あらやだ、珍しい。
「もしもし」
 ディスプレイの名前で電話を取ると、案の定元気な声が返ってきた。
 わたくし愛用の携帯電話。
 スマートフォンではなく、いわゆる電話はガラケーのままですのよ。
 電話以外のメールやインターネット用にタブレット端末を持っているのもあって、特に不便はない。
「ん? うん。いいけど」
 相手は、幼馴染できっと近い将来義理の妹になるであろう子。
 近くまで来たから、よってもいいかーっていう電話だった。
 ちょうど昼休みだし、まぁいいか。
 とはいえ、すでに鍵は閉めちゃってるから、玄関までお出迎え。
 患者さんの入り口――ではなく、スタッフの通用口から外へ出る。
 外は気持ちいいくらい、よく晴れていた。
 2段ほどの階段を降りて道路を眺める……あ。いた。
「なーに、珍しいじゃない。こんな時間に来るなんて。また喧嘩?」
「う。あのね、彩ちゃん。私、さすがにそんな喧嘩ばっかりしてないよ?」
「あらそ? それならよかった」
 両手を白衣のポケットへ突っ込んだまま笑うと、優菜は唇を尖らせた。
 あらやだ、かわいいこと。
 いつも、私のところへ電話がくるときは、大抵うちの仏頂面な弟と喧嘩したって話ばかりだったから、まさかまさかだわ。
 そーかそーか。仲よさそうでなによりです。
「今日はね、綜から預かりものしてきたの」
「綜から?」
 ごそごそとハンドバッグを漁った彼女は、あったあったと言いながら透明のCDケースを取り出した。
 CD? 珍しい。
 実はうちの弟、そのへんでは知らないけど、知ってる人は知っている、ヴァイオリニストなのよ。
 だから、彼自身何枚かCDをリリースしてることは知ってるけど、まさかこんなふうに『いかにもある意味オリジナルです』って代物を突き出されるとは思わなかったわ。
「……あ! もしかして!!」
「へ?」
「ねえねえ、これって綜が私にくれるって言ったの?」
「うん。なんかね、昨日帰ってきてすぐ渡されたの。……どうせお前は暇なんだから、彩へ届けてこいって」
 そんでもってついでに、俺の部屋の荷物を取ってこいだって。
 ぶつぶつとそれはそれは深いため息を吐いた優菜に、苦笑が漏れる。
 け、ど!
 ひょっとしてこれって、あれじゃなくて?
 この間私がお願いした、オリジナルディスク!!
「うわ、うわー! だとしたら、すっごい嬉しい!」
「へ? 彩ちゃん、中身何か知ってるの?」
「あーまあ、多分だけどね。こないだ、私が依頼したのよ。何曲か弾いてくれって。まあ、綜から直接言われてないし、確かめてもないからわかんないけど……でもでも、だとしたらすっごい嬉しい! ありがと、優菜!」
「そうなの? なあんだー、それならそうって言ってくれればいいのにね。相変わらず、綜ってば口数少なすぎ」
 からから笑った彼女を見ながら、受け取ったディスクを両手で包む。
 文字すら書かれてない、まっしろいレーベル。
 でも、ヤツはなんだかんだ言って真面目だから、多分ちゃんと仕上げてくれたんだと思う。
 はーもー、持つべきものはちゃんと言うこと聞いてくれる優秀な弟だわ。
 姉の立場って、ほんと最高。
「あ、そーだ。はい、彩ちゃん。これもおすそ分け」
「え? って……何よ、優菜ってば海外行ったの」
「私ではなく、お宅の弟様が」
「へー、いつの間に。まあでも、ちょうどお茶受けなかったのよねー。ありがと、いただいとく」
 恭しく両手で差し出されたのは、いわゆる外国の定番のお土産でよく見る、マカダミアナッツのチョコレート。
 あれって、すごーく甘いけど、ナッツはおいしいのよね。
 そういえば、いつだったかウチの親のハワイ土産でもらったのをスタッフルームに置いておいたら、あっという間になくなってたっけ。
「あ。じゃあ、そろそろ行くねー」
