
 しかも、彼は――。
「……彩さん?」
「はいっ!?」
 そう。
 当然のように、私を名前で呼ぶ。
 最初はそれを不思議そうに見ていたスタッフも、慣れたらしく寛容な態度ですごしてくれてるんだけど。
 ……うー。
 やっぱり、気になる。
 っていうかね。
 私、これまで『さん』付けで名前を呼ばれたことがないのよ。
 大抵、いつも呼び捨て。
 だから、調子が狂ってしまう。
 そりゃまぁ……彼が年下だからっていうのもあるんだけど。
 でも、これまで『彩先生』だったのが、『彩さん』になっただけでも、やっぱりドキドキしてしまう。
 ……ああもう。
 なんか、中学生みたいだわ。
「……えと。この患者さんなんだけど、さっき電話で診てもらえないかって言われたの。調整利く時間、あるかな?」
「あ。それじゃあ、見てみます」
「お願い」
 手に持ったままのカルテを彼に渡すと、ちょっとだけ指先が触れた。
「…………」
「彩さん?」
「え!? あ、ううん。……ごめん、なんでもない」
 途端に固まった私を、不思議そうに見つめる彼。
 慌てて首を振ると、くすくす楽しそうに笑って受付に戻っていった。
 ……くぅ。
 頬に触ると、熱い。
 ああ、赤くなってたのか……やだ、私ってば純情。
 なんて馬鹿なことを考えながら診察室に戻り、今日も1日がんばるぞーっと気合を入れてから椅子に座る。
 丁寧な対応と、わかりやすい説明。
 それを心がけてから椅子に座るのが、毎日の始め方だ。
 ミスなんて、あっちゃいけない。
 人間だから、間違えてしまうこともあるだろうけれど……でも、患者さんは私たちを信用して来てくれているから。
 だから、私たちも精一杯の努力をしなければいけないんだ。

 一度してしまったら、二度目はない。

 免許を取ったばかりでここに座ったとき、父に言われた言葉だ。
 ……ふぅ。
 深呼吸をしてから、パソコンを立ち上げる。
 今日も1日、診療に専念。
 流れた音楽で時計を見ると、ちょうど診察開始時間の9時を示していた。
「彩先生、お願いします」
「うん。いつでもどうぞ」
 こちらを覗いたさゆちゃんに笑顔でうなずくと、ほどなくしてドアがノックされた。

 私にとっては、強烈だった。
 巧君の『お試し彼氏』宣言をされた夜にされた、頬のキスが。
 ……ですが。
「お昼、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃいー」
 毎日にこやかにあいさつをしてくれるそんな張本人とは、これといって進展はないまま。
 普通に毎日顔をあわせて、一緒に仕事して……そして、彼は当たり前だけど自分のお家へ帰っていく。
 うーん。
 あのキスは、なんだったんだろう。
 ていうか、提案自体も微妙に……。
 頬杖をつきながら卓上カレンダーを見ていると、もうあれから3週間近くが経とうとしているのに気づいた。
 お試し彼氏って言われても、ふたりきりでどこかに出かけるわけでもない。
 仕事が終わって、ごはんを食べに行くわけでもない。
 ほかのスタッフとほとんど変わる点はなく、普通に会話して、仕事して……おしまい。
 ……んー。
 なんなんだろうか。この関係ってば。
「……あ」
 ふと気づいてしまった。
 私……彼のこと、意識してるよね。
 しかも結構かなりの時間。
 あれだけ年下がどうのとか言ってたクセに、彼の行動ひとつひとつがイチイチ目に付いてしまって仕方がない。
 しかも、何も言われないし何も手を出されないのを、心配すらしている始末。
 ……ヤバい。
 いやいやいや、っていうか嘘でしょ。
 私が……彼を?
 まさか。
「彩さん」
「わ……ッ!?」
「っ……! あっぶな……」
「……ご……ごめん……」
 びっくりして椅子からずり落ちそうになったところを、彼が慌てて支えてくれた。
 ……参りました。
 いかにも簡単に身体を元の位置に戻され、まじまじと見てしまう。
 彼の男っぽさをまた実感。
「メシ、行かないの?」
「え? ……あ、うん。気にしないで」
「……そう?」
「ん。おいしいの食べてきてね」
「わかった」
 う、わぁ……またそういう、かわいい顔して。
 …………んー、どうしよう。
 でも、好き……なのか? 私は。
 単に、ちょっと気になってるだけなんじゃ……。
 って、それは好きってことじゃん、馬鹿ーーー!
 机に伏せるように両手で頭を抱えると、すぐそこにあった電話が鳴った。

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