「ねえ、綜」
「なんだ」
「新進気鋭の超有名人らしいじゃない、その人」
「……誰が?」
「だから、今日指揮する人」
怪訝そうな声で顔を上げた綜に向かって、今日のポスターが貼られている壁を指差す。
……あら、珍しい。
と、思ったのも束の間。
珍しく素直に従ったかと思いきや、見たか見ないかの瞬間に顔を戻す。
「気にならないの?」
「何がだ」
「だって、ほら見てよー。すごい特集組まれてるのよ?」
「だから?」
「え? いや……だから……」
そんな、思いっきり冷めた目で見なくてもいいじゃないのよ。
あー、はいはい。わかりました。
綜様は俺以外興味ないもんね。
それこそ、彼は他人になんて言われてようとも気にしないと思う。
なんていうかこー、鋼鉄の心とでもいうか……。
あ、いや。それよりも硬いダイヤモンドっていう名称のほうがいいかもしれない。
同じダイヤじゃないと、傷つかないっていうアレね。
綜が傷つくようなこと言える人なんて、誰かいるのかしら。
「……ふーん」
えーと、どこまで読んだっけ。
雑誌へ視線を戻し、読み途中の行を探す。
なになに?
新進気鋭の天才指揮者、東堂郁武。
……へー、年は綜と一緒なんだ。
なんでも、高校卒業と同時に単身ヨーロッパへ渡り、向こうで指揮について学んだらしい。
綜とは違ってなかなか優しそうな人で、記事の評判も上々だった。
ほら見なさい。
こうして性格のよさそうな人は、それだけで得するんだから。
……あ、まぁ綜も他人にはいい人っぽく見えてるみたいだけどね。
みんな、騙されてること自覚しなくちゃ。
って、今日のコンサートのことも書かれてるじゃない。
どうやら、この人目当てに来る人が多そうだ。
まぁ、そうだろうけど。
だって、若くて才能もあって――しかも、どっかの誰かさんとは大違いで優しそう。
だとしたら、ねぇ?
誰だって好感持ちますよ、そりゃ。
「うわ!?」
び、びっくりした!
東堂さんの特集記事を読み終えてからページをめくったら、いきなりそれはもうよく見知った顔がそこにあったんだもん!!
……っていうか、ちょっと待ってよ。
何!? この、めちゃめちゃいい人っぽい顔は!!
「…………」
雑誌内の綜と、目の前の彼とを二、三度見比べてみる。
ほんとに同じ人かしら、これ。
写真技術って怖い。
……って、写真撮ってた私が言ったらダメな気がするけど。
『ヴァイオリンの申し子、かくも語る』
何これ。こんな扉絵にそんな言葉背負っちゃって……。
嘘くささ炸裂なんだけど。
いったいどんな偉そうなこと語ってるのかしら、まったくの無表情でヴァイオリン磨いてるおにーさんは。
……こんなふうに、私にはずぇったい見せないような笑み浮かべたままで。
なになに?
『今度の競演では、有意義な時間を共有したい』ですって? あの、綜が!?
むぁちがいなく今の彼からは聞くことのできない言葉だと思うわ。
「……ちょっと、綜」
雑誌を見つめたまま彼を呼ぶ。
……ん?
「綜?」
「なんだ」
「って、何よ。どこ行くの?」
咄嗟に出た言葉だけど、あ、そうか。うん。
わかってるからそんな顔しないで。
つい、出ちゃったのよ。つい!
いかにも『お前馬鹿だろ』という顔をした綜に眉を寄せると、大げさにため息をついて椅子から立ち上がった。
その手には、ヴァイオリン。
ええ、ええ。知ってますよ。
時計を見ると、リハーサルの時間が差し迫っているのが見えたんだから。
「そういう本ばっかり読んでると、馬鹿になるぞ」
「んなっ!? なりません!!」
「お前、そういうのハナから信じ込むだろ。書かれてること全部鵜呑みにして」
「……え? そりゃ信じるじゃない。雑誌に書かれてるんだから」
「それが馬鹿への一歩なんだよ」
「なんでよ! っていうか、馬鹿馬鹿言わないでくれる? 失礼ね」
「もう少し頭を使え」
「くっ……」
あーもー、相変わらずなんなの? この人。
この雑誌の出版社に電話してやろうかしら。
芹沢綜はこんな人間じゃない、って。
眉を寄せて彼を見ていると、こちらに背中を向けてとっととドアへと向かった。
「え? 何?」
「ドア」
「くっ……あのねぇ。私はいつからドアマンになったのよ」
ドアの手前で私を振り返った綜を見たまま、小さくため息をつく。
ていうか、私がいないときはいったいどうやってドア開けてたのよ、じゃあ聞くけど!
そりゃ、ヴァイオリンと弓を持ってるからってのはわかるけどさ。
それにしたって、『ドア』じゃないでしょ。
そこは開けてくださいお願いします、じゃないのかしら。
「はいどーぞ」
「ああ」
「ちょっと。そこは、ありがとうって言うのよ?」
「…………」
「もーなんなのよ、その顔。付き人だからって、なんでも当たり前に思っちゃいけないんだからね? 人間、何事も感謝ってものが必要で……って綜!」
ドアノブを握ったまま人として大切なことを説いてあげたにもかかわらず、綜はすたすたと廊下を歩いて行った。
ちょっと。なんなのあの人は。
唇を噛んで悔しさをにじませはするものの、絶対振り返らないってわかってるから、仕方なく小走りでそばへ向かう。
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
廊下を行き交う人たちはみんな、綜へ挨拶の言葉を投げかける。
そして、今しがた私にはあいさつの『あ』の字も言えなかった綜だけど、人が変わったように……いや、実際変わってるわね。
雑誌同様、にこやかなあいさつを口にしていた。
みんな、騙されているとも知らずに……かわいそうだわ。
この人の内面は、ドス黒いタールよりもべったりと重たいもので満ちあふれているというのに。
「……わぶ!」
きょろきょろしながら歩いていた私もいけないとは思うけど、突然綜が立ち止まったせいで、背中へ思い切りタックルをかましていた。
でも、ダメージを受けたのは私だけらしい。
綜は振り返ることもなく足を止めたまま、動かない。
「……? なぁに?」
状況がわからず、ひょっこりとあちらをのぞいてみると、人がいた。
それもーー見たことのない、明らかにオーラの違うその人が。
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