「あら何よ、もう行くの? 今回、積もる話全然聞いてないけど、平気?」
「うん、まあ……てへへ。最近はそこそこ仲良くしておりますです」
「そっか、それならよかった。また何かあったら、いつでもどうぞ。カウンセリングは、ランチ代で受けてあげる」
「ほんと!? やたっ、じゃあじゃあ、今度のお休みの日に行こうよ! 前に行ったパスタのお店、リニューアルして焼きたてパン食べ放題始めたんだって」
「へー。それいいわね。ん、わかった。じゃ、また連絡してちょうだい」
「わーい!」
 それはそれは嬉しそうに……っていうか、まるで小さな子どもみたいに笑った優菜は、両手をあげてバンザイを見せた。
 あー、あーたってばほんと素直でかわいいわね。
 そういうのが私にもちょこっとあったら、また違うのかな……って、いいのよ私のことはおいておいて。
「んじゃ、またね」
「うんっ! 彩ちゃん、ありがとー!」
「どーいたしまして」
 どうやら着信があったらしく、優菜はスマフォを耳へ当てるとぶんぶん大きく手を振った。
 その様子がいかにも彼女らしくて、こっちまで笑みが漏れる。
 さて、と。
 それじゃ早速、午後の診察からお手製CDをかけさせてもらいますか。
 そんでもって、おやつの配給と……って、まずはごはん食べなくちゃね。
 そろそろお腹空いたし。
 まぁとりあえず、チョコをいただくか。
「……しょ、っと」
 さすがにひとりでは食べきれないので、スタッフルームにそのまま向かう。
 今ごろは多分、さゆちゃんがテレビ見ながらお茶飲んでるはずだから。
 医院のドアを開けて、1番奥にあるスタッフルームに足を向ける。
 ……あれ? 珍しい。
 いつもはぴっちり閉まっている『STAFF ONLY』のドアがちょっと開いてた。
 ったくー。
 いくら休憩時間だからってテレビ見てるの患者さんにバレたら、いい気しないでしょ。
 そう思いながら隙間に手を入れて、ドアを――。
「……っ……」
 引こうとした途端、閉めようという心理が働いた。
 喉が鳴る。
 ……何?
 早鐘のように打ち付ける鼓動がうるさい。
 見ちゃいけない。
 自分の中でそういう警鐘がなっているのに、足が動かなかった。
 ……なんで……?
 っていうか……何……? コレ。
 声が出そうになって口元に手を当てると、瞳だけが動いた。
 何を話してるのかまでは、さすがにわからない。
 だけど、少し照れたようなさゆちゃんの顔と――笑みを見せている巧君の姿はわかる。
 それだけじゃない。
 ……今、ふたりとも抱き合ってたよね?
 楽しそうに笑って話をする姿は、いかにも『付き合ってます』っていう感じがした。
 あー…………そっか、なるほど。
 そう、だったのね。
「………………」
 すっ、と肩から力が抜けた。
 そして、そのまま回れ右をする。
 診察室のドアを開け、中に入ってからドアに背を預けると、自嘲気味な笑みが浮かんだ。
 ……なんだ。
 ちゃんとした彼女がいたんじゃない。
 だから……私に『お試し終了』宣言も何もなかったんだ。
 確かに、さゆちゃんはずっと彼のことを気に入っていた。
 それは私から彼に言ってもいたし、彼も気づいていたんだろう。
 なんだぁ。
 そうならそうって言ってくれればよかったのに。
 ……そうすれば……私だって、こんな嫌な気持ちにならないで済んだのに。
 私、馬鹿だなぁ。
 今ごろ、もう遅いのに。
「……なんだ」
 小さな言葉が漏れ、自重気味な笑みが浮かぶ。
 今ごろ気づいたって、遅いのに。
 子どもと一緒ね。
 自分だけのもので誰も邪魔しないときは見向きもしないのに、誰かがそれを取ろうとすると抵抗を見せる。
 ……彼は、おもちゃなんかじゃないのになぁ。
 ぽん、と机にチョコを置くと、自然に薄い笑みが出た。
 ちゃんと、私から言わなくちゃね。
 お試し期間が終了したってこと、は。
 カチカチと響く時計の音を聞きながら、再び誰もいない診察室に戻るとため息が漏れた。

「……え?」
「だから、お試し期間おしまいでしょ?」
 その日の診療を終えて戸締りをしながら巧君に言うと、持っていたカルテを束ねたまま顔を上げた。
 外はすっかり暗くなっている。
 ……うーん。さすがに冬は時間が経つのも早いなぁ。
 窓の鍵をすべてかけてからカーテンを閉め、彼に向き直る。
「ね?」
 うん、大丈夫。
 ちゃんと笑えてるし。
 さすがは年上のおねーさんじゃないの。
「じゃあ、認めてくれるの? 俺のこと」
「もー。そんなわけないじゃない」
「え……だめ?」
「ダメです」
 少し寂しそうな顔を見せた彼に、思わず胸が詰まる。
 ……そんな顔しないでよ。
 っていうか、泣きたいのはこっちなんだから。
 カウンター越しに向き合うと、彼がため息を漏らしてから弱く笑った。
「っ……」
 男の人の儚い笑顔なんて、初めてかもしれない。
 女性なんかより、ずっと壊れてしまいそうだ。
「やっぱ、彩さんはハードル高かったか」
「……違うでしょ?」
「え?」
「だから、そんな顔しないの!」
 彼の腕を軽く叩くと、視線が落ちた。
 ……ヤバい。
 彼のこと、まっすぐ見れないぞ。
「巧君、優しいよね。言ってくれればよかったのに」
「……え? 何を?」
「私、そんなに言い出せないようなオーラ出してたかなぁ?」
「彩さん?」
 ぎゅっと、両手に力が入る。
 ……参ったな。
 私、思った以上に弱いや。
「さゆちゃんねぇ、すごくいい子なんだよ」
「……それは……まぁ。わかるけど……」
「でしょ? 人一倍仕事に対してプライド持ってて、かわいくって。女の子ーって感じするよね」
「うん……」
「だから。泣かせたら怒るからね」
 とんっと、胸元を手の甲で軽く叩くと、驚いたように彼が瞳を丸くした。
 ようやく、笑みが浮かんだ。
 ちょっとムリヤリ作った感じは否めないけれど、それでもいたずらっぽい笑みは崩れてないはず。
「さぁて、と。今日もおしまーい」
「……彩さん」
「あ、戸締りするから、そこから出ちゃっていいよ?」
「彩さんってば」
「っ……」
 ぐいっ。
 巧君に背を向けてスタッフルームに行こうとすると、手首を掴まれた。
 おっきい手。
 しかも温かくて。
 ――そのまま引き寄せられたら、抵抗しないかも。
 って、それはずるいよね。私。
「三河さんと俺とのこと、何か関係あるの?」
「……やだなぁ。それは私のセリフ」
「え?」
 振り返らないままでの、言葉。
 だって、こんな顔見せられないじゃない。
 かっこ悪いでしょ、私。
 だってさ、嫉妬してるんだもん。
 なんでって思っちゃってるんだもん。

 『私が好きだったんじゃないの?』

 彼にそう言ってしまいそうで、情けなかった。
 自分勝手なもので、巧君が私へ向けてくれていた気持ちに甘えていたくせに
「お疲れさま!」
 ぱっと手を振り払って、彼を見ずに家へのドアを抜ける。
 後ろ手にドアを閉めると、息が漏れた。
 ……よかったんだよ、これで。
 だって、こうしなくちゃ彼はさゆちゃんのところにまっすぐいけないじゃない。
 私に変な気を遣わせるのもかわいそうだし、大人気ないし。
 都合よく考えているだけなのかもしれない。
 でも、それでもいいじゃない。
 ふたりが幸せになれるなら、少しくらい泥を被ったって。
「……久しぶりにうまくいくかなぁって思ったんだけどな……」
 ぽつりと漏れた言葉。
 彼に宣言された日の夜のように、今日も少しだけ暖かな夜だった。

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